構造をメタに見ることの大切さ

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。内観療法の治療のメカニズムを見ていきます。メカニズムの解明は、知的な考察ですから、実際の治療においては軽視されがちです。しかし、車のレーサーが自動車の構造を知らないと、その構造をフルに活かした運転ができないように、医師が身体の構造を知らないと、安全な治療ができないように、心理療法のメカニズムの解明は、心理臨床家にとって、より効果の高い治療へと導く重要な側面だと思います。

 

ゆう:メカニズムを知っておくことも大切なんだね。

 

Shin:森田療法は、医師が作った心理療法だから理論的な考察が重視されてきたんだよね。でも、内観療法の場合は、宗教的な修行法から生まれた心理療法だから、理論よりも実践が重視されてきた。宗教的な伝統では、理屈よりも、とにかく修行をすることが重視されるから、理論的な考察は軽視されがちなんだよね。

 

ゆう:頭で考えるな、みたいな?

 

Shin:そういう風潮がどうしてもあるんだよ。でも、内観療法の発展には、他の心理療法との比較などの理論面での考察が不可欠だと思う。理論の熟成が、実践面を補強することになって、より高度な方法論へと発展していく可能性が生まれるからね。

 

内観法は森田療法と同様、日本で創始された精神療法であり、両者は実践的に優れた効果をもつことで共通している。

他の学問分野でもいえることだが、日本人は具体的な効能や応用といった面では熱心だが、その原理を説明・概念化することを「理屈にすぎない」と軽視する傾向がある(長山、2001)。

森田療法の場合は、創始者や後継者が西洋医学に基礎を置く医師であったために、森田療法の臨床や治療技法を理論化する努力が継続して行われてきた。

それに比べると、内観の場合、村瀬(1991)がいみじくも指摘したように、精神療法としてまとまった理論がないというのが実態である。

筆者自身、日本的精神療法を中心に比較精神療法の臨床研究に20年近く携わっているが、内観はきわめて優れた方法論であることを強く実感している。

深い人間理解に基づいた、実践的な「知恵」の見事さは群を抜くものがある。

内観は単に日本で独創されたというだけでなく、精神療法という臨床技法の本質を理解するうえで、大きな貢献を成す可能性を秘めている。
その際、問題になるのが、日本的精神療法の個別性や文化拘束性である。
村瀬(1991)は、森田学派が森田療法の独自性を強調するあまり、独特の森田語をつくりあげたことを例に挙げ、その試みがうまくいっていないことを指摘した。

また内観の理論化に際しては、村瀬(1996e ; 1996g)は、西洋の精神療法理論で使えるものはできるかぎり使って説明するほうがよいのではないかと意見を述べている。

 

以下、本章では内観の治療理論を提起していくが、その際、内観の「特異性」より、精神療法としての「普遍性」に焦点を当てて、その仕組みを解明していきたい。
とはいえ、内観の独自性や文化個別性を軽視しているわけではない。

そもそも、個別性と普遍性は別個なものではなく、物事の普遍性が理解できてはじめて、その独自性や個別性は深く理解できるからである。

まず本節では、内観の基本的な仕組みを、一般の精神療法と比較して構造論的に考察していきたい。

とくに内観に「独特」とされてきた、内観者・面接者「関係」(治療者・患者関係)や内観三項目の治療的な意味・機能を再検討してみたい。

それらは内観の根幹をなしており、その基本構造の検証を抜きに詳細部分に入っていくと、今後の論考が迷路に入り込んでしまいかねない。

 

ゆう:森田療法っていうのがあるの?

 

Shin:主に神経症に対する心理療法として日本で生まれたものだよ。ただ、森田療法には、「あるがまま」、「事実唯真」、「恐怖突入」といった独自の用語があって、森田療法の理論を端的に表すものとしてわかりやすいんだけど、その言葉が一人歩きしやすいんだよね。

 

ゆう:あるがままって、よく言われるよね。

 

Shin:「あるがまま」の場合、一般的によく用いられるので、森田的な意味とは違うことがあるし、あるがままであることと、あるがままでないことが、二元論的な枠組みで捉えられてしまうんだよね。

 

ゆう:二元論?

 

Shin:あるがままが良い、みたいな感じで、まるで、あるがままとあるがままではない状態があるように思ってしまう。でも、よく考えたら、これは矛盾しているんだよね。なぜなら、あるがままでない状態も、その人にとってのあるがままだから。

 

ゆう:あぁ、そういうのはよくあるよね。

 

Shin:あるがままになりなさい、とか言うと、あるがままの理想の境地になってしまうんだよね。でも、あるがままというのは、理想がない状態から、構造的に矛盾しているんだよ。

 

ゆう:ややこしいな。

 

Shin:なろうとすることと、そうであることは違うからね。それなのに、そうであることになろうとする。

 

ゆう:よくわかんない。

 

Shin:たとえば、力を抜くというのも、力が抜けた状態と、力を抜こうとしている状態は違うよね。力を抜こうとして力が抜けるならいいんだけど、力を抜こうとすると、余計に力が抜けなくなるんだよ。森田療法というのは、そういう領域の問題を扱っているから、余計に「あるがまま」という言葉を、そういうレベルで捉えてしまうとおかしくなるんだよね。

 

ゆう:結果として自然にそうなるのに、無理にそうしようとしてしまうということ?

 

Shin:そういうこと。結果としてあるがままになるのであって、あるがままを目指すのは矛盾しているんだよね。でも、結果の境地を目指すことで、余計に結果から遠ざかるという複雑な構造があるから、こういう矛盾はいろんな世界にいっぱいあるよ。

 

ゆう:そういうことも厳密に見ていかないといけないんだね。

 

Shin:そういう意味でも、構造をメタに見ることが大切なんだよね。理論の検証というのは、そういう意味でも必要なことだよ。

 

ゆう:心理療法だけではなくても、いろんな分野で大切だよね。

 

Shin:そう、個人の感覚も重要だけど、そのメカニズムを解明することによって、万人が実践できる普遍的な方法論へと進化させていくことができる。これは、天才が必ずしも優れた教師になれないように、メタに構造を見る認識力が必要とされるんだよね。

 

ゆう:メタって何?

 

Shin:一つ上の抽象度から現象を見るということ。

知識と感覚の高度な統合

(1)内観者・面接者「関係」(治療者・患者関係)の位置づけの困難さ

 

村瀬(1996d)は、「内観の関係」がきわめて特異であり、面接者と内観者の「関係」が果たす役割をうまく説明できる理論がいまだなく、また屏風という道具の使用や同室の内観者の存在の意味、さらには内観面接者の行動の型の特質(儀式化された礼拝など)がまったく理論化されていないと指摘している。

川原(1996;1999)は、内観の治療機序を考える際には、その独特の治療構造から検討する必要があるとしたうえで、小泉(1990)の分類を参考にしつつ、内観の治療構造を、①一次的内枠的構造、②二次的外枠的構造に分けて整理している。

 

一次的内枠的構造は、内観の根幹をなす内観三項目であり、川原(1999;2002)によれば、その一次的内枠的構造によって「恩愛感」「他者の認識」がもたらされるという。

そして、一次的内枠的構造の効果を高め補強する役割を果たす内観面接者(治療者)の態度や治療の場の設定が、二次的外枠的構造と呼ばれる。

二次的外枠的構造には、①遮蔽・行動制限により「集中性を高める設定」、②慈愛に満ちた対応や設定による「母性的支え」、③厳粛な対応や種々の規則の遵守をめぐる「父性的な構え」などが含まれている。

さらに川原(2002)は技法的な特徴として、症状・病理に触れない「不問技法」と、治療の場における個別性と集団性にも言及している。
 

一次的内枠的構造(内観三項目)との関連では、内観の治療者の役割は整合的に位置づけられているが、カウンセリングのような一般の精神療法との兼ね合いでは、内観の治療者・患者関係はうまく説明されているとはいいがたい。

そのため、川原(1996;1999)の「退行」や「転移」の説明は理論的に狭いものとなっており、他の精神療法との関連性が見えにくくなっている。
従来、内観の治療者・患者関係は他の精神療法と比較して特異であるとされ、それゆえ、治療論的な位置づけがうまくなされてこなかった。

たしかに、内観の治療者・患者関係は、他の精神療法のそれと著しく異なっている。

たとえば内観では、村瀬(1996d)が指摘するように、力のある内観者なら指導者が二人以上交代で現れても内観の進展にはほとんど影響がなく、内観面接も内観三項目に沿って内省が正しく進んでいるかどうかをチェックするのみで、内観者一人ひとりの報告内容を詳細に記憶しておく必要はないとされる。
吉本自身、インタビューのなかで、面接者は内観者の話を次の面接のためにある程度記憶しておく必要があるかとの問いに対して、記憶しておく必要はなく、むしろ忘れてしまったほうがよいと答えている。

そしてその理由として、内観の目的はそもそも、が(我)をなくして懺悔を伴う無我の境地に入ることであり、指導者に対して話をすることは、それ自体が目的でなく、それは無我の境地に入るきっかけをつくり、区切りをつけるためにすぎない。

ゆえに、指導者がいちいち内観者の話の内容をおぼえていると、かえって邪魔になる恐れがある、と述べている(吉本、1977)。

こうした内観面接のありようは、一対一の治療者・患者関係を軸に治療が展開する精神分析やカウンセリングでは、理解しにくい事柄である。
 

村瀬をはじめ、ほとんどの内観研究者が、内観の治療者・患者関係を特異なものと位置づけてきたのも、川原が「転移」や「退行」を概念的に狭く捉えたのも、内観の治療者・患者関係を、精神分析やカウンセリングと比較してうまく位置づけられないことに起因している。

このことは、研究や理論化が進まないだけでなく、内観の臨床にも大きなマイナスとなる。

なぜなら、精神療法は良くも悪くも人間関係に依拠した方法論であり、内観もその例外ではないからである。

そうした人間関係の要素(治療者・患者関係)を治療機序のなかにうまく組み込めないと、①他の精神療法との共通性が見えなくなり、内観の理解が浅くなる、②内観における治療者・患者関係の構造が理解できなくなり、応用や工夫がいたずらに無原則となるおそれがあるという二つの問題が起きてくる。

 

ゆう:理論と実践の両方が必要なのかぁ。

 

Shin:僕は、以前、オステオパシーという整体の技法を学んだことがあるんだけど、オステオパシーは、アメリカでは医師と同等の国家資格になっていて、専門の大学も存在するんだよね。オステオパシーは、解剖学や西洋医学に基づく知識を重視して、それらの知識を治療家の感覚と高度に統合して施術をするんだよ。

 

ゆう:知識と感覚が融合してるんだね。

 

Shin:そう、脳で言えば、前頭葉と脳幹の融合かもしれないけど、知識と感覚を統合させるという方法論は、あまりないんだよね。感覚を重視する人は、知識を軽んじる傾向があるし、知識を重視する人は、感覚よりもマニュアルに則った治療をする。

 

ゆう:統合するのは難しそうだね。

 

Shin:知識と感覚というのは、矛盾する要素があるんだよね。でも、知識と感覚を高度に統合することができれば、ハイレベルな治療が可能になるんだよ。

強い転移と深い転移

(2)内観の基本構造に関する筆者の論考とその問題点

 

前述のような問題意識から、筆者はかつて、内観と他の精神療法を比較して、内観が三角形の治療構造を持つことを明らかにした(長山、1998)。

内観と同様、森田療法も精神分析のような一対一の「転移」を扱わずとも深い治療が行われるが、その理由を筆者は箱庭療法の理論を援用して説明した(長山、1989)。

河合(1986c)によれば、箱庭療法も一対一の治療者・患者関係で、直接患者の病理を扱わなくても深い洞察が生じるといい、その理由を「深い転移」と「強い転移」という概念で説明している。

 

河合によれば、患者が治療者個人に直接、陰性、陽性の感情を表出するとき、そこには「強い転移」が生じており、一方、患者が自分の内的な問題を治療者とともに解決し、それを非言語的にでも表現しようと決意するとき、そこには「深い転移」が生じているという。

「深い転移」に関して河合は、“この際の援助とは治療者が積極的に何かをしてやるのではなく、クライエントに対してひとつの望ましい「場」を提供してやるのだ”と述べている。

つまり河合のいう「深い転移」は、一対一の治療者・患者関係というより、患者が自らの無意識に出会い自己を実現するのに必要な、受容的で安定した「場」を意味しており、その種の場を、河合はカルフの言葉を借りて「母と子の一体性」「自由にして保護された空間」とも表現している。

深い治療が生じるには「深い転移」が必要だが、「強い転移」は必ずしも必要ない。

治療者は転移の「強さ」と「深さ」を区別する目を持つことが大切で、不必要なかたちで「強い転移」を引き起こし、深い治療が生じるのを阻害しないよう注意せねばならないと、河合は戒めている。

また河合によれば、箱庭療法においても「深い転移」だけでなく、相当強い攻撃性や感情表現が見られるという。

しかし、重要なのは、それが精神分析のように「強い転移」として直接治療者個人に向けられるのではなく、箱庭の中に表現される点である。
つまり箱庭療法では、箱庭を介在させることで「強い転移」と「深い転移」が無理なく区別されているのである。


これと類似した仕組みが、森田療法にも認められる(長山、1989)。

森田療法では、患者の病理(観念過剰の強迫性)は作業への深いコミットのなかに再現・凝縮される仕組みになっており、日常作業を通して彼らの強迫性病理は処理される。

内観でも同じように、患者の依存病理は「迷惑」を中心とした三つのテーマ(課題)に凝縮されるようセッティングされている。


内観や森田療法の治療構造と技法を精神分析と比べた場合、次のような共通項が認められる(長山、1998)。

①治療者・患者間の心理的距離の取り方が具体的な構造や技法として定式化されている。

②「深い転移」と「強い転移」を区別する構造上の手助けがあり、構造化されたシステムによって防衛処理が行われる。

③集団・家族的な雰囲気が最大限治療的に活用される。
 

内観に関するかぎり、上記の比較精神療法的な考察はまだ不十分なものであった。

なぜなら、そこでは精神分析やカウンセリングと森田療法、内観法の治療者・患者関係が質的に違うというスタンスから十分抜けきれていなかったからである。

次項で取り上げる滝川の言葉を借りれば、まだできあがった精神療法どうしを比較しているにすぎなかった。

そこでは「道具」を使う治療法(箱庭療法、森田療法、内観法)と「道具」を使わない治療法(精神分析)という区分がなされていた。

筆者はその後、精神分析の「転移」の概念が実践的には治療の三角形を作り出す作用点となることを指摘したが(長山、2001a)、さらにそれを神田橋がいうような広い視点から捉え直す必要がある。

そうすることで精神療法における「道具」の意味や三角形の基本構造についてより深く理解することができ、また内観の「特異」な治療者・患者関係を、普遍的な観点から位置づけることが可能になるからである。

 

ゆう:転移というのは、結構重要なテーマなんだね。

 

Shin:どうしても、そこが問題になるんだよね。それは、その人の幼少期の親に対する感情が、他者に投影されて表出されるから。あらゆる人間関係でのトラブルの根源的な原因になっているんだよ。

 

ゆう:でも、親と他人は違うよね。

 

Shin:違うんだけど、潜在意識が同じように扱ってしまうんだよね。

 

ゆう:どうしてそうなるのかな。

 

Shin:幼少期の心の傷や甘えを癒したいからなのかも。だから、転移は、恋愛関係で生じやすいんだよ。

 

ゆう:でも、カウンセラーにも転移するんでしょ?

 

Shin:カウンセラーは、潜在意識にとっては擬似的な親になってしまうんだよね。だから、カウンセラーに対して強い愛情を抱いたり(陽性転移)、強烈な憎しみを抱いたり(陰性転移)してしまう。でも本当は、幼少期の頃の親への感情が抑圧されていたんだよ。

 

ゆう:親への愛情や憎しみだったら、ものすごく強くなりそうだよね。

 

Shin:そこを扱うのが精神療法家だから、ものすごく難しい仕事なんだよね。たとえば、フロイトの精神分析療法だと、クライエントは治療者に強い転移を引き起こして、陽性転移から陰性転移になる。治療家を非難したり、攻撃的な態度をとったりする。

 

ゆう:それは危険じゃないの?

 

Shin:そういうプロセスを通過しないと癒しが起こらないんだよ。クライエントが受容的な態度を取り続けると、少しずつ癒されていくんだよね。でも本来は、この作業は、親がしないといけなかったんだけどね。

 

ゆう:なんか無条件の愛に近いよね。

 

Shin:そう、親の無条件の愛の疑似体験なんだよね。でも、心理療法の場合は、中断してしまうことがよく起こる。そうなるとクライエントは、憎しみを処理できないままで終わってしまう。

 

ゆう:内観療法だと、そういう転移は怒らないよね?

 

Shin:内観療法や森田療法は、治療者とクライエントという関係性がそれほど重視されていないから、このような強い転移は起こりにくい。でも、転移というのは、目の前にいる治療者に対してだけではなく、記憶の中の親や他者に対しても起こるんだよね。

 

ゆう:その方が直接的に癒しが起こるんじゃないの?

 

Shin:内観療法は、それを目指しているんだよね。親との関係を想起することによって、直接的に転移の処理をおこなうんだと思うよ。

 

ゆう:でも、強い転移とか、深い転移とか、違いがよくわからない。

 

Shin:強い転移というのは、治療者に対して直接的に向けられる強い感情を伴った転移だよね。深い転移というのは、自分の内面を深く洞察することによって起こる転移なんだと思う。ただ、この辺の用語の使い方は、ちょっと文学的というか、わかりにくいよね。感覚的には、なんとなくわかるけど。

 

ゆう:内観療法は、そういう激しい感情を治療者に向けるようなことは起こらないということだね。

 

Shin:そのために、厳密な構造を作り出している。この辺も、型を重視する日本文化の影響を受けているような気がするよ。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.