過去は自分が作っている

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。心理療法の役割は、私たちが人生の中で気づき、学んでいくプロセスを意図的に促進させることだと思います。人生経験を通して、様々な気づきを得て、受容することや愛すること学んでいくのですが、多くの人はそのプロセスでつまづき、苦しみを増し、身体的な症状や社会的な問題を引き起こします。そのような挫折から、できるだけ早く立ち直り、人間的に成長していくことをサポートすることが、心理療法の役割なのだと思います。

 

ゆう:薬のようなものかな。

 

Shin:医学が、自然治癒力のサポートをするようなものだよね。自然治癒力だけでは治癒のプロセスが進まない場合、痛みを緩和したり、薬を処方したりするということかな。

 

ゆう:心の問題も、体の病気と同じなんだね?

 

Shin:古い時代には、宗教がその役割を果たしていたんだよね。

 

ゆう:じゃあ、もう宗教は必要ないじゃん。

 

Shin:まだ精神医学だけでは対応できない領域があるし、脳のメカニズムもまだわかっていない領域がたくさんあるからね。

 

ゆう:本当は、いろんなことを自分の人生で学ぶしかないんだよね?

 

Shin:僕たちが何のために生きているのかさえ、まだよくわからないからね。ただ、人類が進化してきたということは、これからも進化していくということだよね。そういう流れの中にあることは間違いない。それは肉体だけではなくて、精神と呼ばれている領域の進化もあると思う。そこに対して補助をするのが宗教の役割だったんだろうけど、今では心理学や精神医学が、そういうことをサポートするようになってきた。

 

ゆう:補助って必要なのかな? 宗教とかが出てくると、逆に変な方向に行きそうだけど。

 

Shin:どの世界でも悪用する人たちはいるからね。それは、心理療法だって同じだよ。カウンセラーの中には、人を脅して、自分のところに来ないと大変なことになるとか言って、高いカウンセリング料を取ろうとする人だっているらしいよ。医師だって、ヤブ医者はいるでしょ。

 

ゆう:どうだけど、全体的に、宗教って怪しいのが多いよね。

 

Shin:それは、科学的に検証できない世界を扱っているからね。心理学の場合は、実験などで定量性を重んじるから、その辺の違いがあるとは思う。でも、宗教やオカルトの分野を科学的に検証する超心理学という領域があるんだけど、日本はそういう研究をしている大学がほとんどないんだよね。

 

ゆう:どうして?

 

Shin:さぁ、研究費の問題とかかな。そもそも、そういう学部もないし、怪しいの一言で片付けられちゃうからかな。

 

ゆう:でも、そういう研究が進んだら、逆に変な宗教に騙される人が少なくなるんじゃないの?

 

Shin:それはあると思うんだけど、現時点の日本では、在野で研究するしかないよね。僕だって、そういう大学があるなら、そこで研究者になりたいくらいだよ。

 

ゆう:そういう分野の研究って、なかなか難しいんだね。

 

(2)治療的な「道具」としての内観三項目−内観三項目の基本機能

 

神田橋(1997a)は精神療法における「道具」に関連して、治療者が勉強したり練習したりして治療の場に持ち込むもの(箱庭、寝椅子、プレイルーム、理論、視点など)は、いずれも治療者が使う道具ではなく、クライエントが自分になじむと感じた場合に使うクライエントのための道具であると述べている。

加えてそうした精神療法の道具はクライエントに本来備わっている自助・自然治癒力を促す道具であるともいう。

神田橋のように、精神療法の「道具」を広く理解すれば、精神療法が効果的に機能しているときには、その両構造は本来三角形になっており、なんらかの道具が介在していることがわかる。

問題は道具を使うかどうかではなく、いかに道具を使いこなすかであり、使われる道具がどんな性質を持っているかである。

 

内観三項目は、カウンセリングや対話精神療法で展開されるテーマ(話題)のエッセンスであり、依存的防衛を処理するための洗練された「ツール」といえる。

カウンセリングが進展した局面において、父母をめぐるさまざまな罪悪感がしばしば話題となり、そこに潜む無意識防衛や転移の処理を通して、患者は健康な罪悪感を持つことが可能になる。

しかし、カウンセリングの場合、その種のテーマは治療的な対話が深まり、種々のテーマが展開したすえに最後に姿をあらわす究極のテーマである。

内観ではそうした究極のテーマが最初から「かたち」として提起されているのが特徴であり、そこに治療抵抗が集中するのもうなずける。

一見単純に見える内観三項目はじつに巧妙な組み合わせになっており、実際の治療では種々の心理的ダイナミズムを引き起こすことを、筆者はかつて指摘した(長山、2001b)。

ここでは、内観三項目が治療的な「道具」としていかに機能するかをまず整理してみたい。

 

i)患者を抱える「道具」としての内観三項目−ストーリーを聞き、物語る際のガイドラインの機能

 

治療的な面接という観点からすれば、患者の話をストーリー立てて聞くことはごく一般的な事柄である。

たとえば土居(1992)は、“患者の話をあたかもストーリーを読むごとく聴かねばならない”とか、“患者は時間的前後関係おかまいなしに話をすることが多いが、面接者は聞いたことを時間のなかに配列しなおしてストーリーとして聞かねばならない”と明確に述べている。

患者のバラバラな発言をストーリー立てて聞くことは、治療者が患者の病歴を聴取し、病気を理解するために必要なのは当然だが、それは単に治療者側の都合だけではない。

神田橋(1997a)は、患者のバラバラな訴えを、主訴を中心に質問を投げかけつつ、とりあえずのストーリーを作ることを勧めている。

そうしたストーリーのつなぎ合わせ作業は、患者を心理的にとりあえず抱えるはたらきがあり、患者の衝動や感情の統制に大きな効果がある。

その際、治療者は細部を明確にすることはせず、いちおうのかたちが整うことを目指すようにする。

そうしてできあがった主訴を中心としたストーリーは、治療者・患者の共有財産となり、三角形の対話の最大のテーマとなり、患者に落ち着きが生まれてくる。

内観三項目は主訴を中心としたストーリーではないが、とりあえずかたちを整えることで患者の心理的安定が図られる点は同じである。

内観者は、はじめの1~2日目は見よう見まねで内観三項目のかたちを整え、かたちに任せてストーリーを作っていく。

それは内観者の衝動や感情のコントロールに大きな作用を及ぼし、内観の場は、かかえの場としてはたらく。

病態の重い人もそれなりに内観をやり遂げることができるのは、保護的、非侵入的な場のセッテイングに加えて、ストーリーづくりのテーマ(課題)が明確で、それが精神的な安定に大きく寄与しているからである。

 

ゆう:防衛処理って何?

 

Shin:防衛というのは、従来の認知のシステムを守ろうとする働きだよ。従来の認知のシステムは不合理で、問題を誘発させているシステムなんだけど、それ変えることが防衛処理だよ。

 

ゆう:従来のシステムを防衛を処理するのかぁ。

 

Shin:僕たちは、自分の認知のシステムに依存して生きているから、それを変えることに強い恐怖を感じるんだよね。

 

ゆう:それが心理的な抵抗なんだね?

 

Shin:だから、認知のシステムを変えようとする現象や対象に対して、ネガティブな感情が生じるんだよ。それが不幸と呼ばれてる現象なんだけどね。

 

ゆう:不幸が認知システムを変えるの?

 

Shin:変えるきっかけになる。でも、より合理的で、幸せを感じるような認知システムに変えることができる人と、そうではない人がいる。だから、不幸を不幸のままにする人と、不幸を幸せへのステップとして活用する人に分かれるんだよ。

 

ゆう:でも、大きな不幸だと、なかなか前向きに捉えることはできないよね。

 

Shin:そこが試されるんだろうね。

 

ゆう:ストーリーというのは?

 

Shin:自分が作り上げた人生のストーリーだよね。奥亭の記憶をピックアップして、ストーリーを作り上げるんだよ。でも、それが事実に即したストーリーかどうかはわからない。なぜなら、自分の信念体系に沿ったストーリーを無意識レベルで作ってしまうから。

 

ゆう:どういうこと?

 

Shin:たとえば、自分は両親に愛されなかったというストーリーを作っている場合、そういう過去の記憶だけを思い出して、つなぎ合わせているんだよね。

 

ゆう:記者会見を都合よく編集するみたいな?

 

Shin:そう、僕たちは、膨大な記憶の中から、都合のいい記憶だけを選び出して過去のストーリーを作るんだよ。

 

ゆう:それって、事実と違うことがあるよね。

 

Shin:僕たちは、自分というフィルターを通して、記憶を無意識レベルで選別し、それを想起して、特定のストーリーを作り上げている。だから、自分の人生のストーリーは、本当は、自分自身で作り上げているんだよね。

 

ゆう:そのストーリーがよくないものだったら、変えたほうがいいよね。

 

Shin:内観療法では、記憶をきちんと想起することで、自分がこれまで事実だと思い込んでいた様々な記憶が、実は自分のフィルターによって選別された記憶だったということに気づくんだよね。その気づきだけでも、すごいことだよ。

 

ゆう:自分の過去は自分が作っているみたいな?

 

Shin:人生のリアリティは、自分自身が作り上げている。これに心から気づくと、大変な学びが生じるよね。そういうことを観念ではなく、記憶の想起という事実の積み重ねを通して気付いていくということが大切なんだよね。

話を聞くときは、内容ではなく構造を見る

ii)照らし返す「道具」としての内観三項目

a)精神療法的な対話に共通する基本手順をガイドする機能−「構造」から「内容」へという手順


精神分析では、患者の話の「内容」に着目し、そこを深読みして無意識的な葛藤を解釈していくという誤解が一般にある。

しかし、神田橋(1997a)も指摘しているように、精神療法的対話では、まず話の構造部分に焦点を当てていくのが定石であり、精神分析も例外ではない。

神田橋によれば、対話のズレでもっとも頻度の高いのが、患者の話の「構造」部分を聞き落として内容に焦点を当てるという間違いだという。

大切なのは常に構造のほうで、構造についてのコンセンサスが得られた後、内容に進むのが精神療法的対話の定石である。

 

対話における「構造」と「内容」に着目すると、カウンセリングや精神分析の対話も内観三項目に沿った面接も、「構造(形式)」から「内容」へという操作手順は共通していることがわかる。

内観では内観三項目という具体的なテーマが内省のガイドラインとして存在するので、内観者の発言の「構造」部分が見えやすい。

神田橋(1997a、75-76頁)は対話の「構造」と「内容」について、表9の左側のような具体例をあげて以下のように説明している。

 


 

患者が治療者に「どうしてか、すぐに○○してしまうんです」と語るとき、「○○して」が話の内容部分であり、「どうしてか」や「しまうんです」は会話の構造部分である。

そのうち、後者は「○○して」という行為が今の患者の意に染まない行為であることの表明であり、また前者は患者の意に染まない行為が生じてくる理由について、疑問心が湧いていることの表明である。

こうした場合、治療者は対話の構造に焦点を当てるように質問を返し(たとえば、「ほう……どうしてでしょうね……よくあることなの?」)、構造部分をテーマに対話を深め、その後に「○○して」という内容部分に入っていく。
 

表9の右側は瞑想の森・内観研修所のトイレの壁に貼ってある貼り紙−「内観迷答集」−で、柳田鶴声の作成したものである。

この表9のような指示を内観面接者が直接、内観者に与えることはないにせよ、内観において内観者は何に注意すべきか、また面接者は何を内観の形式(構造)に沿わないと考えているのかが、この表9からうかがえる。

母(あるいは父)に対して「していただいたこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」を回想する内観三項目は、きわめて単純で一見容易に見えるが、そこにはさまざまな心理的な抵抗や防衛がはたらくために、当人は内観三項目に従っているように思っても、そこに内観三項目という「構造(形式)」に沿えない患者の防衛や無意識的葛藤が浮かび上がってくる。

つまり内観三項目に沿って患者の話を聞くことで、内観三項目に沿えない構造(形式)部分、すなわち恨みや攻撃を伴った反対の構造(形式)が浮き彫りになってくる。

表9を比べてみればわかるが、カウンセリングでも内観でも、治療者(面接者)が着目しているのは、いずれも患者の発言の構造部分である。
 

内観三項目の場合、単なる形式を超えて、そこに深い精神療法的な意味合いが込められおり、形式(構造)に従って内省を進めるうちに、おのずと内容が深まる仕組みになっている。

こうしたことからすれば、吉本が内観者の話の内容を覚えていないほうがよいと発言しているのも、精神療法的には決して奇異なことではない。

たとえば強迫性障害の精神分析療法(満岡ら、1988)などでも、患者の話の「内容」に焦点を当てることはせず、もっぱら話の形式(構造)のほうに着目し、直面化を促すのと似ている。

そうした場合、患者の話の細かい内容をいちいち覚えていたり関心を示すことは、治療的にマイナスにはたらく。

吉本に限らず、内観の面接者は話の内容ではなく、それが内観の形式にきちんと沿っているかどうかを第一に重視する。

一見不連続な患者の話の断片のなかに一貫したテーマを聞き取ろうとするやり方を、精神分析家のスペンス(Spence, 1982)は、物語的調合(narrative fit)と呼び、そこで重要なのは、話の内容だけでなく形式の類似性を見ることであり、形式の類似性が内容の類似性を暗示すると述べている点は、上記の臨床経験とも符合している。

 

ゆう:話す内容ではなく、構造を見るということ?

 

Shin:カウンセリングなどの対話療法の場合、カウンセラーは内容に着目するよりも、クライエントの会話の構造に着目することが重要だということだね。

 

ゆう:違いがよくわからないな。

 

Shin:特定の言葉の使い方から、クライエントの心理状態を見るということかな。クライエントが語るストーリーというのは、クライエントが創造した物語だから、そこに巻き込まれないようにするということ。

 

ゆう:巻き込まれないようにするのかぁ。

 

Shin:一歩引いて、客観的な視点を失わないようにするんだよね。そして、クライエントの抑圧された感情や心理的な問題を見て、そこにどのように寄り添い、解決していくかを模索する。

 

ゆう:結構難しいね。ただ、話を聞くだけじゃないのかぁ。

 

Shin:それはそうだよ。プロというのはそういうものだよね。

 

ゆう:内観療法には、そういう難しさはないのかな。

 

Shin:内観療法の場合は、最初から明確な構造があるから、そこから外れた場合、わかりやすいよね。それでも、巧妙にごまかすような報告をしてしまうんだよ。

 

ゆう:自分でも気づかないのかな。

 

Shin:自分で自分をごまかしてしまうんだよね。相手への攻撃性や敵意が暗に表出されていても、自分では気づかない。

 

ゆう:じゃあ、内観療法の場合は、そういうことを指摘しないといけないんだね?

 

Shin:自分で気づくようにすることが大切だから、直接指摘したりはしないと思う。もちろん、指摘したほうがいい場合もあるのかもしれないけど。その辺の指導法は、人によって違うと思うよ。

 

ゆう:そういうことまで考えると、本当に難しいね。

 

Shin:こういうのは、自己啓発の分野ではコーチングと呼ばれているけど、人の心を扱うので難しいよね。

 

ゆう:でも、一歩引いて、巻き込まれないようにするというのは、どの分野でも大切なことなんだね。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.