自分を見つめるのは、自分を責めることとどう違うのか?

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。心理学でいう防衛機制というのは広い概念ですが、自分を棚に上げて(自己正当化して)、他者の悪いところを責めるといったニュアンスで捉えておけばいいでしょう。内観療法では、全く逆に、他人を棚に上げて自分の悪いところを見る、という作業をするため、防衛を処理することができるのだと思います。

 

ゆう:そんなことする人はいないよね。

 

Shin:相手への怒りや憎しみに囚われてしまうから、相手の行為を棚に上げて、自分の至らないところだけを見るなんて、よほどの聖人じゃないと無理かもね。

 

ゆう:でも、内観療法はそういうことをやるんでしょ?

 

Shin:心理療法としてそういうことをすると、治癒がもたらされるということかな。

 

ゆう:自分でできる人なんかいないよ。

 

Shin:普通は、何らかのトラブルが起こると、相手が悪いと思うよね。もちろん、状況にもよるけど、大抵は相手の行為を大きくして、自分の過失を小さく見積もる。

 

ゆう:客観的に見ることが難しいよね。

 

Shin:もう少し冷静に見ることができるようになると、相手も悪いけれど自分にも至らない点があったという風に認識できるようになる。これは、他罰的な思考から、無罰的な思考になったということだよ。自然災害なんかは、人災との因果関係がわからない場合、無罰的な捉え方になるよね。

 

ゆう:そうなれるだけでも、すごく冷静な感じだよね。

 

Shin:でも、内観療法の場合は、そこからさらに進んで、相手が良いか悪いかは置いておいて、自分に至らないところがあったと捉えるんだよ。これが、自罰的な思考ということ。

 

ゆう:自分を責めるのとは違うんでしょ?

 

Shin:自罰的な思考は、健全な思考と病的な思考があるんだよね。病的な方向に行くと、うつ病になってしまう。

 

ゆう:違いがわかりにくいよ。

 

Shin:そう、違いが微妙だから、内観療法は自分を責めることになるのではないかと誤解されやすいんだよね。でも、内観療法は、全く逆に自分を受け入れるんだよね。受け入れる前提で、自分の未熟な部分を見ていくから、目的が違うんだよ。

 

ゆう:自分を責めるのが目的じゃなくて、逆に、自分を受け入れることが目的なのかぁ。

 

内観法における防衛処理と「退行」
 

内観において、患者の防衛処理は内観三項目に沿った内省作業を通して行われることが経験的に知られている。

川原(1996)は、力のある内観者なら内観の「場」という外面的構造を借りなくても、内観三項目による内省だけでも、内観は十分行えるとしており、日常生活で分散内観が可能なのも、内観三項目が一次的内枠的治療構造の役割を果たすからにほかならないと述べている。

防衛という概念自体、そもそも精神分析から由来するが、今では臨床心理一般の専門用語となっている。


内観を洞察志向的な精神療法のなかに位置づけるためには、抵抗・防衛が内観ではどのように扱われ処理されるのか、「内観用語」を使わずに説明する必要がある。

森田療法でも、患者の防衛がどのように処理されるのか、「森田用語」を使わずに説明できたとき、はじめて他の学派との実りある対話が可能になった(近藤、1976 長山、1984;1989)。

その意味でいえば、内観三項目とその内省方法のなかに防衛処理の戦略が隠されているはずであり、それを他の学派にもわかるように説明することが重要である。
 

患者の防衛を処理するためには、治療的な人間関係に基づいた「支え」が必須であり、治療の「場」や治療者・患者関係と関連して「退行」の問題もかかわってくる。

しかし、内観における治療的「退行」の議論は未整理なまま混乱している。

それは、治療的「退行」という考え方が、「防衛」以上に精神分析という方法論に色濃く影響されているからである。

本節では、内観における防衛処理や退行について、内観三項目の内省方法の再検討を通して考察してみたい。


(1)内観の防衛処理について−「自責的思考」に関連して
 

厚い自己弁護、自己防衛の殻を打ち破るのが内観の自責的思考であるといわれてきた。

自責的思考という表現は、もともと精神分析医の石田六郎が提唱したものである。

石田(1972a;1984)は、精神分析の場合には分析医が患者の抵抗を排除するのに積極的な役割を果たすが、内観では指導者はそうした役割をなんら演じないので、内観者は自力で抵抗を排除しなければならず、自責的思考が必須であると考えた。

「自責的思考」は、内観における防衛処理の説明原理として三木(1972;1976)、洲脇ら(1972)、滝野(1984)らにも引き継がれ、内観の治療論の大きな柱になっている。

 

自責的思考という説明に最初に疑問を呈したのは村瀬孝雄である。

村瀬(1982)は、「自責的思考」という表現が「うつ病者」の罪責体験やマゾヒスティックな病的体験にも適応されることから誤解を与える危険があり、内観的思考の特質を示すうえで適切でないと述べている。

村瀬は、内観の治療過程の本質は単に自分を責めることだけで成り立っているのではなく、具体的回想と他者への感情移入的洞察を伴うことを指摘している。
 

精神病理学的、精神分析的な理解からすれば、他罰も自罰も方向が逆なだけで、ともに依存攻撃の病理と深くかかわっている。

臨床的にも、他罰的攻撃が一転して自罰的攻撃行動を引き起こすことも稀ではなく、他罰と自罰はいわば表裏の関係にある。

そうした攻撃性のさらに奥には、「自分の思いどおりにしたい」という依存の万能感が潜んでいるのはよく知られている。

自責的思考という表現は、この種の病理と誤解される危険が高く、それゆえ、内観の治療論としては不適切である。

 

しかし、「自責的思考」の提唱者の石田にしても、それで病理的な自罰的攻撃性を表そうとしたのではなく、内観の防衛処理のメカニズムを説明するのが目的であった。

防衛処理は洞察を標榜する精神療法に共通したプロセスであり、どのような方法を取るにせよ、防衛処理の過程は患者にとって苦痛に満ちた体験であり、それをむりやり外側から強制することはできない。

精神分析家の解釈を他罰的と解するのが間違っているのと同様、内観三項目による防衛処理を自罰的(自責的)とするのも間違っている。

それらが他罰的、自罰的(自責的)に作用するのは、防衛処理を治療者があせって外から無理強いした場合である。

「自責的思考」が不適切なのは、精神療法に本質的な防衛処理のプロセスが外罰・内罰という病理レベルの問題として取り違えられ、その結果、防衛処理の本質や「時熟」が軽視される危険があるからである。

 

「自責的思考」という表現が内観で使われるもう一つの理由は、内観三項目のなかに「迷惑をかけたこと」という倫理的項目が含まれていることが挙げられる。

これは、内観が社会的価値観の押しつけや宗教であるとの誤解を生み出す要因にもなっている。

内観における「迷惑」想起の治療的意味を精神療法的に位置づけることは、理論化に際して必須である。

 

ゆう:一時的に自分の悪い部分を見るだけなんだね?

 

Shin:受け入れた時点で、自分が統合されるんだよね。統合されたら、逆に、悪影響を受けなくなるんだよ。

 

ゆう:自分の悪い部分を意識すればいいのかぁ。

 

Shin:そう、意識すれば、その力が消えるんだよね。

 

ゆう:そんなメカニズムがあるんだね。

 

Shin:これは不思議なメカニズムなんだよね。人間というのは、見えないものには影響を受けるんだけど、それを意識すると影響を受けなくなるんだよ。だから、自分の悪い部分を意識していればいいんだよね。ところが、多くの人は逆のことをするんだよ。自分の悪い部分を見ないようにする。見ないようにしたら、影響が消えるのだと思い込んでいる。

 

ゆう:全く逆だね。

 

Shin:そういう逆のことをするんだよ。見ないようにして、抑圧をすることで、逆に裏から影響を受けてしまう。だから、光を当てないといけないんだよね。光を当てることで、その影響力が消えるんだよ。

内観療法は、年齢退行ではない

(2)内観における「退行」の位置づけの混乱


相手にかけた「迷惑」をみつめ直す作業は、しばしば「退行」との関連で取り上げられる。

古くは、内観を「退行と観照」で説明した石田理論が挙げられる。

石田(1972a)は吉本の言葉とMenningerの言葉を比較して、精神分析も内観も幼児期からの過去の想起を行う「退行」的側面と同時に、自分が検事となり、自分が被告になって(吉本)、ひとつの目で自分の過去を、もうひとつの目で自分の現在を観察し、各視点を観察する(Menninger)「観照」の要素が同時に存在すると述べている。

この石田の「退行と観照」の説明はきわめて簡単で、しかも催眠になぞらえて説明したこともあって、竹内(1972)から厳しい反論を受けることになった。

竹内は、内観における幼児期回想は、催眠法でいう「年齢退行」とは本質的に異なる精神活動であることを明らかにしている。
 

また「退行と観照」の組み合わせは、村瀬(1996d)も内観の本質として重視している。

村瀬は、内観の回想がきわめて退行的で乳幼児期の状態に酷似している点を指摘する一方、己を厳しく調べる徹底した上位自我的な状況が作り出されている点に着目している。

村瀬によれば、上位自我的(超自我的)でありながら、同時にそうした上位自我から自由な退行的側面を併せ持つパラドックスこそ内観の本質であるという。

そして、内観にその種の視点が乏しいのは、内観が表向き「退行」を認めない構造だからだと述べている。

実際、川原(1996)は内観の治療論の考察で、内観では退行はほとんど認められないと明言している。

内観の治療論が混乱してきた理由の一つは、「退行」の理解が不十分なため、それを治療論にうまく組み込めなかったことが関係している。

 

ゆう:子供の頃の意識に戻るわけではないんだね。

 

Shin:内観療法では、過去をリアルに想起するから、催眠療法での年齢退行と同じような意識状態になると誤解されやすい。でも、内観療法の場合は、自分を厳しく見つめるという視点があるから、その視点の方に同化していくんだよね。

 

ゆう:子供の頃の自分を見ている視点がメインなの?

 

Shin:それは、精神分析でいう超自我の視点なんだよね。だから、年齢退行をしているわけではないんだよ。

 

ゆう:催眠を使えば、過去のことが思い出しやすそうだけどね。

 

Shin:それは、メカニズムが根本的に違うということ。あくまでも、自分を厳しく見るという視点を保持しておかないと、内観療法にはならないんだよ。だから、退行催眠と混同するような手法にしてはいけないんだよね。この辺も、治療のメカニズムをよく知っていないと誤解しやすい部分だよ。

 

ゆう:でも、過去を思い出すという意味では同じじゃないの?

 

Shin:内観療法では、超自我の視点から自分を見つめるという作業をするから、その視点ではない年齢退行をいくらしても、見たくない自分を見ることができない。心理的な抵抗を排除することができなくなる。

 

ゆう:心理的な抵抗が生じるのかぁ。

 

Shin:見たくない自分、抑圧し、避けていた自分を見るという作業が必要だから、年齢退行をするだけでは、そういう記憶は想起することが難しいんだよ。

 

ゆう:内観療法だと、思い出したくない自分の嫌な部分を見るということかぁ。

 

Shin:そう、内観療法の本質は、単に記憶想起をするということではなくて、自分が無意識レベルで抑圧し、思い出さないようにしていた記憶を想起するということにあるんだよね。

 

ゆう:そこに抵抗が生まれるんだね。

 

Shin:自分が人に対して迷惑をかけたことや、そういう人にも愛されていたという記憶を忘れることで、今の自分を自己正当化しているということなんだよね。これが、僕たちのエゴイズムのメカニズムなんだよ。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.