カウンセリングと悩み相談の違い

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。カウンセリングというのは、通常、話を聞くことが中心になります。カウンセリング(来談者中心療法)を始めたロジャーズは、クライエントにアドバイス(指示)をしないということを重視しました。つまり、クライエントが自分語りをする中で、自分自身で気づくように促したのです。

 

ゆう:悩み相談とは、ちょっと違う感じだね?

 

Shin:悩み相談は、アドバイスをするからね。カウンセリングは、もっと深い部分に働きかけるんだと思う。

 

ゆう:アドバイスだと、そういうことはできないのかな?

 

Shin:アドバイスは、知識の伝達だよ。でも、カウンセリングは、クライエントが自分で気づく状況を生み出すように話を聞くんだよね。気づきというのは、知識とは違うからね。

 

ゆう:知識じゃないのかぁ。でも、どうやって気づくような状態を作るの?

 

Shin:ひたすら話を聞くということかな。その時に、クライエントの行動に対して評価や判断をしながら聞くと、うまくいかない。その行為は良いとか悪いとか。

 

ゆう:どうして、うまくいかないの?

 

Shin:評価をしたら、クライエントが自己開示できなくなるよ。誰も説教なんかされたくないし。やっぱり、どんな自分でも受け止めてもらえるという安心感がないと、自分をさらけ出すことができない。

 

ゆう:へぇー、カウンセラーってそういう風に話を聞くのかぁ。

 

Shin:カウンセラーが支配的だったり、上から目線だったら、全く治癒が起こらない。あるいは、クライエントの感情に巻き込まれて、一緒になって怒ったり憎んだりしたら、クライエントの治癒どころか、症状を悪化させてしまう。

 

ゆう:受容しながらも、感情に巻き込まれてはいけないんだね?

 

Shin:そこがカウンセラーの技術なんだよ。単に話を聞くだけなら、素人でもできる。相手を無条件に受け入れながらも、強い感情に巻き込まれないだけの冷静さが必要なんだよね。

 

ゆう:寄り添うけど、同化しないみたいな?

 

Shin:そこの絶妙な距離感の調整ができるというのが、カウンセラーの技術だよね。でも、そういうカウンセラーが日本にどれだけいるのかは、わからないけど。もちろん、これはロジャーズ派のカウンセリングの技法であって、他にも、フロイトの精神分析のように思いついた言葉を話し続けるといった方法や、認知行動療法のように行動を変えていく手法や、EMDR(眼球を動かして変性意識状態を生成する)などの手法もあるけどね。

 

ゆう:眼球を動かす?

 

Shin:EMDRも、僕は20年くらい前に研究したんだよね。ただ、元々のPTSD理論が誤解されていて、本来は加害者側のトラウマ(ベトナム帰還兵たちのトラウマ)だったのに、なぜか被害者のトラウマがPTSDということで精神医学界に広まっていて、司法ですら精神医学界に丸投げの状態になっている。この辺の理論も、もう少し精査しないと、おかしな方向に行ってしまうと思う。

 

ゆう:いろんな問題があるんだね。

 

Shin:心理療法も、間違った理論もあると思うし、少しずつ進化していくものだから、柔軟に捉える必要があるよね。近年では、PTSDではなくて、PTG(心的外傷後成長)の概念が少しずつ広まってきたし。自己啓発の分野でも、レジリエンス(回復力)という概念が重視されてきた。

 

ゆう:理論って、進化するんだね。

 

Shin:PTSDとPTGの関係もそうだけど、理論というのは、新しい発見によって更新されるものなんだよね。だから、新しい理論を勉強することが大切だよね。

 

ゆう:でも、内観療法は、元々は古い方法だったんだよね?

 

Shin:内観療法の源流は、浄土真宗の一派に伝わる修行法だった。でも、内観療法には学会があって、研究者たちが絶えず研究をしているんだよね。僕は、学会の論文集をたくさん持っているけど、ものすごく研究されているよ。そうやって、研究し続けていくことが大切だと思う。

 

ゆう:でも、内観療法って、カウンセリングとは全然違うよね。

 

Shin:厳密な型があるからね。この辺は、いかにも日本的だよね。でも、最初は、カウンセリング的なプロセスが必要な場合もあるんだよね。

 

(3)面接者へのこだわり(抵抗)−「自己紹介」と内観者・面接者関係の顕在化
i)面接者に向けた自分紹介
 

自己修養として行う集中内観の場合、そもそもカウンセリングや精神分析のように面接者(治療者)が内観者(患者)の生活歴・病歴を一対一で何時間もかけて聞く設定にはなっていない。

面接者が一対一の関係で内観者の生活歴を聞かない設定は、一面では相手の内面への無用な侵入を避ける意味があり、安全だともいえるが、逆にいえば、内観者は面接者が自分のことをわかっているのだろうかと「心もとなさ」を感じる点でもある。

内観では集団で導入時の説明がなされ、そこでは内観についての質疑応答はされるが、内観者の個別の身の上話や苦労話、さらには病歴を一対一で訴える機会は設定されていない。

そうした「心もとなさ」から、面接者に自分のことをわかってほしいと思い、説明したくなるのは自然ななりゆきである。
 

内観の初期段階に、内観三項目というかたちを借りて内観者が自己紹介するプロセスはしばしば観察される。

こうした自己紹介のプロセスは、一対一の関係を徹底的に排除した「内観」という構造に内観者が適応するために必要な段階ともいえる。

なぜなら、内観に来る人は一定の悩みや課題を抱えているのがふつうであり、そうした個別的な悩みに関連する身の上話を「取り扱わない」設定は、カウンセリングや精神分析と比べて特異だからである。

結論をいえば、そうした悩みを面接者が個別に知らないと内観面接ができないわけでもないし、また内観者が悩みを解消するのに身の上話が必要なわけでもない。

要は、内観三項目に沿って内観が深まりさえすれば物事は整理がつくのであって、身の上話自体は必要ではない。

相手に自分を説明するのではなく、己自身をみつめる(内観する)作業が大切だと真に理解でき、しかもそれを2~3日で実行に移せる人は例外中の例外である。


こうした自己紹介は、内観者が内観三項目(内省テーマ)より、面接者や面接者との関係のほうに注意が向いていることを表している。

内観における自己紹介のプロセスを、柳田(1995、181-182頁)は次のように説明している。


“まず最初は、自己紹介をしないと気が済まない。

カウンセラーへいっても医者にいっても、まずは聞いてもらって初めて始まるわけです。

内観はそういうことを聞くところではないといっても、自分が病人だと思っている人は、自分の病気に関することをずーつと述べるわけです。

トランクいっぱい書いたものを持ってきた人もいました。

これは極端な例ですが、そのように自分のことを語らないと出発できないのです。

多い少ないは別にして、どんな人でも、最初は内観という方法(してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたこと)を通じて、自分を語ります。

自分をわかってもらいたい、これは当然です。

「そんなことは言う必要が無い。そんなつまんないこと言わないで内観してください」と言っても、これ進まないです。

特にお歳を召した方などは、最初の日から3日間くらいはほとんど内観できません。

言いたい事が詰まってしまっているのですね。

例えば、60才以上の人は、大抵戦争の苦労が身に染み込んでいますから、男の人は戦地で苦労された話、女の人は内地での生活の苦しさや恐怖、これを全部語り切らないと内観が始まらない方もあります。

その他、今までどのように苦労して生きてきたか、または成功談や築いてきた信念等、それに3日ぐらいかかる。

これは少しもおかしいことではなく、当然のことです。

ですから最初来た時、慌てて「内観が深くなりません」と言いますが、なるわけが無い。

やはり自分の殻を取らなくては駄目なのですから。

そういうふうに、まず自己主張、身の上話をします。

自分史の紹介、自慢話、自己の正しさを主張する、思い出を語る、果ては自己憐欄に陥る、という感じです”。

 

ゆう:ちょっとカウンセリングに似ているね。

 

Shin:自己洞察の前には、ネガティブな感情を表出するプロセスも必要だと思う。

 

ゆう:でも、自分をさらけ出したら、転移が起こりやすいんじゃないの?

 

Shin:それはあるんだけど、内観療法の場合は、厳密な型の中で心理療法が進んでいくから、比較的、転移は起こりにくいんだよね。それでも、面接者に対して、ネガティブな印象を持ったり(陰性転移)、ポジティブな印象を持ったり(陽性転移)することで、内観療法自体が阻害されるリスクはある。

面接者に対する抵抗

ii)内観者・面接者「関係」の顕在化−面接者への陰性のこだわり(抵抗)と陽性のこだわり(抵抗)

 

一対一の内観者・面接者「関係」の顕在化は内観の深まりを阻害する要因(抵抗)としてはたらくが、その種の関係には、陰性の場合と陽性の場合がある。

陰性感情を伴うこだわり(抵抗)では、面接者をいたずらに「冷たい」「怖い」と感じる。

内観では「迷惑をかけたこと」「嘘と盗み」といったテーマが倫理的道徳を連想させ、内省の仕方も「検事(自分)が被告(自分)を調べるように、誤魔化しなく徹底的に調べる」よう要請される。

これゆえ、内観者は自分をみつめることの恐れや抵抗、拒否を、内観法や面接者への「怖さ」「冷たさ」として投影する。

前述した、内観そのものを拒否したり、怖いと感じる(抵抗)現象は、面接者への陰性感情とオーバーラップしてくる。

 

こうした面接者への陰性感情に対して、内観では次のような対処法が用意されている。

第一は、面接者自身の内観的態度(相手の立場に立つ)である。

面接者は内観者の「しもべ」であり、内観者の話を「絶対受容の精神」で聞き、「指導」はしない。

こうした面接者の基本姿勢に加えて、導入時の集団説明で面接者の生の姿を紹介して、ていねいな説明をすれば、無用な恐怖心は起こさなくてすむが、それでもなお、上記のような陰性のこだわり(抵抗)を面接者や内観に感じる場合、一対一の対話を内観とは別枠で取り入れる工夫が有効である。

これが第二の対処方法としてのカウンセリングである。

内観の中頃に内観専用棟とは別の部屋で1~2時間、内観者と一対一で話す機会を設ける。

こうした一対一のカウンセリングは内観者に安心感を与え、内観を進みやすくする。

面接者はそこで内観者になにか「指導」するわけではなく、相手の質問や疑問、不安に耳を傾けること、つまり面接者はカウンセリングにおいても内観的態度(相手の立場に立つ)を貫くことが、重要なのである。

 

内観者は面接者にいろいろ話をし、質問を向けてくる。

内観者の質問は当人の焦りや迷い、苦しみ、悩みの表現であることが多く、質問に直接回答することに意味はない。

質問はえてして、本人の考えであることも多く、応対の基本は「工夫しなくてよいですよ」「よくあることです」「それでいいですから内観をしましょう」と相手の努力や苦痛を受容し、緊張をほぐして「ガスを抜く」だけでよい。

面接者が喩え話などをすることはあるにせよ、内観者の話を否定したり「指導」することは、内観の進展によい結果を生まなし。

 

陽性感情を伴った面接者へのこだわり(抵抗)は、微妙だが内観体験の深まりを強く阻害する。

内観者は情報遮断、刺激遮断の退行的なセッティングのなかで、今まで誰にも話したことのない心の内面や秘密にしていたことを面接者に告白し、しかも一週間、口をきくのは面接者だけに限られる。

こうした状況下で面接者に陽性感情を伴う特異な感情が向けられるのは、ごく自然ななりゆきである。

内観では一対一の直接的な内観者・面接者関係が排除される仕組みになってはいるが、内観者(患者)が抱くイメージや感情に、精神分析の陽性転移に類する特殊な感情が存在しないとは到底考えられない。

問題は面接者に向けられたその種の感情を、内観ではいかに扱うかである。

その際、大切なのは「通し間」や屏風で面接を行う仕組みであり、面接者が内観者に対し、介入・評価しない姿勢である。

「通し間」という不特定多数の人のいる「場」で内観面接が行われる意義はじつに大きい。

それは面接者、内観者双方に影響を与える。

面接者にすれば、常に他の内観者の目(注意)に晒されて面接を行うのだから、面接者自身の心の「甘さ」や「隙間」は厳しく抑制される。

また、そうした「通し間」の設定は、逆に面接者を「守ってくれる」側面もある。

たとえば、内観者が異性の場合、一対一の場所ではなく「通し間」で面接が行われることで、いかに深い秘密の話(たとえば性的な内容の話)がなされたとしても、現実に妙なことは起きていないと証明する証人(他の内観者)がまわりにいるようなものである。

 

内観者にしても、周囲の目(他の内観者の存在)があるので、面接者に特定の陽性感情を抱いていたにせよ、それを依存的な言動として表出することに強いブレーキがかかる。

「通し間」の構造は「面接者にだけ話したい」という内観者の陽性転移を許さない設定である。

面接の仕方も様式化されており、生の内観者・面接者関係が入り込む余地はほとんどない。

また、面接者の態度も内観者の報告を絶対的に傾聴し受容するが、特定の内観者の内観を「ほめたり」「特別扱い」することはない。

面接者はあくまで内観者の「しもべ」として場の背景に退いて機能する。

「通し間」の設定と他の内観者の目(注意)があるおかげで、内観者の抱く面接者への陽性のこだわり(抵抗としての陽性転移)は外には表出されない。

ブレーキは外側からかかるだけではない。

面接は一対一の関係が排除され、均質に様式化されており、しかも面接者は内観の出来映えを評価せず、特定の内観者を特別扱いしない。

こうした状況下で内観者がいくら相手(面接者)によく思われようと内観を「演じて」みても、肩透かしを食うだけであり、「演じ甲斐がない」のである。

一方、内観の「場」には共感的な雰囲気が強烈に満ちており、内観者は面接者に向けてではなく、内観の「場」で懺悔、告白するよう常に「水路づけ」られている。

こうした方法は、治療に有用な「場」の支えを醸成し、一対一の関係に現れる病理としての陽性転移を「不問」にする見事なやり方である。
 

面接者への陰性のこだわり(抵抗)と陽性のこだわり(抵抗)との関連で内観者・面接者「関係」を見ると、そこには二つの方向の違うベクトルが用意されていることがわかる。

一つは内観者が「一人ぼっち」と感じ、不安や疑念が高まった場合、一対一の面接者との関係を挿入する工夫である。

それは内観の型から外れた関係性だが、「一人ぼっち」から由来する内観者の不安を和らげ、安心感を与えて、内観者が再び内観に取り組めるようにする。
もう一つは、これとはちょうど正反対なもので、面接者と内観者の直接的な「関係」から距離を取り、両者が馴れ合いに陥らない工夫であり、これによって内観者は己自身に向けて深い内観を行うことが可能になる。
「甘え」や「馴れ合い」を排除するしかけが「通し間」の設定であり、面接者の礼節に満ちた面接態度である。

内観では二つの逆のベクトルが治療的対人関係に用意されており、それが内観の進展に応じてうまく機能するよう仕組まれている。

 

ゆう:通し間じゃない施設もあるんでしょ?

 

Shin:最近はプライバシーの問題があるから、個室が多いはず。

 

ゆう:その場合、転移が起こりやすいんじゃないの?

 

Shin:他の内観者がいないから、起こりやすいよね。でも、その距離感は、面接者が調整しないといけないよね。

 

ゆう:距離感を取りすぎると、冷たいとか、怖いとか言われてしまうね。

 

Shin:精神分析やカウンセリングの場合は、治療者に対する人格攻撃になることが多いんだよね。それは距離感が近いからだと思う。内観療法の場合は、そこまでの濃密な関係性にならないから、冷たいといった印象になるのかもしれない。

 

ゆう:逆に、理想的な内観を演じることもあるみたいだね。

 

Shin:陽性転移としては、そういうことが起こりやすいのかも。その辺、通し間だったら他の人の目があるから、転移は起こりにくい。でも、逆に、自分をさらけ出すことに抑制がかかりやすいので、デメリットもあると思う。

 

ゆう:結局、どうすればいいのかな?

 

Shin:それは面接者が、距離感の制御を細かくしていくしかないんだと思うよ。内観療法の創始者の吉本伊信は、内観面接の度に、何か質問はないですか? もっとこうした方がいいということはないですか? と聞いていた。そういう風に内観者の不満や要望を何度も聞くことで、陰性転移になることを防いでいたのかもしれない。

 

ゆう:いろんな工夫が必要なんだね。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.