間接的に気づきに導いていく

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。日本の心理療法では、内観療法と森田療法という二つの心理療法がよく知られています。この二つの心理療法は、内観療法が浄土真宗の修行法を起源とし、森田療法は、禅との関連性で論じられることが多いです。

 

ゆう:座禅と関係があるの?

 

Shin:今回取り上げられている「不問」という技法が、禅と関連づけられることが多いんだよね。

 

ゆう:不問?

 

Shin:森田療法は、神経症を治療するための心理療法なんだけど、神経症の症状が現れても、症状をどうにかするのではなくて、そのままにしておいて、目の前の作業をするんだよね。

 

ゆう:治そうとしないみたいな?

 

Shin:そう、治そうとすると余計に治らなくなるから、囚われないようにするんだよね。

 

ゆう:それが不問なの?

 

Shin:たとえば、人前で話をするときに緊張したとする。その緊張を抑えようとか、無くそうとかすると、余計に緊張が激しくなるんだよね。神経症は、これと同じメカニズムで増幅していくから、森田療法では、症状を「不問」にして、必要な作業に集中するんだよ。

 

ゆう:考えないようにするのかぁ。

 

Shin:そういう技法が、禅の作務とか、座禅のやり方に似ているのかもしれない。

 

2、内観における防衛処理と「退行」の位置づけ

 

内観三項目の内省方法を検証すると、そこには精神療法の基本原則が無駄なく組み込まれていることがわかる。

内観三項目の内省法の特徴については、武田良二(1972)の記述がもっとも網羅的であり、それを整理しながら内観的内省法の精神療法的な意味を考察してみたい。
 

武田は矯正教育の立場から、内観的内省の特徴を次の17項目に整理している。

1、事前設定、2、非任意性、3、主題限定、4、螺旋的発展、5、人間関係、6、個別性、7、具体性、8、自己批判、9、倫理性、10、2・2 ・ 6方式 11、貸借関係と「養育費算出」、12、発達心理的人物設定、13、順向または逆行、14、重点的人選、15、現在感情の後回し、16、問題別のテーマ、17、嘘と盗み。

武田は、内観の内省方法の特徴を実践的かつ簡潔に説明しているが、その臨床的な意味づけほほとんど行っていない。

12、13のような回想の時系列にかかかわる問題は、次節で取り上げる。

ここでは、内省方法の主なポイントについて取り上げ、考察を加えてみたい。
 

(1)内観における不問的態度−森田療法との類似性(防衛処理に共通する〈不問/問い〉の組み合わせ)
 

武田(1972)は内観の内省方法の特徴として、テーマ(課題)の「事前設定」「非任意性」「主題限定」「現在感情の後回し」を挙げている。

内観では、精神分析やカウンセリングのように、対話のテーマが患者によって自由に設定されたり、治療の流れのなかでそれが変更されることはない。

内省のテーマは指導者からあらかじめ与えられており(事前設定)、原則的に内観者の意向で設定・変更されることはなく(非任意性)、内省するテーマや主題は限定的で枠にはめられている(主題限定)。

患者からすれば、今の自分の悩みや症状と直接関係がないにもかかわらず、遠い過去の父母・兄弟との関係を内省するよう内観では要請される(現在感情の後回し)。

患者は最初、宙ぶらりんの心理状態に置かれるが、そうした方法のおかげで、治療者・患者関係には心理的な距離が保たれ、面接者は「場」の背後へと退き、患者は次第に内省テーマ(内観三項目)へとコミットしていく。

こうした精神療法の戦略は、森田療法の「不問」技法と共通している。

内観に森田療法と同様な「不問」が存在することを筆者はこれまで指摘してきたが(長山、1990a ; 2001a)、近年、川原(2001)も内観の日本的特質として不問技法に言及している。

 

森田療法においては、患者が自らの症状について質問しても、治療の意味を質問しても、さらには治療への疑念を表明しても、治療者はすべてそれらを不問に付し、目的本意の作業に取り組むよう要請する。

どこまでいっても不問のままである。

患者の側からすれば、治療者がひどく冷たく感じられるであろうが、治療者は不問のおかげで患者との間に心理的な距離が保たれ、一対一の治療者・患者関係に患者の病理が展開するのを防止できる。

森田療法の不問には、こうして患者を厳しく突き放す父性的な面があるが、同時にそこには母性的な面も含まれている(長山、1973 ; 1992)。

患者の症状を「不問」に付すのは、そうした症状や不安が誰にでもあるとみなされ、患者は治療の場でトータルに受け入れられることと関連している。

森田療法で不問が有効に作用するためには、患者自身をトータルに受け入れる母性的な「場」が必要であり、加えて、そこでの作業が生活をする必然性のもとに有機的に組み立てられ、用意されている点が重要である。

患者は不問技法によって治療者から突き放されながらも、他方では治療の場でその存在がトータルに受け入れられ、生活をする必然性・必要性に基づいて、「目的本位」に作業へと次第にコミットしていく。

こうして生活・作業に深くコミットしていくなかで患者の防衛は処理され、森田的な洞察が生まれる(長山、1984)。

森田療法において、治療の「場」の受容的雰囲気や生活の必要性に基づいた作業の存在なくしていたずらに「不問」を押し通せば、治療が中断するか、森田的価値観(作業、労働は尊く、価値がある、等々)を患者に押しつけるだけに終わる。
 

上記の森田療法の事情は、そのまま内観にも当てはまる。

内観における面接者の礼節に満ちた態度が、時に「冷たい」と受け取られるのもこの不問的態度ゆえであり、内観の「場」が深い共感・受容に満ちて組み立てられている事情も、森田療法と共通する。

さらに「今・ここ」の内観の「場」が内観三項目(していただいたこと、して返したこと、迷惑をかけたこと)に沿ったかたちで運営されている点も、森田療法の「場」が生活上必要な作業を患者に提供するよう工夫されているのと同じである。

内観の場で、内観者は面接者やスタッフから種々の配慮を「していただいている」にもかかわらず、なかなかうまく内観ができず「迷惑」をかけており、「して返す」ことはみずから立派な内観をすることに絞られてくる。

こうした内観の場のセッティングを抜きにして、むやみに内観三項目を押し通せば、価値観の押しつけになりかねないのは森田療法の場合と同じである。

内観が価値観・倫理観の押しつけや宗教と誤解されるおそれがあるのは、内観の「不問」技法によるところが大きい。

 

不問技法に関する森田学派の議論をおおまかにまとめると、不問技法には、①治療者・患者間の心理的な距離を保つ役割、②患者を作業・集団生活に追い込み、病態(とらわれ)を処理する役割、③患者の存在そのものを母性的に受容する役割、の三つの機能があるとされている(長山、1992)。

しかし、いずれにせよ「不問」は森田療法に特異な技法であるとの認識で共通しており、それが議論の前提にすらなっていた。

精神分析と森田療法の従来の比較研究では、精神分析の「問い」−患者の病態を扱い処理する−の側面が強調され、逆に森田療法は「不問」−病態を問わない−の側面ばかりが強調され、その結果、病態を「問う」療法と「問わない」療法といった単純な対比がなされてきた。

森田療法の治療者は、たしかに精神分析のように患者の病態を一対一の治療者・患者関係のなかでは直接扱わないが、治療の場で患者の病態がなんら処理されずに“常態心理の発動化”(藍沢ら、1967;大原ら、1970)や“心的転回”(藍沢ら、1967;大原ら、1970;鈴木、1971)が起こるであろうか。

筆者(長山、1984 ; 1989)はこうした問題意識から森田療法の治療過程を再検証し、そこで患者の病態が作業のコミットのなかに再現され処理されていくさまを明らかにした。

森田療法家が患者の病態を面接場面で扱わないことと、治療の場でそれが処理されないことを混同すべきではなく、森田療法には精神分析とは違った防衛処理システムが存在する。

北西(1987)は、森田療法の集団的人間関係のなかで彼らの病理が再現され、処理される様を指摘している。
こうした一連の研究から、森田療法においても、患者の病態を扱い処理する「問い」の側面が重要であることが次第に明らかにされ、不問技法はこうした森田流の「問い方」とセットになっていることがわかってきた。

言い換えれば、森田療法で患者の病態を治療者が問わない−不問にする−のは、まさにそれを厳しく問うためにほかならないのである。

 

では、患者の病態を詳細に取り上げ「問う」ことを特徴とする精神分析医は、森田療法家と違って患者の症状に着目し、それにまつわる話題をあれこれ取り上げるだろうか。

否、実際の精神分析的面接のなかでは、治療者は症状に関する質問はしないのである。
皆川(1990)によれば、神経症症状は防衛から成立するので、神経症の場合、症状に関する質問をする意味がほとんどないという。

洞察を目的とする治療法では、症状は患者のあり方や認知の歪みから由来し、症状はその結果の産物にすぎない。

それゆえ、患者のあり方の歪みをどう修正・認識させるかが治療の本質であって、それを通して症状はおのずと解消されるとの認識が共通して存在する。

精神分析流にいえば、症状分析から自我分析への流れである。

患者からすれば、症状は自我違和的なので、症状が問題であるとは認めても、その背後に控える自らのありようの歪みに気づくのは容易ではない。

仮に治療者がそれを正しく言葉で伝えたとしても、それがそのまま治療効果を生むことはない。

なぜなら、治療者の指摘自体が患者の病的パターン(歪んだ認知)に取り込まれてしまうからである。

洞察が生じるには、患者の歪みを単に言葉で指摘するのではなく、それをなんらかのかたちで目の前に再現・凝縮するプロセスが必要になる。

 

精神療法の「不問」は、「問う」こととセットになってはたらいてこそ意味があり、〈不問/問い〉は単なる日本的精神療法の特性ではなく、洞察志向的な精神療法に共通する原理である。

この点を理解しないと、内観や森田療法の技法や構造の文化特性に目を奪われ、そこに息づく普遍性を見逃すことになる。

 

Shin:マインドフルネスなんかも、これに近い方法なんだよね。雑念を消そうとするのではなくて、ただそれに気づくだけにする。

 

ゆう:雑念をなくそうとするんじゃないのかぁ。

 

Shin:雑念をなくす技術は、また別の方法論なんだよね。それは結構難しいから、むしろ、ただ気づくという手法の方が取り組みやすいんだよ。森田療法も、神経症が起こっても、それをそのままにして、作業を続けるんだよね。

 

ゆう:でも、それは自分で乗り越えるということだよね。

 

Shin:そう。森田療法の不問は、表面的には不問だけど、患者が自分の力で防衛処理をするように導いているんだよね。

 

ゆう:結局、自分で乗り越えるしかないのかぁ。

 

Shin:心理療法というのは、自分で乗り越えることをサポートするだけだよ。魔法で人間を変えてしまうような方法ではないからね。

 

ゆう:でも、そういう方向に導くような工夫はあるんでしょ?

 

Shin:もちろん、それが心理療法の意味だよね。自分自身で気づく方向に導くような工夫がたくさんある。内観療法でも、面接者は内観者の問題に直接的に介入することはほとんどないけど、内観療法の構造が、間接的に内観者を導いていくんだよね。

 

ゆう:カウンセリングも自分で気づくことが大切じゃないの?

 

Shin:そう、ロジャーズのカウンセリングでも、カウンセラーが直接的な介入はしなくて、クライエントの悩みを受容的な態度で聴くだけだよね。でも、その受容的な態度が、構造化された場としての機能を果たしているんだよね。

 

ゆう:そうやって、自分で気づいていくんだね。

 

Shin:治療者が直接的に患者の認知の歪みを指摘しても、その指摘自体が、歪んだ認知の中で捉えられてしまうんだよ。だから、ほとんど意味がない。大切なのは、自分自身で気づくことだよね。

認知の歪みのパターンに気づく

(2)内観における「水路づけ」機能−防衛処理に必要な自我関与を生み出すはたらき

 

武田(1972)は内観の内省方法の特徴として、人間関係にかかわるテーマを「個別的」「具体的」に内省するというやり方を挙げている。

内観のテーマは、原則として純粋に人間関係にしぼられ、内省対象とする人物は、グループや複数ではなく特定の個人ひとりにしぼられる。

たとえば、親(両親)ではなくて、父か母かのいずれかといった具合である。

さらにその内省の仕方も、印象的、抽象的、状況全般として回顧するのではなく、自己と相手とのあいだに交わされた具体的行動を、絵に描くように鮮明に回想するよう求められる。

母や父などの身近な人との純粋な人間関係を介して己をみつめる内観の方法を、村瀬(1975)は、日本人の倫理感覚の個別主義、擬制普遍主義(R・ベラ)と関連させて説明し、日本人が特定の人間を媒介としてはじめて普遍的なものに至りうることを指摘している。

 

文化論的にいえば村瀬の指摘のとおりだが、防衛処理の観点からすれば、一対一の人間関係に焦点を当てて洞察を導く方法は内観固有のものではなく、精神療法一般に共通する原理である。

たとえば、精神分析では一対一の治療者・患者関係に患者の病理が「水路づけられ」、「転移」というかたちでそれが凝縮される仕組みになっている。

特定の対象に患者の注意や関心が振り向けられ、焦点化されることは、そこが病理や葛藤の再現・開花の舞台になることを意味している。

こうして特定の対象に向けられ凝縮された、今・現在の体験(今まさにはたらいている病理)の処理を通して、洞察は生まれてくる。

内観では、内観者(患者)が注意・関心を向ける対象は、精神分析のように眼前の治療者ではなく、特定の他者(母、父など)との過去の人間関係である。

しかし、回想する他者(対象)を一人に固定して絞り込む操作は、患者のありようをそこに凝縮・再現させる効果では共通している。

自分のありよう(対人認知の様式や防衛様式)と他者の知覚は相互に不可分に結びつき影響しあっている。

 

森田療法では、患者の注意・関心を振り向ける先(対象)は日常的な「作業」であり、患者を作業へとコミットさせるさまざまな工夫が凝らされている。

こうした対象へのコミットは、一般の心理学用語でいう「自我関与」(ego involvement)を作り出しているのであり、この種の深い関わりを介して、人間は己自身を理解する糸口をつかむことができる。


竹元(1999b)は、内観における「対象人物の設定」という項目で次のように述べている。

“内観の想起で対象人物を設定することは、その瞬間から対象人物との自他が分離される立場に立たされて、自己および他者を対象化しやすくなるので内観の想起が容易になる。

自他の境界を明確にすることで分離個体化や自我の確立が促される”。

 

内観において、回想する人物を一人ずつ固定して回想の時期を細かく設定するやり方は、特定の人との関係に焦点を当て、防衛処理に必要な「水路づけ」を生み出す作用があるが、それだけで「自他の境界が明確」になるわけではない。

精神分析で一対一の治療者・患者関係に「転移」が開花しただけでは治療効果が生まれないのと同じである。

内観でも特定の他者に意識・関心が集中しただけでは不十分であり、それが内観的な回想になってはじめて自他の分離は達成される。

つまり竹元が指摘するような結果は、対象人物の設定だけでなく内観三項目のテーマとの兼ね合いではじめて達成される。

 

ゆう:防衛処理というのが、よく出てくるね。

 

Shin:結局、心理療法が目指しているのは、防衛処理なんだよね。それは別の言い方をすれば、エゴイズムを乗り越えていくということだよ。

 

ゆう:そうなると普通の人間の成長と似ているよね。

 

Shin:そうだよ、人間性や人格を高めることと同じ。そこの問題が、体の病気として現れる人もいれば、心の病気として現れる人もいるということ。心理療法で、自分の認知の歪みに気づくと、自然に人間性が高くなるんだよね。

 

ゆう:カウンセリングでは、話しながら、自分で気づいていくんだよね?

 

Shin:自分の問題に共通のパターンがあるんだよね。そこに自分の認知の歪みが存在する。内観療法では、過去の人間関係での共通のパターンを探っていくんだよ。

 

ゆう:そういう認知の歪みのパターンがあるのかぁ。

 

Shin:そのパターンは、幼少期の親との関係で形成されたものだから、それを繰り返えしてしまうんだよね。逆に言えば、問題というのは、自分の認知の歪みに気づくために起こっているとも言える。

 

ゆう:でも、自分で気づくのは難しいよね。

 

Shin:そのために心理療法があるんだよね。気づきを促すんだよ。

 

ゆう:じゃあ、自分で気づける人は、心理療法を受けなくてもいいのかな?

 

Shin:そうなるよね。自分自身で気づいて、学んで、成長していく人は、心理療法を受ける必要はない。でも、ほとんどの人は、成長に強い抵抗が働くから、そこから先に行けなくなってしまうんだよね。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.