他者との一体性と高度な自立の両立

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの最終回です。心理療法では、依存的な精神状態から、自立した精神状態へと導いていくことが重要になります。精神分析の対象関係学派であるバリントの理論では、依存的な状態を「オクノフィリア」と呼び、自立した状態を「フィロバティズム」と呼んでいます。

 

(4)内観における「退行」の位置づけ

 

内観の治療論で、ある人は、内観では退行はほとんど認められないといい、またある人は逆に、内観では退行的要素がきわめて豊富だという。

これは、臨床的にはどちらも正しく、理論的にはどちらも不正確である。

以下、内観における退行の問題を、バリント(Balint, 1959;1968)の治療論・退行論を援用しつつ整理してみたい。
 

「退行」とは、患者が単に子供っぽくなることではなく、心理的に広範な体験を含んでいる。

小此木(1975;1985a)が指摘するように、退行には病的な色彩が濃いものと、より健康的なものとが区別され、精神分析的には、退行は正常にも病的にもはたらく自我の基本機能の一つだとみなされている。

 

精神分析の具体的な治療との兼ね合いで「退行」を詳しく取り上げたのがバリントである。

バリント(Balint, 1968)は、古典的な精神分析が扱うエディプス・コンプレックスの処理だけでは十分な治療が行えない重症患者を基底欠損患者と呼び、エディプス・コンプレックス以下の退行を認める治療では、次の三型の原始的対象関係すべてに遭遇することを明らかにした。

すなわち、①オクノフィリア(ocnophlia)、②フィロバティズム(philobatism)、③最原始的な調和的相互浸透的渾然体(harmonious interpenetrating mix-up)の三つである。

 

バリント(Balint, 1959)は、オクノフィリアとフィロバティズムは対をなす正反対な現象であると述べており、これは内観における「退行」理解にきわめて有用である。

伝統的な対象関係論の用語を使えば、オクノフィリアは妄想・分裂的態勢に相当し、フィロバティズムは抑うつ的態勢に相当する。
妄想・分裂的態勢も抑うつ的態勢も、ともに純粋な対象関係論的な概念であり、一方、バリントのオクノフィリア、フィロバティズムは精神療法の退行論や空間論と密接に関連している。

それゆえに、内観特有の構造や空間設定の意味を理解するには、バリントの理論のほうが比較のためのツールとしては使いやすい。


オクノフィリアは、依存対象にしがみつき、対象を内に取り込もうとする特徴があり、対象なしでは自分がよるべない、安全を保障されない存在だと感じる。

オクノフィリアは、一対一の閉じた関係(私・あなたの二者関係)で展開する依存的な退行現象であり、そこには愛憎一如の被害的攻撃性が随伴する。

「精神分析」「退行」「転移」というと、一般の精神療法家は依存・攻撃に満ちたこうした一対一の治療者・患者関係をイメージする。

この種の「退行」は内観では厳しく制限されており、そもそも一対一の治療者・患者関係(内観者・面接者「関係」)で病理を処理する仕組みがなく、面接者が「不問的」態度を基本とする内観では、オクノフィリアが展開する時間・場所はそもそも想定されていない。

一対一の関係、オクノフィリアの文脈で「退行」をとらえるならば、内観では退行はほとんど認められないのである(川原、1996)。
 

バリントの退行論でオクノフィリアとまったく相反するのがフィロバティズムである。

バリント(Balint, 1959;1968)はそれについて、次のように述べている。フィロバティズム的世界では、対象を欠いた広袤(空間のひろがり)が原初の一次備給を受けつづけ、安全友好的なものとして体験される。

そこでは、「対象」こそ、いつ裏切るかもしれない危険性があると感じられ、まったく対象の援助なしで独力で自己を維持するための一種の技量が身につけられる。

分析用語でいえば、フィロバティズムの主体はみずからの自我機能あるいは友好的空間にリビドーを過剰備給しており、そこは視覚と安全な距離とで構造化された世界である。

フィロバティズムは、主体と客体(対象)が別個の存在であるという事実を感情的に受容してはじめて成立する態度であって、抑うつ的態勢以後の現象である。


筆者(長山、1994)はかつて、フィロバティズムの特徴を、①対象の回避と友好的空間への親和性、②視覚的属性、③沈潜と定着−「自分」の出現、④時熟の側面、⑤退行と現実適応の二面性、の5点に整理した。

ここではとくに関連する①と⑤について詳しく見てみよう。
 

フィロバティズムは退行的な現象だが、オクノフィリアのように一対一の関係の様式をとらない。

それどころか、フィロバティズムの患者は対象を欠いた広袤あるいは「友好的広がり」に身を任せ、対象を回避するのが特徴である(Balint, 1959; 1968)。

そこでは、治療者は一個の対象としてふるまうことを拒否され、患者は治療者がともにいることを示すかすかなサイン(椅子をきしらせる音や治療者の呼吸音など)を望み、助言や解釈はいっさい不要で、治療者も「友好的広がり」のなかに完璧に溶け込んでほしいと願うという(Balint, 1959)。

つまりフィロバティズムでは、直接的な人間関係ではなく、『ひとりでいる』こと、友好的空間に溶け込むことが重要で、治療者はあくまで共感的な「絆」として機能する。

フィロバティズムのこうした特徴は、まさに内観という方法に見事に具現化されている。

屏風を使った半遮蔽的なセッティング、面接者の深い傾聴に裏打ちされた不問的態度や作法、さらに「通し間」で複数の内観者が言葉を交わさずに内観を行うやり方、食事時に流される先輩内観者のテープなど、これらは一対一の関係や心の内面への侵入を回避しつつ、効果的に共感的な「人の気配」を利用してフィロバティズム的な「ひとり」の場を創り出している。

 

次に⑤のフィロバティズムの「退行と現実適応の二面性」を見てみよう。
フィロバティズムでは主体は安全地帯(ホーム)から一度は離れ、再びそこに再結合するという技量を身につけており、スリリングな運動で特徴づけられる(Balint, 1959)。

フィロバティズムはそうした困難に「道具」を使って敢然と立ち向かう英雄の姿でイメージされ、それは「立つ」(stand)ことと密接にかかわっている。
 

フィロバティズムはオクノフィリアと違い抑うつ的態勢を通過しており、一見、非常に発達した態度に見えるが、そこにはオクノフィリアよりもさらに原始的で無構造な調和的相互浸透的渾然体につながる要素が含まれている。

つまり、フィロバティズムの世界は次の二つの態度の奇妙な混合状態から成り立っている。

一つは、外界への厳密な適応を可能たらしめる個人的技量の獲得であり、それには絶えざる努力、注意、自己批判が必要であり、注意深く「見る」ことや「立つ」ことが関係している。

もう一つは、「友好的広がり」が自分を安全に包んでくれるとの幻想に身を委ねる退行的側面で、そこでは、世界は「腕に嬰児をしっかりと抱える愛情深い母親」に変貌している。

フィロバティズムはこれら二つの要素の微妙なバランスのうえに成り立ち、現実適応の高度なスキルゆえに、最原始的な調和的相互浸透的渾然体への退行を、幻想のなかだけでなく現実でも実現させることができるとされる(Balint, 1959)。


このフィロバティズム的な「退行と現実適応の二面性」こそ、相手の立場に立って「迷惑」をみつめ直す内観の原理であり、内観三項目はそうしたフィロバティズム的な自己批判的自己省察を援助する「道具」としてはたらく。

内観の「場」における深い「退行」や信頼に満ちた「ひとり」の空間に支えられて、人は己を外側から冷静にみつめ直すことが可能になる。


これまで内観で「退行」の位置づけが混乱していたのは、退行をどうとらえるかが整理されていなかったからである。

一対一の関係の文脈(オクノフィリア)で退行を理解すれば、内観ではそれは厳しく排除するよう仕組まれており、それゆえ、「退行はほとんど生じない」ことになる。

しかし、退行を「場」への沈潜や融合というフィロバティズム的な文脈で理解すると、まったく逆のことがいえる。

フィロバティズム的「退行」の意味でいえば、内観ほど深い退行が生み出される精神療法を、筆者はほかに知らない。

オクノフィリア的退行とフィロバティズム的退行を実践的に厳格に区分けしているところが、内観の最大の特徴である。
 

バリント(Balint, 1968)によれば、発達論的にはオクノフィリアの系列とフィロバティズムの系列の二系列が存在するという。

オクノフイリア系列のキーワードは「関係性」であり、二者関係のオクノフィリアが抽象化・内在化されて三者関係のエディプス・コンプレックスが生まれる。

一方、フィロバティズムの系列からは「創造領域」が生まれ、そのキーワードは関係性ではなく、「ひとりでいる」「見る」「友好的空間への融合」である。
 

オクノフィリアにせよエディプス・コンプレックスにせよ、それらは関係性によって成立しているので、精神分析の方法論にはなじみやすい。

ところが、フィロバティズム系列はそもそも関係性の文脈でとらえることができないので、転移という方法論をとる精神分析には不得手な領分である。

精神分析でも古くはE ・エリスの「創造的な退行」、自我心理学者ハルトマンの「葛藤外の自我領域」、対象関係論のウィニコットの「ひとりでいられる能力」「移行対象」など、バリントのフィロバティズム系列に相当する理論は存在している。

しかし、バリント(Balint, 1968)もいうように、オクノフィリアの系列に比べてフィロバティズムの系列にはまだまだ臨床的・理論的に未開の大地が大きく残されている。
治療的退行論から内観を見直すとき、そこにはフィロバティズムが見事に具現化されていることがわかる。

内観は、精神分析では困難なフィロバティズム系列の臨床研究の宝庫であり、この点で、内観は精神療法全般に大きな貢献を成す可能性を秘めている。

 

ゆう:依存と自立?

 

Shin:オクノフィリアが依存・攻撃的な状態で、フィロバティズムが自立した状態。でも、フィロバティズムは、本当の意味での他者との一体性につながっている。

 

ゆう:よくわかんない。

 

Shin:オクノフィリア的な他者との融合と、自立を経て生み出される真の一体性とは、似ているようで全然違うということだよ。

 

ゆう:同じように見えるのに?

 

Shin:オクノフィリアの場合は、依存なんだよね。そこには、相手を思い通りにしたいという心理が隠れている。フィロバティズムは、相手に対する諦めがあるんだよ。それが「ひとりでいること」の安らぎのようなものを生み出す。この段階に至って初めて、本当の意味での外界との融和が生み出される。

 

ゆう:混じり合っても、自分を失っていないみたいな?

 

Shin:融合と融和の違いかな。でも、そういう違いが明確に理解されていないから、融和だと言いながら、融合になっている場合が多いよ。

 

ゆう:わかりにくいなぁ。

 

Shin:同じように見えても、質が全然違うことがある。何事もそうなんだけど、同じ概念でも、低いレベルで捉えている場合と、高いレベルで捉えている場合があって、世間で流行するものは、大抵低いレベルで捉えられているものだよ。

 

ゆう:どうしてそうなるの?

 

Shin:高度なものは広まらない。時代が追いつかない。でも、後の時代に人々の意識が追いつけば、それが広まる場合もある。でも、広まらないまま、叡智が失われることも多い。

 

ゆう:それはもったいないね。

 

Shin:でも、意味はあるんだよね。そういう叡智は、潜在的に人類の集合意識に影響を与えるから。

 

ゆう:高度だと理解できないというのはあるよね。

 

Shin:知的には理解できなくても、意識は良い影響を受けているから、それでいいんだよ。こういうバリントの理論も、専門的に研究している人ではないと、わからないよね。でも、何となく、そこに真実があるのではないかと感じるものだよ。それでいいんだよ。

 

ゆう:本物に触れるということかぁ。

 

Shin:こういう難しい理論も、何となく読むだけで、脳が活性化するんだよね。それだけでも、ものすごく意味があることだよ。その結果、何となく本物の理論や技法というのが、分かるようになってくる。その感性を磨くことが大切なんだよね。

 

ゆう:そういう感性が大切なんだね。

 

Shin:結局、その感性があるかないかで、大きく変わってくるんだよ。それは、本物にいかにたくさん触れるかなんだよね。本物というのは、歴史の淘汰を経ても残ってきたような文献や作品に多い。人類は、そういう作品のパワーというものを潜在レベルで感じているからこそ、それを引き継いできた。

 

ゆう:でも、本物過ぎて、失われてしまうものもあるんでしょ?

 

Shin:そう、大衆性を帯びた多くの作品は、時代とともに消えていく。でも、同時にあまりにも高度過ぎて、人類に理解されない作品も消えていく。でも、そういう高度な作品は、誰かが裏で引き継いでいるんだよね。秘伝とか、秘仏みたいな感じで。

 

ゆう:なんか怪しくなってきた。

 

Shin:そういう意味では、歴史の淘汰を経ても世界に広まっているものは、確かに高度だけど、究極的なものではないかもしれない。究極的なものは、どこかの教会とかお寺の地下倉庫で厳重に守られているかもね。それを守るためだけの家系があったりして。

 

ゆう:なんか中二心がくすぐられる設定だぁ。

 

Shin:僕たちは、そういうものには触れられないから、せめて歴史の淘汰を経ても残ってきた作品や文献に触れるようにすればいいと思うよ。そうすれば感性が磨かれていくからね。

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.