自己開示への心理的抵抗

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。今回は、通し間(相部屋)で内観療法を行う場合の作用機序についての分析です。

 

iii) 懺悔・告白に至る直前の身体・空間的反応−中期~終盤に見られる反応

 

内観の進展とともに内観者が内観空間に慣れて、そこを受容的な場と感じるにつれ、内観の場は内観者の意識の背景に退いて目立たなくなる。

内観者にとって内観の場は自明な支えとしてはたらき、初期のように異質なもの(対象)ではなくなり、いわば内観者の身体の一部となる。

われわれの身体も同じことだが、大切なものほどあたりまえのもの、自明なものとなり、意識にのぼりにくくなる。
 

洞察的な解放や懺悔に至る直前には、初期とは違ったかたちの「場」へのこだわりが観察される。

それは「通し間」での面接という内観独特のセッティングヘの抵抗(こだわり)である。

内観初期に見られる空間への抵抗(こだわり)がいわば物理的な屏風の狭さや非日常的な場面設定への不慣れさに由来するのに対して、「通し間」へのこだわりは、単なる物理的空間への抵抗ではない。

そこには内観的な人間関係(同室の内観者の存在や内観面接者との「関係」)や報告内容の秘密性が密接にかかわっている。

 

初期の頃の内観者の報告は、通常、内観の課題に沿ってはいても、他者に聞かれてもさしたる問題のない(つまり抵抗の少ない型どおりの)内容であることが多い。

ところが内観が進んで内省が深まると、相手にかけた迷惑や「嘘と盗み」など、きわめて個人的な秘密事や他人に聞かれてはまずい内容が想起されてくる。

そうした場合、内観者にすれば、それを面接者にだけ報告するならまだしも、同室の他の内観者にも聞かれるのでは、とのこだわりが生まれ、それが「通し間」という外枠的構造への抵抗となって表れる。

しかし、内観では話したくないことは話さなくてもよい決まりになっており、また同室の内観者は互いに最後まで匿名のままである。

さらに、内観者の報告内容が面接者以外の人に屏風を越えて細かい部分まで聞き取られるおそれは現実的にはない。

 

「通し間」への抵抗は、秘密のことがらを「面接者にだけ」語りたいという依存心の表れであったり、依存的な抵抗と密接に絡んでいる。

つまり内観特有の「通し間」での面接は、内観者自身の内面的な抵抗や治療者・患者間係(内観者・面接者「関係」)の抵抗を映し出す鏡となる。

見方をかえれば、「通し間」という設定は、内観者が懺悔し告白する相手は面接者個人ではないことを象徴的に表しており、この点については、内観者・面接者「関係」の項目でさらにくわしく取り上げたい。

 

心の秘密の開示に抵抗するのは心理的防衛の核心であり、人間として当然の抵抗(こだわり)である。

この種の抵抗は、内観者が真剣に内観に取り組んだ結果の産物であり、真剣な取り組みがなければこうした抵抗が起きることもない。

内観者の心理的抵抗は、ときに身体的な現象としても現れる。

頭痛や肩こり、胸部苦悶、食欲不振(食べ物が喉を通らない)、不眠など、種々の自律神経症状がこの時期には観察される。
また「自分の中から真っ黒な汚いヘドロが出てきて、自分がヘドロにまみれている」「自分の姿がとぐろを巻いた蛇になっていた」などと醜く穢れた自己イメージが出現することもある。
これらの身体症状や穢れた自己イメージは、心理的な「こだわり」や「滞り」が凝縮されて表現されたとものといえる。

 

内観では一週間すべての時間、まさに身体まるごと使って集中的に内省作業を行うので、他の精神療法では仮に存在していてもあまり目立たない抵抗や洞察に伴う身体的変化が明瞭に観察される。

人によってはこの時期を、「お先真っ暗」「見通しが立たない絶望的な状況」と表現することがある。

いずれにせよ、この時期は「見通しのきかない」閉塞状況が身体・空間的に凝縮して表現されるわけである。

 

ゆう:相部屋で内観療法をするの?

 

Shin:昔はそうだったんだけど、最近は、個室でしている施設も多いよ。

 

ゆう:プライバシーの問題があるんじゃない?

 

Shin:最近は、そういう意識が強くなってきたから、個室になっていくと思う。

 

ゆう:僕は他の人に聞かれるのは絶対に嫌だな。

 

Shin:実際は、他の人にまでは聞こえないと思うけどね。ただ、著者は、この部分にも治療上のメリットがあるのではないかと考察している。

 

ゆう:メリットなんかあるのかな。

 

Shin:通し間で告白するというのは、自分の嫌な部分を周囲に開示するという意味があるからね。

 

ゆう:自分をさらけ出すみたいな?

 

Shin:ずっと目を背けてきた部分だから、それを開示すると、ある種のカタルシスがあるんだと思うよ。

 

ゆう:カタルシス?

 

Shin:浄化作用だよね。でも、だからこそ心理的な抵抗も強くなる。他の人が聞いているのが苦痛だから内観ができないといった抵抗になってしまう。

 

ゆう:いろんな理由づけをしてしまうのかぁ。

 

Shin:心理的な抵抗が身体症状として現れることも多いよ。風邪をひいたり、頭痛や腹痛がしたり。

 

ゆう:内観療法ができなくなるね。

 

Shin:身体症状を作り出すことによって、内観が進展することを避けるんだよね。

 

ゆう:それって、自分で症状を作り出すの?

 

Shin:そうなるよね。心理的な抵抗として、症状を作り出すことになる。

 

ゆう:そんなことができるの?

 

Shin:通常はできないんだけど、心理的な抵抗が強くなると、普段使うことができない潜在的な能力を使って、病気を作り出してしまうのかも。

 

ゆう:信じられないなぁ。

心理的抵抗を乗り越えると生じる「開け」

iv)懺悔・告白後の身体・空間的反応−内観の終盤に見られる反応

 

心理的抵抗(こだわり)を乗り越えた内観者は、身体・空間的反応を伴う懺悔と洞察の局面に入る。

この時期の身体・空間体験の様相は、iii)の場合とまさに正反対である。

iii)が閉塞的な「こだわり」の極みであるのに対して、この時期の反応様式はこだわりのなさ、滞りがとけた「開け(ひらけ)」が特徴である。

竹元(1999b)が内観の治療機序を「開放的罪責感」と呼んだのは、まさにこの種の「開け」を指している。

また村瀬(1977;1996f)は、内観の洞察を腹の底からわかる実感として、ジェンドリンの体験過程と比較し、そこで見られる心身未分化な体験の様相を記述している。

 

村瀬も指摘するように、内観の創始者の吉本伊信は、どのような質の発言が内観の深まりを反映しているのかとの問いに対して「『奥の院』から出る言葉が大事」だと述べているのは、この時期の心身未分化な心底から発せられる言葉を指してのことであろう。

村瀬(1977)は、内観における気づきや洞察の特徴を、内観者の記録(録音・体験記)から検討して、いくつかに要約している。

その第一は、「本当に」とか「つくづく」「腹の底から」「しみじみ」「身にしみて」といった出現が目立つこと。

第二は、「今、やっと」とか「今にしてわかる」とかいうように「現在まさに経験していることの新しさ」を強調することが多い。

また「驚き」や「意外性」を率直に表現する内観者も少なくない。

第三は、「思わず(叫びたくなる)」「思わず(泣き伏してしまう)」などのように、考える瞬間もなく、いわば身体が先に反応していたような場合もあり、もっと直接的に「ゾーッと背すじが寒くなった」「居ても立ってもいられなくなった」「胸をえぐる自責の念」「冷汗というやつを思わず出してしまった」「本当に骨の髄まで腐り果てた冷酷な私でした」などと身体的感覚体験を報告する内観者もいる。

第四に内観者が意識して思い出したというより、「自分の姿が目の前にはっきりと浮かび上がる」「妹の大きな目がありありと浮かんできました」などと自然に新鮮なイメージが湧きあがる様子がうかがえることを挙げている。

村瀬の考察は、内観の洞察やイメージ想起が心身未分化な領域から湧きあがる身体感覚を伴ったものであることを示唆している。

村瀬(1996f)は、こうした身体感覚を伴った内観的な「体得」「実感」がジェンドリンのfelt sense(フェルトセンス:感じられた意味)と類似した普遍性があることを指摘し、ある学生の内観体験を引用している。

 

“「ああ……実は……恨んでいたんだ。……オレは母を恨んでいたんだ……」。

そしてこれに引き続き、腹の底から何かか、こみあげてきて呼吸が深くなり、涙がとめどなくあふれ、からだは止めようもなく打ちふるえ、嗚咽し、むせび泣くという状態になりました。

また、左胸に鋭い痛みが起こり、いっとき呼吸困難に陥ったのですが、数分後にそれまで身体の中で引っ掛かっていた何かが音を立ててはずれ−より具体的な実感に即して詳しく言えば、左の肋骨から、なまこのようなものがコリッといった感じではずれ−気が付いてみたら胸の痛みが嘘のように消えていただけでなく、そのあとはまるで胸の前にくっついていた板が取れて、身体(胸)の中身がそのまま、世界(他者)に直に対しているような気持ちになっていたのです。(中略)

そしてこの「板」が取れた瞬間、心のとどこおりがなくなり、身体全体が素直に、本当にすなおな感じになりました”。
 

「こだわり」や「とどこおり」がとれて「開け」を経験した内観者は、身体が軽くなったり、心身の気力・活力が回復して食欲も自然に出てくる。

それと同時にしばしば「素直になった」「清々しさを感じる」といった身が清められる清浄感を味わう。

たとえば“全身が染みるような深い歓びに浸され、心が本当に静かで透明で、まるで水底の小さな小石までがはっきり見える、さざ波一つない澄み切った湖面のようでそれが宇宙の果てまで、いえ、もっと果てしなく広がっていくのを感じました”

“気持ちが静かに落ち着いて、腰から下は大地にしっかり根付いている自分の実感を味わいつつ、同時に身体全体は清められたような清々しい感じになり、外からの風が身体の中を静かに吹き抜けて、風景が直にみずみずしく透明に感じた”などの体験がそれである。

 

この種の清浄感を、村瀬(1975;1996k;1996l) は内観における素直さや清々しさとして重視したことはよく知られている。

内観体験における心身の清浄感は「開け」の感覚とも密接にかかわっているが、重要なのはこの「開け」が単に内観者の内的体験だけでなく、面接場面における「開け」と密接に関連していることである。

前述のように、こだわりが凝縮した状況においては、内観者は身体的な「とどこおり」を感じるだけでなく、「通し間」という場面設定にも大きな心理的抵抗を感じる。

しかし、そうした抵抗を乗り越えて、「通し間」の中で深い告白・懺悔が行われたときの心的開放感や洞察の深まりは、じつに大きい。

内観面接において、内省報告が面接者個人にではなく、「通し間」という「場」全体に向けて行われることに大きな意義がある。

面接者へのこだわりがとれることは、自らが抱えている問題へのこだわりがとれることと同じであり、それは面接者にだけ話をしたいという依存文脈からの脱却をも意味している。

柳田(1995)が、内観では面接者に対して告白するのではなく、大自然に向かって告白するのだと述べているのはこれである。

「依存対象」への告白ではなく、越えたるものへの告白によって内観者の体験は人格の深層にまで及び、規範意識の自発的な獲得・内在化がはじめて可能になる。

こうした自発的な規範意識の獲得(超自我の変容)に伴って内観者は「自分がある」という新たな自己意識を実感するようになる。

そうした様子を、前掲の内観体験事例1では“今、ここにオレがいるんだ。まさに、ここに「今」いるんだ、という自己の存在(感)を、まざまざと実感”したというかたちで報告している。


内観では内観三項目(とくに「迷惑」)へのこだわり、面接者へのこだわり、同室の他の内観者へのこだわり、空間・身体へのこだわり、父母へのこだわり(自己の人生へのこだわり)などさまざまなレベルの「こだわり」「とどこおり」が、「通し間」での面接という一点に集約・凝縮されて極まり、ついには抵抗を乗り越えてダイナミックな心的転回が起きる。

これが集中内観の核心である。

そこでは内観三項目という内枠的構造と「通し間」という外枠的構造が有機的に結びついて機能する。

 

ゆう:ものすごい解放感があるみたいだね。

 

Shin:ひたすら自分の愚かさを見つめると、そういう解放感が訪れるらしい。

 

ゆう:どうしてかな?

 

Shin:それが不思議なんだよね。エゴが浄化されるみたいな説明なら可能なんだけど、心理学的な説明をするのは難しい。

 

ゆう:でも、研究はされてるんでしょ?

 

Shin:内観療法の学会で何十年も研究されてるけど、科学的に解明するのは、なかなか難しいよね。内観療法に、人間の本質的な力を引き出すような作用があることは確かだと思うけど。

 

ゆう:目を背けていた部分を見て、それを人にも言うことで癒されるのかな?

 

Shin:それも大きな効果があると思うけど、似たようなことは、キリスト教で罪の告白というのを伝統的にしているよね。内観療法の場合は、もっと深いレベルでそれをするのかもしれない。自分の悪い部分を徹底的に見つめ続けることで、そこを完全に受容するというか。

 

ゆう:自分を愛するということかな。

 

Shin:そういう言い方をすれば、そうなんだけど、かなり深いレベルでそれをするということだよね。

 

ゆう:無条件の愛みたいな?

 

Shin:深いレベルで自分を無条件に愛するということかな。その前段階として、自分の悪い部分をきちんと見つめるという作業が必要になるのかもしれない。自分で自分をごまかしている限り、自分を無条件に愛することができないから。

 

ゆう:なんか、愛とか告白とかって、キリスト教に似ているよね。

 

Shin:浄土系の日本仏教は、なぜかキリスト教との類似点が多いんだけどね。これも研究すると面白そうなテーマだよね。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.