内観療法の方法論に対する心理的抵抗

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。心理療法での抵抗について見ています。私たちは、成長したいと思いながらも、深層意識では、その成長を恐れていて、成長を避けるような方向に自分を誘導する場合があります。

 

ゆう:自分を誘導するって?

 

Shin:抵抗を自覚できないということ。自己催眠の一種だと思う。

 

ゆう:自覚しないで、避けてしまうの?

 

Shin:そう、別の理由を作って、成長を避ける。内観療法では、トイレが汚いとか、ほとんど関係のないような理由で内観療法を中断したりする。でも本人は、それが正当な理由だと思い込む。そういう風に自分の意識を自分でコントロールしてしまうんだよ。

 

ゆう:そこまでするものなの?

 

Shin:そこまでするんだよね。だから、抵抗を乗り越えて成長し続ける人たちは、スポーツであれ、芸術であれ、尊敬されるんだよ。なかなかできることではないからね。

 

(5)内観三項目へのこだわり(内枠的構造への抵抗)
 

川原(1996)や江頭(1998)が指摘するように、内観の本質は、屏風や内観面接などの外枠的な設定にあるのではなく、「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の内観三項目を内観者がいかに内省するかにある。

それゆえ、内観者の抵抗や体験過程が、内観三項目を中心に展開するのは当然なことである。

精神分析において転移がαでありωであるように、内観では内観三項目がαでありωである。

ここでは、内観三項目をめぐる抵抗の様相を、便宜上いくつかに分けて考えてみたい。


i)価値規範への抵抗
内観では、母や父に対して内観者が「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」を「検事(自分)が被告(自分)を調べるように誤魔化しなく徹底的に調べる」ように要請される。

内省課題や内省方法がきわめて倫理的であるので、内観に対して「倫理的道徳(とくに恩思想)の押しつけ」「内観には宗教色が強い」などと抵抗・反発を感じるのはごく自然なことである。

倫理観や感謝の押しつけ、宗教ではないか、等の抵抗は、内観の開始前や内観初期に多いとされるが、それらは自己探求の抵抗や自己変革の抵抗ともじつは深くかかわっている。

そうした抵抗は内観者・面接者「関係」や内観的態度の相互性とも密接に絡み合っており、それを単なる導入期に見られやすい現象と簡単に片づけると、問題の深さを見過ごすおそれがある。

価値規範にかかわる抵抗には二重のもの、つまり表層的な抵抗と自己変革への抵抗が不可分に絡み合っている。

価値規範にかかわる抵抗を、超自我の変容・内在化の抵抗(超自我抵抗)と、内観者・面接者「関係」における内観的態度の相互性から見てみよう。
 

a)超自我・規範の修正と内在化への抵抗
「倫理的道徳(とくに恩思想)の押しつけではないか」「内観には宗教色が強い」「感謝を強要されているようで抵抗を感じる」といった感想は、しばしば内観者から聞かれる。

しかし、内観の面接者は価値規範を連想させる「指導」の類はいっさい行わないし、内観者が主人公で面接者は「しもべ」であること、また内観者は回想内容をすべて面接者に報告する必要はなく、言いたくないことは言わなくてよいことは、内観導入時に明確に説明される。

また、内観を進めるペースも内観者に任されており、途中で内観をやめて帰ることも可能である。


内観初期や導入前にしばしば見受けられる「価値観の押しつけではないか」との抵抗は、上記のような設定や約束事、あるいは内観開始後の面接者の傾聴・受容の態度によって自然と和らいでくることが多い。

なかにはそれでも「押しつけ」にこだわる内観者があり、その場合も、中途で一対一のカウンセリングの機会を設けることで、緊張した構えがほぐれて抵抗感は薄らいでいく。

しかし、「外部から押しつけられた」と感じる抵抗が当人の自己変革の抵抗と強くリンクしている場合、その種のこだわりは持続しやすい。
そうした場合、内観者がやれる範囲で内観をするという面接者の基本態度が重要になってくる。

そうでないと、規範への抵抗感(じつは自己変革への抵抗)をいたずらに煽って内観が中断し、挫折感を与えかねない。


内観では規範的な側面が最初から表に露呈しているが、精神療法においては、規範とそれにまつわる罪悪感は「洞察」や「基本的な認知枠の変化」と不可分な関係にある。

詳しい説明は罪悪感の理論的検討の項に譲るが、洞察志向的な精神療法においては、患者(内観者)の規範や価値観が内面から大きく変化することが、とりもなおさず洞察の本質である。

精神分析流にいえば、洞察や基本的な認知枠の変化は、超自我の改変と密接にかかわっている。

精神療法で持続的な効果を得るためには患者の超自我がより健康的に変容することが必要であると、精神分析では考えられている。

超自我の変化への抵抗はまさに抵抗の核心であり、そうした超自我抵抗は価値規範や罪悪感への反応となって現れる。

内観の場合、そうした深層の問題(課題)が最初から内観三項目として内観者に提示されるために、面接者には慎重な対応が求められるのである。

超自我の内在化や変容は、外部からの強制で達成されることはなく、そこでは患者の自発性(自己変革への自発性)と抵抗(防衛)との微妙な関係が問題となってくる。


内観者が単純に内観を価値規範と誤解している場合はさほど問題ではないが、その種の抵抗が実際に外側の押しつけ(外側の問題)にかかわるのか、あるいは内観者側の自己変革の抵抗なのかは、簡単には区別できない。

両者は実際上密接に絡み合っており、どこまでが外からの押しつけで、どこからが超自我抵抗なのかは線引きしづらい。

内観はそもそも超自我抵抗を受けやすい設定になっており、外側からの押しつけにならないよう面接者が禁欲的なのはこれゆえである。

指導に禁欲的であればあるほど両者の区別はつきやすく、逆にそうでない場合、両者は不必要に混同して区別がつきにくくなる。

言い方を換えれば、内観においては、規範にかかわる抵抗が入りロの段階でも、また出口の段階でも大きな問題となってくる。

精神分析では、表層から深層まで、すべて「転移」をバロメーターに作業を進めるのに対して、内観では「迷惑」を中心とした内観三項目で精神内界をどこまでも探っていく。

精神分析は「転移」という関係性の本質を突いた現象を治療のツールとして使うので深層心理学的な問題を扱えるのであり、一方内観は、規範や罪悪感というテーマゆえに深層心理的問題を扱えるのである。

 

ゆう:道徳の押し付けっていうのは、わかる気がする。

 

Shin:してもらったことや、迷惑をかけたことを思い出すということ自体に、そういうニュアンスを感じるのかもしれないね。

 

ゆう:単に思い出しているだけなのにね。

 

Shin:よく考えたら、親にしてもらったことを思い出したり、迷惑をかけたことを思い出しているだけで、そこに過剰な倫理や道徳は含まれていないよね。でも、なぜかそう感じてしまうのは、そこに心理的な抵抗が働いている可能性が高い。

 

ゆう:内観療法自体に対する抵抗なのかな。

 

Shin:トイレが汚いとかだと、自分でもおかしいなと気づく場合がある。多少洞察力が強い人の場合は、自分が言っていることがおかしいことに気づく。でも、そういうタイプの人は、自分で自分を納得させるために、かなり巧妙な論理を作り上げる場合がある。内観療法の理論がおかしいとか、こういうことをしているとうつ状態になるのではないかとか。それもある種の心理的な抵抗なんだよね。

 

ゆう:でも、そうなってしまうと、心理的な抵抗だとは気づかないよね。

 

Shin:まさしく、気づかないということが重要だから、それで上手に成長を回避することができるんだよね。

 

ゆう:内観療法って、厳密な型があるから、それが嫌だという人もいるんじゃないの?

 

Shin:洞察による治療を目指す心理療法では、クライエントの価値観が変容することが治癒に繋がるんだよね。従来の不合理な認知が、より適応的な認知に変化することで治癒が生じる。でもこれは、本来は自分で気づくというプロセスが必要だから、内観療法のような型を重視した手法だと、気づきが阻害されてしまうと誤解されやすいのかも。

 

ゆう:強制されているような感じがするんだよね。

 

Shin:たとえば、ロジャーズ派のカウンセリングのように、規範を完全に排するという方法論だと、そういう誤解は生じないけど、治癒までに何年もの時間がかかるんだよね。

 

ゆう:それって、踊りや武道の型に似てるね。

 

Shin:そう、型というのは、合理的な動きを抽出したものだから、それを練習することによって上達が早くなる。でも、そういう型の練習をして何の意味があるのか、と疑問を持つ人もいるよね。ロシアのシステマという武道は、全く型がない。それは方法論の違いなんだよね。でも、そういう方法論の違いの問題が、なぜか強い否定となって現れる場合は、心理的な抵抗が関係しているかもしれない。

抵抗のメカニズムが知られていない理由

b)内観的態度の相互性との関連
前項では、内観者・面接者「関係」に内観的態度の相互性という出来事が観察され、それが内観的治療関係の根底を支えていることを指摘した。

つまり内観では、面接者も内観者と同様、どれほど相手の立場に立てるかが重要なわけだが、内観者の心理的抵抗(防衛)との兼ね合いでいうと、相手の立場に立つということがいったいどのレベルの話なのかが重要になる。

相手の立場に立つことが、単に相手の嫌がることをしない、機嫌を損ねない、抵抗感を減らすということだけだと、下手をすると面接者は無意識裏に内観者におもねり、相互依存的になる危険性がある。

たとえば面接者が合掌する様子は宗教を連想するから抵抗を感じる。

さらには深い礼拝も、なにか対等ではないし面映ゆい。

「迷惑をかけたこと」「嘘と盗み」も道徳のようだとどこまでも相手(の心理的抵抗)におもねってしまう。

そうした場合、内観の型が崩れて知らず知らず面接者と内観者はある種の馴れ合いに陥ってしまう。

では、反対にどこまでも頑なに型を守ればよいのかというと、それでは相手の立場に立つことが抜けてしまい、どうしたら目の前の内観者に最大限内観してもらえるのかという視点が抜けてしまう。

つまり、相手の立場に立って内観を援助することと、型を崩して馴れ合いになることが相克するのである。

こうした問題に決まった回答やマニュアルは存在しない。

面接者が、そうした相克を乗り越えてはじめて、内観者への真の援助は可能になる。

 

ゆう:合掌されたりしたら、なんか宗教みたいで嫌だな。

 

Shin:そういう雰囲気に対する抵抗もあるよね。

 

ゆう:でも、自然な感情と、心理的な抵抗って、どう違うの?

 

Shin:自然な感情だと、ちょっと違和感を感じても、それで内観が中断したりはしない。でも、心理的な抵抗だと、内観を中断させることが目的だから、耐えられなくなるんだよ。

 

ゆう:些細なことが増幅してしまうの?

 

Shin:そう、自分の中では、些細なことでも許せなくなる。これが抵抗の特徴なんだよね。

 

ゆう:そういうことって、日常生活でもよくありそうじゃん。

 

Shin:成長に関わる世界では、よくあることだよ。習い事でも、そういうことがよく起こる。自分の抵抗の問題だと認識することができれば、一旦中断しても、またどこかで再開できるんだけどね。僕の場合は、そういうメカニズムを知っているから、基本的には保留状態にして、完全には辞めないようにしてきたけど。でも、いったん離れてしまうと、再開するのは本当に難しい。

 

ゆう:このメカニズムって、ほとんど知られてないよね。

 

Shin:全く知られてないよ。自己成長への抵抗が、別の理由にすり替えられて中断に成功する、という現象だから。知られてしまうと、そのメカニズムが成り立たなくなってしまう。

 

ゆう:知られてしまうと、困るということかぁ。

 

Shin:でも人類は、次の段階に進む時期に来ているから、これからそういう心理的なメカニズムも知られていくようになると思うけどね。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.