信念体系が記憶を選別し、過去の世界を作り上げる

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。内観療法で一番問題になるのは、過去を思い出せないという心理的抵抗です。

 

ゆう:誰でも過去はすぐには思い出せないよ。

 

Shin:もちろん、人間はすぐに過去を詳細に思い出せるわけではないけど、内観療法の課題である「してもらったこと」、「して返したこと」、「迷惑をかけたこと」だけが思い出せなくて、それ以外の日常のエピソードなら思い出せるということがよく起こるんだよ。

 

ゆう:日常のことなら思い出せるのかぁ。

 

Shin:だから、内観療法の課題に対して、心理的な抵抗が働いている可能性が高いんだよね。

 

ii)漠然とした回想
内観三項目への抵抗でしばしば見受けられるのは、過去の事実が思い出せない、あるいは漠然とした回想になってしまうといった出来事である。

内観では、母親(父親)に対する自分を、遠い過去に遡って順向的に時期を区切って回想していく。

年配の人の場合、小学生時代の母親との関係は数十年も昔のことであり、そうした遠い過去を内観三項目という決められた形式に沿って集中的に思い起こす作業には困難を伴う。

それは単に遠い昔だから思い出しずらいだけでなく、武田(1972)も指摘するように、思い起こす形式や思考方法があらかじめ定められているために、いっそう戸惑いや想起困難を引き起こすのである。
 

内観に入って2、3時間から半日ほどは、馴れない環境や身体的苦痛も影響してなかなか回想に集中できず、遠い過去は「雲を掴むような」彼方にあると感じられる。

とりとめもない思い出が漫然と頭の中に浮かんでは消え、漠然としたかたちで過去の事柄が思い出される。

そうした困難を乗り越えて回想を続けていくうちに、次第に環境にも慣れて身体的苦痛は減弱し、ぼんやりとした霧の中から過去の思い出が少しずつ断片的に浮かび上がってくる。

 

内観では、想起を助ける工夫がいろいろと凝らされている。

1セッション中で想起する過去の時期を数年間に限定し、想起の対象を特定の個人、つまり母なら母という個人に固定するやり方もそのひとつである。

回想の時期や対象を1セッションごとに限定・固定することで曖昧な回想や想起の拡散を防ぎ、内観者の意識を集中させる効果がある。

他者の視線を遮る「屏風」や情報・刺激遮断の環境が、内観者の精神集中を助けるようにはたらくのはいうまでもない。

幼少時期からかかわりの深い母親から回想を始める点も、葛藤が比較的少なくてすみ、馴れない想起には有利である。

内観三項目のテーマも、具体的想起を促進する絶妙な組み合わせになっている。

「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」という内省テーマのうち、「迷惑」を想起するのは難しいにしても、「してもらったこと」「して返したこと」のテーマは価値規範から比較的離れた日常的具体的なテーマであり、イメージも湧きやすい。

それはギブ・アンド・テイクのかたちで組み合わされているので心理的抵抗も少なくてすみ、過去の自分の行為を具体的に思い起こす練習には好都合である。

内観では具体的な事実の想起をとりわけ重視し、たとえば前章で紹介した「養育費の計算」などは、具体的なもの、堅いもの、輪郭のはっきりしたものを最初に取り上げるという精神療法の基本原則に則っている。

内観者に昔の写真を持参してもらったり、昔の古い教科書を研修所で用意しているのも過去を具体的にイメージしてもらう工夫である。


内観では「両親から○○をしてもらいました」「兄弟たちに○○をしてもらいました」などと複数の対象とのかかわりで焦点がぼやけたり、「母はいつも優しく親切に接してくれました」「あれこれお世話になりました」「私は時々いろいろ手伝いをしました」「母に対してたいへん悪いことばかりして、非常に迷惑をかけました」などと漫然とした回想ではなく、個別的・具体的な過去の出来事を明瞭なイメージを伴って回想できるかどうかがカギになる。

内観では過去の出来事を絵に描けるように具体的に思い起こすように要請される。

母から弁当を作ってもらったとしたら、その時の弁当の中身はどんなものだったか詳細に思い出してもらう。

こうした具体的なイメージを伴う事実の想起は、内観者(患者)の防衛処理に大切な役割を果たす。

前節で紹介した柳田邦男氏の内観でも、氏がかつて通っていた小学校の校舎の様相がありありと目に浮かんできたのが一つのきっかけとなって内観が深まっている。
 

漠然とした回想は単に不慣れなために起きるのではなく、それ自体が自己変革・自己直面化への抵抗であることが少なくない。

たとえば、病理的な罪悪感と健康的な罪悪感(懺悔心)では、罪悪感の内容に違いがあるとされている。

後者の健康的な罪悪感の場合、罪悪感の内容が具体的で他者にも了解しやすいのに対して、前者の無意識防衛的罪悪感は、内容が漠然としていて抽象的なのが特徴である。


具体的でリアルな想起は認知修正や洞察にとって重要な第一歩である。

川原(2002)が、内観療法はまず“意識から遠のいていた体験、あるいは幻想的に修飾されていた記憶から事実の部分を明瞭に想起することから始まる”と述べているのはまさにこれである。

内観者にとって、それまでの関係が良好な人ほど内観三項目に沿った回想を行いやすく、反対に葛藤が強い人ほど回想には困難が伴い、回想内容も抽象的で曖昧になりやすい。

たとえば、柳田が内観「迷答集」で紹介した例のように、母親に葛藤が強い人の場合、「してもらったこと」の回想で「誕生日をしてもらった」ことの事実の早期が曖昧なだけでなく、「誕生日のようなものをしていただきました」と内省報告を曖昧にやり過ごそうとする心理的抵抗が透けて見える。

 

ゆう:具体的なことが思い出せないんだね。

 

Shin:そう、抽象的なことしか思い出せなくて、実感が伴わない。これも心理的な抵抗の一つだよね。とりあえず表面的に内観療法をして、やり過ごそうとしている。

 

ゆう:内観療法そのものを辞めたりはしないけど、適当にしてしまうのかぁ。

 

Shin:本人は適当にしようとしているのではなくて、本当に思い出せないんだよね。どうしても表面的なことしか思い出せない。心理的な抵抗というのは、本人の意志とは別のレベルで起こるからね。

 

ゆう:恨みの記憶が出てくるのも、心理的な抵抗なんでしょ?

 

Shin:人間は、無数にある体験の中から、自分の信念に沿った記憶だけを無意識レベルで選別して想起するんだよ。だから、過去というものは、その人の信念に沿った形での世界観になっている。たとえば、親は自分を愛してくれなかったと思い込んでいると、そのような記憶だけを無意識レベルで選別して、自分の過去の世界観を形成しているんだよね。

 

ゆう:確かに、都合のいい記憶しか思い出せないよね。

 

Shin:自分の思い込みとは違うような記憶は、忘れてしまうんだよ。だから、人間の記憶って怖いんだよ。本人は事実だと思っていても、自分に都合の悪い記憶を忘れているだけで、その事実を歪めているかもしれないんだよね。

 

ゆう:じゃあ、過去ってなんなんだろうね。

 

Shin:その人の信念が作り上げたバーチャルリアリティだよ。だから、内観療法をすると、忘れていた記憶を思い出して、過去が変わってしまう。

 

ゆう:過去が変わるのかぁ。

 

Shin:過去が変わると、今も、未来も変わってしまう。自分は親に愛されなかったという過去を作り上げていたら、今も、未来も、人に愛されないというリアリティを作り上げてしまう。これは、本当に怖いことだよ。

 

ゆう:間違った思い込みが、現実を作ってしまうのかぁ。

 

Shin:そう、だから「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」という記憶を詳細に思い出すことで、過去の世界観をより事実に即したものに戻して、間違った思い込みによる信念体系を解除していくんだよね。

 

ゆう:そう考えたら、洗脳を解くことに近いんだね。

愛情を素直に受け入れることへの抵抗

ⅲ)理屈づけによる内観

内観三項目の回想をなんとか理屈でこねくり回してあれこれ意味づけ、抵抗・葛藤する内観者もいる。

知的レベルの高い人や教員などの職業、強迫傾向のある内観者に見られやすい。

そうした場合、内観者は過去の事実を想起するというより、課題について考えたり思考しているにすぎない。

武田(1972)が観念的思弁(内観テーマを思弁の枠に組み入れようとする)と表した出来事はこれである。

明瞭なイメージを伴った過去の想起は「考えること」で生み出されるものではなく、逆に「思考する」ことはそうした事実の想起を阻害するようにはたらく。

理屈による内省も「価値規範への抵抗」「漠然とした回想」と同様、単に慣れない回想様式への初期の反応である場合と、それが当人の深い抵抗を表している場合の両者がある。

「迷惑を調べることにどんな意味があるのか?」と考え込む人もいれば、思い出した過去の事実にわざわざ理由や条件をつけることで、内観三項目に沿ったリアルな想起から目を逸らそうとする場合もある。
 

たとえば、「運動会で1等になったので弁当を持ってきてくれました」「テストでいい点数を取ったので洋服を買ってもらいました」「お母さんが作った夕食を食べて下痢をして、夜中に医者に連れていってもらい心配させて迷惑をかけました」などがそれである。

運動会で弁当を持ってきてくれたのはべつに1等になったからではないし、2等でもビリでも母親は弁当は持ってきたはずである。

そうした理由や条件をつけることで、内観者は自分の自慢話をしたり、あるいはしてもらったことのストレートな想起や気づきを回避しようとする。

「お母さんが作った夕食を食べて……」という迷惑想起の仕方も、実際そうだったかもしれないが、母親にかけた迷惑を調べる文脈にそうした前置きや説明を入れるのは、迷惑をかけた事実をそのままダイレクトに受け入れることが困難なため、「母が作ってくれた夕食を食べて……」という恨みの混じった説明や理屈づけがついてくるわけである。

こうした条件づけや理屈が伴う回想は、たとえそれが事実であったにせよ、内観三項目に沿った回想の文脈からは外れており、エピソードの細部やリアルな想起が阻害されてしまう。
 

人によっては、食事時に流される先輩内観者のテープを聞いて、それを知的に先取りして、自分はあんなふうにうまく内観ができないと悩む人もあれば、反対に自分をよく見せよう、模範回答と思われようと気負った態度で内観する人もいる。

 

ゆう:ややこしいなぁ。

 

Shin:こういう微妙な方法での抵抗もあるんだよね。相手の好意に、わざわざ条件付けを加えてしまう。そうすることによって、相手の愛情を暗に否定するんだよ。

 

ゆう:どうしてそこまでのことをするんだろう。

 

Shin:相手の愛情を素直に受け入れることに心理的な抵抗が働く。素直になるというのは、人間にとってものすごく難しいことなんだと思う。

 

ゆう:素直になるのが難しいの?

 

Shin:だって、相手の愛情を受け入れるということは、自分は愛されるに値する人間であると認めることになるから。愛される人間であると自認するというのは、結構難しいことだからね。

 

ゆう:そうなのかな? 僕は愛される人間になりたいけど。

 

Shin:顕在意識ではそう思っていても、いざ愛される状態になると、怖くなるんだよ。素直に相手の愛情を受け入れるというのは、自分の内なる力を認めることになるから、成長に繋がるんだよね。

 

ゆう:あぁ、成長に繋がるから、心理的な抵抗が生まれるのかぁ。

 

Shin:人間の心理って、本当に複雑だからね。

事実を見ないという抵抗

iv)迷惑でないこと(していないこと、期待に添えないこと)を取り上げて迷惑想起に抵抗する


内観三項目のうち、事実に沿って回想するのが最も難しいのは「迷惑をかけたこと」の想起である。

迷惑にかかわる想起は罪悪感や防衛と直接結びついているため、明瞭な想起が困難なのは当然といえる。

「迷惑をかけたこと」の回想でしばしば見受けられるのは「迷惑でないもの」「していないこと」を取り上げて迷惑と無意識にすりかえる回想様式である。
たとえば、「私は頭が悪かったので、いくら頑張っても友人のようによい成績が取れず、母の期待に添えませんでした」「受験に失敗して母の期待に添えませんでした」「自分は色黒で夫好みの女でなくて、迷惑をかけました」「妻の希望に添って大きな家を建ててやることができず、迷惑をかけました」等々である。

これらはいずれも、できなかったこと、やれなかったこと、期待に添えなかったことである。

実現できなかったこと、やれなかったことは人生に無限にあり、それは具体的な迷惑行為というより、ある種の仮定・架空の話を前提にしている。

「迷惑をかけたこと」はそうした仮定や想定に基づく話ではなく、自分が行った実際の行為によって相手にかけた負担や迷惑を調べることである。
 

相手の期待に添えなかった仮定・架空の話をわざわざ持ち出さなくとも、自分の実際の行為に基づいた迷惑は山ほどある。

内観者がその種の仮定・架空の話を持ち出すのは、そうすることで実際に相手にかけた迷惑に直面しなくてすむからであり、無意識にそれを避けることができるからである。

つまり「しなかったこと」「できなかったこと」「期待に添えなかったこと」は、無意識的な依存防衛的罪悪感とかかわる産物であり、それは仮定・架空の話であるから、当然、内容は漫然としており、リアルさに欠ける。

そこには、当人の万能感や被害者意識・攻撃性が潜んでいる。

リアルさに欠けた、仮定・架空的内容の罪悪感は、事実に基づいた部分が少ないにもかかわらず、自責的な感情反応だけが目立っている。

そうした被害者意識・攻撃性を特徴とする罪悪感は、うつ病の罪悪感にも通じるもので、仮定・空想を前提にした「迷惑」や罪悪感は、現実の「迷惑」や真の罪意識を隠蔽する作用がある。

 

内観ではあくまで具体的な事実に基づいて、正邪・善悪を超えて回想を進めていく。

こうした内観の大原則は、臨床的にも理論的にもきわめて重要である。

内観的な回想は具体的な事実をイメージしやすく、またギブ・アンド・テイクの組み合わせになっている「してもらったこと」「して返したこと」からはじまる。

内観では、事実に基づいた回想が、入り口−「してもらったこと」「して返したこと」−から出口−「迷惑をかけたこと」−まで一貫して貫かれる。

出口に位置する「迷惑」想起では、どんな小さなことでもよいから、自分が現に行った行為(事実)に基づいて相手にかけた「迷惑」を調べていく。

そこでは「しなかったこと」「できなかったこと」という仮定・架空の話を排することがポイントになる。

仮定・架空の話を排して、現実の行為に基づき善悪を超えて具体的・詳細・明瞭に「迷惑」のエピソードを思い出していく作業は、と、りもなおさず、依存防衛的な罪意識と良性な罪意識の間に楔を打ち込み、区分けする作業にほかならない。

 

吉本(1981a)は、内観の深さは涙の多寡や情動の揺れで計れるものではなく、事実をどれほど深く掘り下げていったかが重要であると繰り返し強調し、涙や号泣にごまかされてはならないと述べている。

涙や情動の揺れに目を奪われると、自責感のみ強くて情動の揺れが激しい(仮定・架空の話が混じった)依存防衛的罪悪感と、(具体的な事実に基づいた)真性の罪意識(懺悔心)とが区別できなくなってしまう。

「迷惑」を、事実に基づいて具体的・詳細・明瞭に想起する作業は父性的な精神態度であり、それは依存防衛的罪意識を排して、真性の罪意識を活性化させ、健康な超自我を内在化させるはたらきがある。


これまで、内観に見られる抵抗やこだわり・滞りの諸相を、「内観の外枠的構造へのこだわり(抵抗)」「面接者へのこだわり(抵抗)」「内省対象へのこだわり(抵抗)」「内観三項目へのこだわり(内枠的構造への抵抗)」などのレベルから検討してきた。

それら種々のこだわり(抵抗)は、内観者の心的防衛パターン(心ぐせ)を表しているわけだが、それはいずれも内観の一つのプロセスであって、内観者が内観に真剣に取り組んだ結果、起きた現象であることを忘れるべきではない。

さらにそうした四つの領域のこだわりや滞りは別々なものではなく、相互に密接に影響しあっていることは「期待に添えなかったこと」を例に説明したとおりである。

つまり、内観者の内省が「期待に添えなかったこと」から事実に沿ったものに変化するとき、内観者は面接者の期待に添う(こだわり)ことをやめ、真に内観三項目と向き合うことになる。

そうして面接者個人へのこだわりが薄れることで、「通し間」での告白に抵抗(こだわり)がなくなり、匿名の集団の場のなかで懺悔する「開け」の経験が可能になる。

「内観三項目の想起方法の適正化」「病理的罪悪感から離れる」「面接者個人へのこだわりから離れる」「通し間での面接・告白への抵抗感の消失」が同時に起きてくるわけである。

 

ゆう:事実を見ていくことが大切なんだね。

 

Shin:相手に直接的にかけた迷惑を見ていかないと、本当の自分が見えてこないんだと思う。

 

ゆう:表面的に自分を見ることと、深く見ることは、結構違うんだね。

 

Shin:事実ではないことを想定する場合、自分はこれだけ相手のことを思っていたという自己防衛が働くということかな。

 

ゆう:空想に逃げるみたいな?

 

Shin:観念的で空想的な迷惑を捏造するんだと思う。たとえば、期待に添えなくて迷惑をかけましたとか、仕事がうまくいかなくて迷惑をかけましたといった「自分がしなかったこと」に関する空想的な迷惑だよね。

 

ゆう:自分が直接的にした迷惑ではないよね。

 

Shin:内観療法は、あくまでも自分の行為を見るということだからね。していないことを想定しても意味がない。

 

ゆう:自分を見つめるって大変なんだね。

 

Shin:内観療法だけではなくて、僕たちが反省するときにも、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔することが多いよね。でも、そういうのは、自分が直接的にした迷惑から目を背けている可能性がある。

 

ゆう:なかなか、そこに直面できないよ。

 

Shin:そういう愚かな自分をきちんと見て、直面することによって、自分を丸ごと受容できるんだよね。それが本当の意味で、自分を愛するということだと思うよ。

 

ゆう:確かに、自分を愛そうと思っても、どうやっていいかわからないよね。

 

Shin:自分を愛するには、自分をきちんと把握しないといけない。そのためには、見たくない部分をきちんと見て、受け入れないといけない。その作業が、自分を深く見つめるという作業だと思う。これは本当に大変なことだよ。

 

ゆう:そんなことできる人いるのかな。

 

Shin:難しいからこそ、内観療法で練習しているんだよね。他にもいろんな方法があると思うけど、結局それは、自分を深く愛するということにつながっていると思う。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.