天罰には、怖いイメージがある。

 
何か未知なる力によって、災いが降りかかるというイメージだ。
 
似たような意味で、自業自得という言葉がある。
 
これは、自分の業(行為)を自分が得るという意味だ。
 
自分の行いが自分に戻ってくるということだが、通常は、悪い意味で用いられている。
 
ただ、天罰とは少しニュアンスが違うように思う。
 
自業自得は、自分の行為がそのまま戻ってくるが、天罰となると、自分の行為以上の罰が戻ってくるようなイメージなのだ。
 
そもそも、自業自得といった現象が本当にあるのかは、わからない。
 
人々の経験から言われているだけで、科学的に検証されたわけでもなく、検証することすら不可能だ。
 
ましてや天罰などというのは、根拠のない迷信か、場合によっては、人を脅すための手段にすらなり得る。
 
したがって、安易に天罰という言葉を用いるべきではないと思うし、本当にそういう現象があるのかどうかについては、冷静に見てみる必要があるだろう。
 
人々の経験として、天罰という現象が実際にあるのかどうかを調べてみる必要があるのだ。
 
そして、確かにそういう現象が見られた場合でも、それが本当に天罰なのか、それとも偶然の一致なのかを精査することが大切だ。
 
ここで、天罰の実例として、ある弁護士の文章を引用したい。
 

弁護士の長谷川洋二先生が、雑誌に寄稿された文章だ。

 

私は、無神論者で無宗教で何の思想もない。
が、弁護士を続け他の人生を眺めているうちに、神は存在し天罰は下ると確信した。
神は法律で裁けない悪行を確実に裁き、天罰を落とすのだ。
これは恐い。
なぜなら、法の罰は罰金とか懲役など受ける罰が事前に決まっているが、天罰はいろいろに形を変えるからだ。
今から22年ほど前、私は飲み屋でケンカし包丁で相手方を刺し殺した男の弁護をした。
彼は私に、殺意はあったが、なかったことで弁護してほしいと依頼した。
悩みつつも私は殺意を否定し殺人罪は成立しないと法廷で戦った。
なんと裁判所は私の主張を認め殺人罪ではなく傷害致死罪で懲役6年だけの刑に処した。
殺すつもりで殺したのに殺人罪にはならなかったのだ。
弁護士としては勝利したが、人として後味の悪い勝利だった。
かくして、彼は6年も経たないうちに出所した。
が、恐るべし、7ヶ月後、肺がんでゴミのように死んだ。
私にもその頃、不幸があった。
天罰が落ちたと思った。
また、ある組織に数十億の不正融資の問題があった。
関与した3人は数年はその金で贅沢三昧をしていたが、やがて1人は失明し、1人は喉頭がんで声を失い、1人は社会的地位を失った。
彼らの行為は法的には裁かれなかったが神が裁いた。
妻が妊娠中に彼女を作り、その彼女にも妊娠させた男がいた。
彼は妻には出産を、彼女には中絶を強いた。
彼女は不倫関係故に彼には何の請求をもできなかった。
請求すれば彼の妻から逆請求されるからだ。
まもなく、彼は、プレス機で両手をつぶされ、生まれた赤ちゃんを両手で抱けなくなった。
こんな事例がいくつもある。
悪事をしたものが法律で裁かれるのは、その者にとって安心できる裁かれ方だ。
なぜなら、裁かれ方が法律で決められているからである。
しかし、神は違う。
天罰はいろいろな形で悪人を苦しめ、時には命を奪う。
神は万能なのだ。
「天網恢恢、疎にして漏らさず」とは、神はどんな悪事も見逃さない網を張っているという格言だが、私はこの言葉を信ずる。
金で買えないものは無いと断言した傲慢な経営者は実刑判決を受けたが、彼は法律の裁きを受けただけでも想定の範囲の処罰で助かったというべきである。
仮に法律の裁きを免れたなら、彼の身に天罰が落ちたであろう。
最後に、神がいるということは逆にいうと、真面目にコツコツ誠実に思いやりを持って生きている人には幸運が保障されるということだ。
神はそれぞれの生き方に応じて、天罰と天恵を選択して与えてくれるのである。
愛、幸福、微笑み、自然、心の安らぎ、これら生きていく上で一番大切なものはすべて金で買えないのだ!
神が誠実で優しい貴方にそっと与えてくれるのだ。
悪人には天罰を下すようにね!
(「月刊 かみいな」弁護士 長谷川洋二氏の記事)


現象として、このようなことは確かにあるのかもしれない。

長谷川弁護士の体験だけではなく、他にもこのような話を私は知っている。

しかし、悪いことをしながら、天罰もなく、社会的な制裁を受けない人々もいる。

もし天罰が存在するならば、この矛盾をどのように説明すればいいのか。

もしかしたら、このような天罰でさえ、何らかの学びのために起こっているのかもしれない。

 

つまり、本人の本質が学ぶことを欲した場合のみ、このようなきつい現象が起こるのかもしれないと。

もしそうであるならば、それは罰ではなく、学びのための試練ということになる。

 

私は、人に起こるつらい現象には、必ずそこに、何らかの学びが含まれていると信じている。