共通のメカニズムを探求すること

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。心理療法には、様々な方法論がありますが、人間を扱うのですから、根底の部分では共通したメカニズムが存在するはずです。そのメカニズムを解明することによって、特定の心理療法の独自性も浮き彫りになります。

 

ゆう:共通部分があるんだね。

 

Shin:他の心理療法との比較検討をしないと、その心理療法の何が良くて、何が足りないのかが曖昧になる。

 

ゆう:比較してみないと、良さもわからないのかぁ。

 

 

各種の精神療法(学派)の特異性と、それらに共通する非特異的な要素に関しては、滝川(1998)と近藤(1999)の説明が臨床的にわかりやすく、また有用である。

以下、両者の論考をもとに説明してみたい。

 

精神療法には、学派によってそれぞれ特殊化された技法・理論や治療構造が存在している。

しかしそれらは、精神療法が日常的な生活感覚や人間性の理解と別次元のものであることを意味しない。

近藤によれば、世に生きる人間の尽きない悩みや困難を解決するために、これまでさまざまなアイディアや方法が案出されてきており、心理療法とはそのアイディアのある部分が抽出され、方法論的に洗練されて、人工的・抽象的な関係によって成立する場で行われるものだという。

滝川は、“精神療法とは日常の手立てや関わりを、より抽象化(純化・人工化)したわざにすぎない”と表現し、専門性の高い「○○療法」といった学派の違いも、そうした経験の“どんな部分を抽出し、どんなレベルまで抽象化するかが、とりもなおさず流派や技法の差異となる”と述べている。

 

学派の違いと折衷的な精神療法の関係、専門分化された精神療法とその根底に横たわる共通した非特異的な体験の関係を、滝川は図9のように模式化している。
内観の治療理論を考える際、滝川や近藤が指摘する精神療法の非特異的な部分を、どう理解し、それが内観にどう生かされているのかを知ることが大切である。

内観の治療者・患者関係は、カウンセリングや精神分析と比べてたいへん「特異」なため説明が難しく、内観三項目という一次的内枠的構造と治療者・患者関係がどういった関係にあるのかについて、これまで治療構造論的に明らかにされてこなかった。

内観の治療者・患者関係の位置づけとはいっても、そもそも内観では一対一の治療者・患者関係を軸に物事を理解しようとする発想自体がないのだから、カウンセリングや精神分析のように一対一の治療者・患者関係を軸に物事を理解しようとする精神療法と直接対話するのは困難である。
 

滝川の図9でいえば、実線から上の山のいただき部分をいくらつきあわせても、有効な対話は成立しない。

実線から上部は「○○療法」として公式化・抽象化された諸流派の技法や構造であり、相互に交流や対話が可能となるためには、実線の下の円の部分、すなわち日常の体験世界から、より抽象的な心理療法的な世界へと手立てやかかわりが移っていく中開域に、焦点を合わせていく必要がある。

内観三項目と、内観の内観者・面接者「関係」(治療者・患者関係)の関連を理解するには、カウンセリングや精神分析のようなできあがった「理論」ではなく、そもそも精神療法における治療者・患者関係のありよう自体を問い直す作業が必要になる。

 

特定の学派を超えて、精神療法における治療者・患者関係の意味を、豊富な臨床経験をもとに読み解いているのが、神田橋の対話精神療法の考え方である。

神田橋は精神分析に基礎を置きつつ、自らの臨床経験から精神療法の本質をわかりやすく解説していることで知られる。

以下、本項では神田橋(1997a)『対話精神療法の初心者への手引き』を参照しつつ、内観の基本的な治療構造や治療的な「道具」としての内観三項目の意味を読み解いてみたい。

 

Shin:上記の図で言えば、上の部分だけを見て、他の部分との差異や優劣を問題にしてしまうと、根底の共通部分への理解が疎かになる。

 

ゆう:でも、そういうことって多いよね。

 

Shin:学生時代に、大学のキャンパスのベンチに座っていたら、宗教の勧誘なのか、学生が声をかけてきたんだよね。その時に僕は、宗教というのは、根底にある共通のメカニズムの部分ではなく、表面的な部分だけを見て争っているだけではないかと言ったら、相手は、共通のメカニズムだけを見たら浅いものになってしまうと言ったんだよ。

 

ゆう:その人にとっては、共通の部分は面白くないのかな?

 

Shin:共通の部分には独自性がないということなのかもしれないけど、独自性だけを見て、他の宗教と争っていたら、おかしな方向に行かないかな。

 

ゆう:共通のメカニズムの方が深いよね。

 

Shin:宗教戦争をするような人たちは、他の宗教と違うということに自身の宗教の深さを感じているのかもしれない。

 

ゆう:違うことに価値がある、みたいな?

 

Shin:共通のメカニズムを理解して、だからこそ違いを主張するならいいんだけどね。

 

ゆう:その場合、争いにはならないよね。共通の部分を理解しているんだから。

 

Shin:そう、そこが大切なんだよね。共通のメカニズムを理解していたら、逆に違いを受け入れることができる。お互いを尊重することができるんだよね。

心の問題が、目の前の人間関係で浮上する

(1)対話精神療法の特異形としての内観−精神療法の対話に共通する三角形の構造
 

神田橋(1997a)は、精神療法の基本である治療者・患者(わたし・あなた)と「話題・テーマ」から形成される対話の三角形を紹介し、対話精神療法の「コツ」はこの対話の三角形をプロとしていかに育み、機能させるかにかかっている、と指摘する。

同様に光元(1997)は、対話精神療法の骨格を「治療の三角形」として図10のようにまとめている。

 


神田橋は、対話精神療法における二者関係の対話は関係性を深め、一方、三角形の対話は共同作業の特徴であると述べている。

さらに、対話精神療法は共同作業活動であるので、三角形の対話が主となるのが正しいと指摘したうえで、初心者に次のように注意を促している。

 

“現在の対話精神療法の実情を見ていますと、三角形の対話関係を育成する技法を知らないだけでなく、その努力すらしていない治療者が、とても多いのです。

そのような治療者は、知ってか知らずにか、二者関係の対話ばかりを返して、もっぱら関わりを深めているのです。

その結果、関係の深まってゆく恋人たちにもしばしば見られるように、潜んでいた「二者関係の病理」を発掘・膨張してしまいます。

だれしも多少は、「二者関係の傷つき」の体験をもっているので、このなりゆきはとても多いのです。

傷が露呈すると、三角形の対話をするための基盤がなくなるので、関わりに重点を移した治療一筋へ変更せざるをえなくなります。(中略)

二者関係の歪みを癒すための、関わりに重点を移した治療が成功した例を見てみると、ノン・バーバルな手だてで二者関係を維持しつつ、三角形の対話の小さな芽を見つけて根気よく育てる作業が、ポイントなのです。

それが、二者関係の安定を育てるのです”(神田橋、1997a、26頁)。

 

さらに神田橋は、治療者・患者の対話と「かかえの場」について、次のように述べている。

“身体の治療の場合とおなじで、精神の治療も、根本のところは、その生体の自然治癒力によっておこなわれるのです。

そして専門家がおこなう「治療」とは、生体の自然治癒力を抱える場を設定することです。

その点では、身体療法も精神療法もおなじです。

ただし精神療法では、場とは関係の場です。

ですから、本質的には、関わりがあらゆる精神療法のすべてです。

いろいろと述べられる他の要素は、関わりという大綱の中の枝葉部分にすぎません。(中略)

さらに付け加えると、関わりの幹はノン・バーバルな水準であり、コトバは枝葉部分です”(神田橋、1997a、61頁)。

 

精神分析家の神田橋が自然治癒力を重視し、関わりの幹はノン・バーバルな水準であり、言葉は枝葉部分であると述べている意味は重い。

対話精神療法における治療の三角形という考え方は、内観の治療者・患者関係を整理するのに役立ち、内観と他の精神療法を比較する際の糸口を与えてくれる。
川原(1996)が内観の治療者・患者関係の記述に際して退行や転移に慎重な態度をとっているのも、単なる概念上の問題ではない。

一対一のカウンセリングや精神分析的治療では、神田橋のいう二者関係の病理を不必要に露呈させる危険があるのを知っているからであろう。

 

内観面接者が直接的な説得・介入を極力避けて「内観者の一歩後について行く」「産婆の役割」(柳田、1995)に徹するのも、また森田療法で一対一の治療者・患者関係が場の背景に退くように機能するのも、文化的要因や単なる「遠慮」「配慮」では片づけられない。

神田橋流にいえば、それは精神療法という作業に本質的な「並んで、一緒に歩いている」雰囲気や、「かかえの場」、自然治癒力と深くかかわっている。

ウィニコット流にいえば、それは発達促進的な「だっこ(holding)」「環境としての母(environmental mother)」であり、「うつわ(container)」(ビオン)、「深い転移」(河合)にも通じている。

伝統的な精神分析の用語でそれを表現すれば、「ほどよい陽性転移」「治療同盟」となるだろう。

いずれにせよ、それは一対一で対峙する関係−(強い)転移−ではなく、患者を支える共感的な「つながり」「絆」「器」としての場の機能である。

力のある患者なら、こうした場を支えに、治療者が下手な手出しをしなくとも、対話のテーマは、図11のようにA→B→C→Dと自然に深まっていく。
しかし、必ずしもそうなるとはかぎらないので、対話精神療法において抵抗や転移の問題が出てくるのである。

 

 

一対一の治療者・患者関係に現れる転移とその処理について、神田橋(1997a)は次のように述べている。

二者関係の病理(転移)に治療者が手をつけるのは、三角形の対話が一見進んでいるようにみえて、じつはそれが表面を湖塗するパターンにすぎず、三角形の対話を邪魔していることが明らかになったときである。

その際に、二者関係そのものが話題として取り上げられる(すなわち転移の操作が行われる)。

本来、かかえの場として三角形の対話を支えるはずの「私とあなた」の二者関係の変化部分を「転移」と名づけて話題(テーマ)にするのは、変化部分をテーマとした三角形の対話を作ることで、共同作業活動という本来の二者関係の質を回復する試みなのである。
 

これを筆者なりにまとめて、対話精神療法におけるテーマの変遷と転移の関係を三角形の構造として整理すると、図12のようになる。

この図を見ると、精神分析という対話精神療法では一対一の治療者・患者関係に現れる「転移」現象をセンサーとして使い、対話のテーマがA→B→C→Dと治療的に深まっていくのを援助していることがわかる。

これが精神分析における抵抗・転移の操作の治療的意味であり、「転移は最大の治療抵抗」といわれる所以である。
 

 

そうしてみると、精神分析では治療者が二重の役割を同時に担わされていることがわかる。

一つはかかえの場を担う役割としての治療者であり、もう一つは一対一の治療者・患者関係に病理(転移)の対象として登場する治療者である。

精神分析では、今、目の前にいる治療者との凝縮された一対一の関係(転移)を通して、抵抗や防衛を処理しようとする。
 

特定の人間関係に凝縮された出来事に焦点を当て、それを介して患者が己自身をみつめるというやり方は、精神分析も内観も共通している。

異なるのは、その具体的な方法である。

内観において、焦点が当てられ内省の対象になる一対一の関係やその相手とは、①その場にいない母であり、父である(稀に本人と母(父)が同時に内観を行うことがあるにせよ、別棟に分けるなどの配慮がされる)。

②現在の関係ではなく、母や父との過去の関係やそこでの出来事がテーマになる。

③母(父)との一対一の関係において、母(父)を調べるのではなく、「母(父)に対する自分を調べる」ことが最初から明示されている。

調べる方法も内観三項目としてあらかじめ提示されている。


内観における治療者・患者関係、内観三項目、かかえの場を図式化すると、図13のようになる。

これを精神分析の図12と比べてみると、精神分析において対話のテーマを推進する転移抵抗の操作の役割を、内観では内観三項目が担っていることがわかる。

精神分析も内観もそこに最大の治療抵抗が出現するのはこれゆえである。

一対一の人間関係に焦点を当て、そこに凝縮された出来事や関係を通して患者が己自身をみつめ直すというやり方は精神分析も内観も同じだが、内観では取り上げる(内省)対象に治療者が登場することはなく、また関係性の取り上げ方(内観三項目)も精神分析とはまったく違っている。

つまり内観では、病理・抵抗・防衛を処理する部分と「かかえの場」とが構造的にも内容的にもはっきり区分けされており、両者の間に混同が起きにくい。

治療者は「かかえの場」を育成するコーディネーターとしてはたらき、また内観三項目を検分する「立会い人」として機能する。
 

病理・抵抗・防衛と「かかえの場」は相互に対照的、異質であり、現象的には相容れないが、力動的には、両者は図12や図13に示したように、じつは密接な関係にある。

すなわち、病理・抵抗・防衛が処理されることで、「かかえの場」はますますかかえの場として機能するようになり、それを支えに病理・抵抗・防衛の処理はいっそう進展するというダイナミックな関係にある。

 

 

ゆう:カウンセリングだと転移が起こりやすいのかな?

 

Shin:転移のコントロールは、プロでも難しいと思う。クライエントの人間関係での問題が、カウンセラーとの間に再現されてしまうから。

 

ゆう:それが転移なんだよね?

 

Shin:そこをうまく利用して、治癒に導いていくのが卓越したカウンセラーなんだと思うけど、実際にそれができる人は、ごくわずかだと思うよ。

 

ゆう:クライエントは転移を自覚できないんでしょ?

 

Shin:転移という概念を知らないからね。カウンセラーに対して、なぜか強い好意を抱いたり、その反動で敵意や憎しみを抱くことが、転移の典型的なパターンであるとは知らない。

 

ゆう:カウンセリングだったら、まだ大丈夫だろうけど、恋愛関係で転移が起こったら大変だね。

 

Shin:抑圧していた心の傷が浮上して、ドロドロの関係になってしまうよね。場合によっては、憎しみ合って、大変なことになる。

 

ゆう:夫婦でも起こりそうだね。

 

Shin:夫婦間の問題は、転移と深く関わっていると思うよ。でも、本当は、それぞれの人の心の問題が、目の前の人間関係で浮上してきただけなんだよ。

 

ゆう:自分の問題だとは思えないよね。

 

Shin:お互いに転移を起こすから、お互いの問題なんだけどね。でも、通常は、相手だけが悪いと思ってしまうよね。

 

ゆう:どうして、そういう問題が浮上してくるの?

 

Shin:ある種の自然治癒力じゃないかな。心の問題が浮上してくることで、それを目の前の人間関係で癒そうとする。癒されれば、そこで解決なんだけど、通常の人間関係の場合、癒されるのが難しいんだよね。そうすると、また別の人との間で、同じ問題が浮上してくる。

 

ゆう:心が癒されたいと望んでいるのかな?

 

Shin:お互いに癒しあうために、そういう問題を作るのかもしれないね。そうやって少しずつ自分を見つめるということを学んでいくのかもしれない。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.