心理的抵抗が自己催眠をかける?

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。心理療法の場で生じる心理的な抵抗について、内観療法での事例を見ていきます。ここで重要なのは、心理的な抵抗が、本人の自覚とは別の形として表出するという点です。たとえば、内観療法そのものへの心理的な抵抗が、内観研修所の施設が狭いとか汚いとか、そのような全く別の理由にすり替えられてしまうのです。本人にとって、それが心理的抵抗であると自覚することができない、という点に特徴があります。自覚ができないからこそ、抵抗によって中断しやすくなります。

 

内観における抵抗や防衛の様相を論じる前に、長々と内観的態度の相互性を論じたのは、抵抗にしても防衛にしても、それが精神分析という異なった枠組みから由来した概念であり、安易に抵抗・防衛を論じると、知らず知らずのうちに内観の本質を阻害するおそれがあるからである。

臨床的な「内観的態度」からすれば、本来、抵抗や防衛という概念自体がなじみにくいのだが、精神療法の説明上それを使っている点を強調しておきたい。

本項では、まず集中内観で内観者がどのような対象にこだわるかについて論じ、それを受けて、内観の抵抗の様相や個別的な体験過程を描写してみたい。

 

(1)内観することへの抵抗と恐怖(内観そのものへの抵抗)
時期的には、集中内観に来る前の段階や内観に来た初期の段階で観察されることが多い。

内観そのものへの抵抗として、内観者自身が意識的にわかっているものと、内観者も気づかず無意識なものとがある。
 

意識的抵抗でよくあるのは、ふてくされて終日屏風の中で寝ているとか、面接で何もしゃべらない、「帰る」と言い出すなどである。

ふてくされて寝ていたり、面接時にしゃべらないなどのパターンは、非行少年が学校や親に言われて、しぶしぶ内観に連れてこられた場合などによくある。

ふてくされて寝ているにせよ、しゃべらないにせよ、法座(屏風)の中にいられる場合、内観研修所に来て法座に座っているだけで尊いことで、他の内観者に特段の迷惑がかからないかぎり、面接者は他の内観者と同じように礼節に満ちた態度で面接を行い、特別な応対をする必要はない。

そうした「ふてくされた」内観者も、じつは面接者が他の内観者と面接している様子や「場」の雰囲気をそれとなく感じ取り、面接者が信頼できる人かどうか、自分を受け入れてくれる人かどうか、無意識に瀬踏みしていることが多い。
 

帰宅要求は初日の夕方に見られることが多い。

帰宅理由は、「内観をしたくない」というダイレクトなものから「急に家での用事を思い出した」「あんな狭いところは耐えられない」「トイレが汚い」などさまざまなパターンがある。

そうした帰宅要求に対して、面接者は内観が続けられない理由をカウンセリングルームで個別に詳しく聞いて、たとえば「狭くて耐えられない」というのであれば、日中何時間か屏風から出て敷地内を散歩するなどして、内観をもう少し続けてみるよう提案する。

また、初日(日曜日)の夕方は現実的に交通の便が悪いので、「今から帰っても交通機関がなくなるから、もう一泊してみたら」と勧めてみる。
それでも帰りたいという内観者には、日割り計算した研修費を除いた金額を返却してお帰りいただく。

その際大切なのは、内観の中断を当人の挫折体験にしない配慮であり、そのために、内観者に家に電話をかけさせ、面接者から家族に、内観者は途中で帰るがそれなりに今回は頑張ったという点を説明する。

機が熟さず中途で帰る例は非行少年ばかりでなく成人にもあり、集中内観の中断を挫折体験にせず、次の内観につなげる配慮が大切である。


内観の途中で帰るのは初日と3日目が多い。

初日は、最初からどうしても無理だといって帰る場合であり、3日目に帰る人は、2日目丸一日の体験があまりに長く感じられ、それを3日目に繰り返すことに耐えられなくなるからである。

また、事例としては少ないが、内観が終わる直前の6日目に帰りたいとの要求が出ることもある。

一日早く帰るという内観者の理由づけはさまざまだが、この場合は、初日や3日目の帰宅要求とは意味がまったく違うので、基本的には引き止めることはしない。

というのは、この時期に至って帰りたいという場合、内観者自身が内観がうまくいかなかったと無意識に感じており、それを、一日短かったのだから、内観がうまくいかなくてもしかたがないと自分への「言い訳(防衛)」にすりかえる意味合いがある。

そうした「言い訳(防衛)」は、内観者にとって心の支えとして機能するので、それをむりやり最終日まで内観させると、その種の言い訳を内観者から奪うことになり、精神的な混乱を来すことになりかねない。

 

無意識に内観を拒否している例として、内観面接の際に、面接者と内観者の間にタオルを置いたり、人によってはそこにカバンをおいてバリケードのようにしている場合がある。

また面接時に正面から面接者と相対することを避け、斜めや横を向いて面接を受ける内観者もいる。

内観への潜在的な抵抗として、内観三項目が最初からまったく思い出せないという事例もある。

それらはいずれも他の内観者に特段迷惑がかかる行為ではないので、面接者は、それを直接内観者に指摘することはせず、変わらずていねいに受容的態度を保持して面接を続ける。

 

内観に入る前、あるいは内観のはじめに面接者を必要以上に「冷たい」「怖い」と感じる内観者もいる。

繰り返し言及したように、内観三項目には「迷惑」をかけたという倫理的な課題が含まれ、しかも内省の仕方(調べ方)は「検事が被告を調べるように、誤魔化しなく、徹底的に」と要請される。

これだけ聞けば、内観や面接者を怖いと想像するのは自然なことである。

この種の無用な恐怖心を和らげるために、内観では集団の導入説明を行い、そこで面接者の生の人柄を披露し、また内観面接の実際を見せることで、「これだけのことです」「怖いことをするわけでありません」と理解してもらう。
 

いったん内観に入ると、なれあいを防ぐ意味から、面接者の態度や面接様式は厳しい雰囲気を伴ったものとなり、余計な会話もしない。

こうした内観の「場」の設定に、不安を感じやすい人は導入時の説明だけでは安心感が保てない。

そこで、不安を和らげ、安心感を与え、内観を進みやすくするために、一対一のカウンセリングを途中で導入する。

川原(1996)が内観導入までの抵抗として挙げた、①倫理的道徳(とくに恩思想)の押しつけではないか、②内観には宗教色が強い、③内観は難行苦行である、などの抵抗や誤解はこの類のものであり、集団での導入説明をていねいに行えば、かなりの部分は解消される。

 

そもそも内観研修所の場合、企業研修などで義務的に参加する人を除けば、本人自身が内観を希望して来所するのが基本である。

それに対し、医療現場で集中内観を適応する場合、どのように内観に導入するか(外来での治燎者患者関係など)が大切で、困難を伴うこともしばしばある。

しかし、内観者がいかに内観を希望して来所したとはいえ、内観への本質的な「抵抗」が軽いわけでは決してなく、それは程度の差にすぎないといえる。

 

ゆう:トイレが汚いとか、関係ないよね。

 

Shin:本来は関係ないんだけど、そうやって理由を作るんだよね。もちろん本人は、本当にトイレが汚いから耐えられないと思っているんだよ。これが抵抗の重要なメカニズムなんだよね。つまり、抵抗であると自覚することから意識を逸らすという働きがある。

 

ゆう:意識を逸らす?

 

Shin:そう、本当は成長や変化への抵抗なんだけど、それを自覚すると、これは抵抗だから乗り越えようといった意識になりかねない。意識としては、そうなったら困るから、全く別の不満を作る。その不満は何でもいいんだよ。トイレが汚いとか、屏風の中が窮屈だとか、面接者の態度が悪いとか。

 

ゆう:でも、それは施設のせいにしているということだよね。

 

Shin:それが抵抗の特徴だから、理由は何でもいい。

 

ゆう:しんさんが内観療法を受けた時は、どうだったの?

 

Shin:僕の抵抗としては、思い出せないとか、帰りたいとか、そういう気持ちは当然あったけど、面接者に対して抵抗のようなものが生じたよ。その当時は、僕は心理的な抵抗についての知識がなかったから、僕の面接者に対する不満には正当性があると思っていたけど、今思えば、心理的な抵抗だったのかもしれない。

 

ゆう:それって、面接者の側からしたら、心理的な抵抗なのに、自分への不満にされて理不尽じゃないの?

 

Shin:でも、面接者の側は、わかっていると思うんだよね。それに、施設をよりよくしていくためには、絶えず改善をしていく必要があるから、不満の表出は、それなりに価値があることだよ。吉本伊信も面接の時に、いつも内観者に、もっとこうしたらいいとか、こうしてほしいといった点はありますか、と聞いていたからね。

 

ゆう:でも、もし心理的な抵抗なら、本人にそうだと教えてあげたほうがいいんじゃないの?

 

Shin:それは意味がないんだよね。もしそんなことを直接言っても、否定されるはずだよ。実際に本人は不満を感じているんだから。不満を感じていることは事実だからね。でもその不満の大元には、心理的な抵抗が生じているということだよ。

 

ゆう:じゃあ、トイレが汚いといって怒って帰っても、引きとめないの?

 

Shin:基本的には、引き止めないと思うよ。なぜなら、心理的な抵抗が生じている場合、その抵抗を乗り越えるのは自分自身だから、周囲から強制することはできない。内観療法のように構造的な場でさえも中断したくなるというのは余程の強い抵抗が生じているから、引き止めるのはある意味で危険だし。

 

ゆう:それで帰ってしまったら、その人はトイレが汚いということで内観療法をやめたということを、どう考えるの?

 

Shin:それは何年も時間が経ってから、もしかしたら別の理由だったのかもしれないと本人が気づくかもしれない。あるいは一生、トイレが汚いからけしからん、と思ったままかもしれない。

 

ゆう:もし、この抵抗のメカニズムが本当なら、こういうことを教える施設とか人って、そういう風に否定されることが多いんじゃないの?

 

Shin:本当の意味での変化や成長を促すようなトレーニングをしていたら、そうかもしれないよね。でも、そういう本当の意味での成長って、世界で活躍しているアスリートとか芸術家とかの世界じゃないと、なかなかないからね。それにそういう人たちは、心理的な抵抗が生じても、そこから逃げたりしないし。

 

ゆう:じゃあ、あまり成長や進歩をしないようなトレーニングの方が、不満が少ないの?

 

Shin:心理的な抵抗のメカニズムからいえば、そうなるよね。

 

ゆう:本当かなぁ。

 

Shin:人間の心理って、不思議だよね。

 

ゆう:でも、その不満が正しいこともあるんでしょ?

 

Shin:それはあると思うよ。不満は不満として正しいとしても、その不満が原因で中断するというのは、原因としてはおかしな話なんだよね。だって、トイレが汚いということと、内観療法をやめるということは、直接的な因果関係はないでしょ。

 

ゆう:それが許せないって人もいるんじゃないの?

 

Shin:不満に思っても、中断するところまではいかないよ。つまり、原因としての根拠が薄いんだよね。でも本人は、それが原因で内観療法をやめたと思い込んでいる。つまり、これは自己催眠の一種なんだよ。

 

ゆう:なんでそんな回りくどいことをするんだろう。

 

Shin:だって、それが心理的な抵抗だと気づいたら、中断しなくなるから。意識の側は、何が何でも中断させようとしているんだから、自覚すらさせないようにする。

 

ゆう:なんでそこまで中断させようとするの?

 

Shin:変化したくないからだよ。そこには強烈な恐怖があるんじゃないかな。もちろんそれは潜在的な恐怖だけど。

 

ゆう:じゃあ、どうすればいいのかな。

 

Shin:メカニズムを知ることだよね。心理的な抵抗があって、変化や成長を恐れるのが人間だと。そして、そういう恐怖が生じたときに、変化を避けるためにいろんな理由を作り上げる。それは、はたから見れば不合理なんだけど、本人にとってはものすごく合理性があるように感じてしまう。この全体のメカニズムを知っておくと、自分が心理的な抵抗に直面したときに、少しだけ考える余地が生まれる。

 

ゆう:それに気づいたら、変化の方向に進めるの?

 

Shin:それはわからない。僕のようにそのメカニズムを知ってしまうと、今度は身体症状が出る場合がある。たとえば、風邪をひくとか、神経痛になるとかで、トレーニングができなくなる。

 

ゆう:そんなことが起こるのかぁ。

 

Shin:そう、人間というのは、そこまで成長をしないように自分を導くんだよね。だから、これは上に伸びようとする力と、下に引っ張ろうとする力の拮抗作用なんだよ。

屏風の空間への抵抗

(2)空間設定への反応と身体的反応(内観の外枠的構造への反応と身体的反応)
集中内観では集中性を高めるために、内観者は1週間、1日15時間、半畳の屏風の中に一人座って内省を続ける。

こうした内観の空間設定は、内観者の内省作業を助けるために「刺激遮断」「情報遮断」の状況を作り出すのが目的で、なにも内観者に難行苦行を強いているわけではない。

とはいえ、半畳の半閉鎖的空間に1週間ものあいだ一人で座り続ける状況は、日常生活ではありえないことで、多くの内観者は当初、そうした特殊な場面設定になじむのにそれなりの苦痛やこだわりを経験する。


三木(1976)も記述するように、内観の空間設定への反応は、初期の反応・抵抗として取り上げられることが多い。

しかし、内観の過程をよく観察すると、内観者の空間への反応は、なにも初期の抵抗に限定されるものではなく、内観の深まりを反映して種々に変化していることがわかる。

さらに、空間への反応は身体的反応とも密接にかかわって変化することが多いので、ここでは関連させて論じる。
 

空間・身体的反応は内観者の体験過程を正直に反映したものであり、そこには内観三項目への取り組みや内観面接者との「関係」が不可分にかかわっている。

つまり、内観空間への反応や身体的現象は、内観というものを内観者がどの程度「身をもって」あるいは「身に沁みて」体験しているかの表れであるといえる。

本書では便宜上、内観空間への反応や身体的反応を初期、中期、終盤に見られやすい出来事に分けて考えてみたい。

 

i)閉所空間への「こだわり」と身体的反応−初期に見られやすい反応

屏風の中(法座)に座った内観者は、最初の1~2 時間、まず物理的な半閉鎖的空間と行動制限の環境に慣れる必要がある。

洗面・トイレと入浴以外は半畳ほどの空間に座っていなければならず、他者との会話やその他、外部との交流はいっさい遮断されている。

こうした状況では半遮蔽的空間にこだわり(抵抗)を感じる人もいる。

いわゆる閉所恐怖の人などは屏風をきちんと閉めず、屏風の脇に隙間を作って圧迫感を減じようとしたり、しばしばトイレに立って落ち着かない様子を見せる。

そうした人にとって、屏風の上部が解放空間であることや屏風が木と紙でできた移動可能な家具であることは不安を必要以上に高めない効果がある。

閉所空間に終日座っていることから、内観者はしばしば足腰の痛みや「こわばり」を訴える。

しかし、それも内観者が屏風の中であれこれ姿勢を替えたり、座布団を工夫して使っているうちに、時間とともにその種の足腰の痛みは気にならなくなる。
 

三木(1976)も指摘するように、閉所空間や身体的苦痛を大げさに訴える人は、それ自体が内観への抵抗や自己探求への抵抗の表れであることが多い。

特段問題がなければ、面接者はそのまま内観者の様子を見るが、訴えが強い場合、それを放置すると中断にもつながりかねないので、内観者に敷地内を少し散歩するように勧めたりする。
 

閉所や身体的苦痛よりも、情報遮断の状況から孤独感・寂しさを感じる人もいる。

そうした反応や訴えが強い場合、別室で面接者が一対一で話を聞くことで孤独感や不安はかなり取り除かれる。

このほか、内観空間への抵抗はさまざまなかたちで表出される。

たとえば「他の内観者の物音がうるさい」「同室の人を替えてくれ」または「別の部屋に自分は移動できないか」「風呂が汚い、入る時間が短い」「便所が汚い」「参考テープが気になる」などである。

また身体的苦痛も、足腰の痛みのほかに、頭痛、肩こり、耳鳴り、胃痛、便秘・下痢とさまざまな自律神経症状の訴えが見られる。

ただし上記のような不安や訴えがあったにせよ、内観者の残した膳の様子から食欲が落ちていなければ非常事態ではないと考えてよい。

逆に訴えが目立たなくとも、初期の段階から急激に食欲か落ちたりした場合、内観者の内面で危機的事態が進行している可能性があり、指導者は内観者の動向に細心の注意を払わねばならない。

 

ゆう:小さな空間だと、圧迫感を感じやすいよね。

 

Shin:僕は、全く感じなかったんだけどね。屏風って自由に動かせるし、上の空間は空いているし。

 

ゆう:そういう抵抗が生じたときは、散歩をしてもらったりするみたいだね。

 

Shin:我慢を強いたら、中断するリスクがあるからね。もちろん、抵抗の大きさによって変わるんだけど。抵抗がそれほど大きくなければ、最後まで内観療法を続けることができる。

 

ゆう:その場合って、あれは心理的な抵抗だったと気づくのかな?

 

Shin:メカニズムがわかってないと気づくかないと思うよ。でも、それまで不満だったことが、気にならなくなる。その時には、なぜあんなことに囚われていたんだろうと自分でも不思議に思うようになるんだよね。

 

ゆう:でも、不満が正しいのか、自分の心理的な抵抗なのかが、わからないよね。その場合、自分ではどうやって見分ければいいの?

 

Shin:自分ではなかなかわからないと思う。できるとしたら、このメカニズムを知ることくらいかな。でも、知っていても抵抗を乗り越えるのは、並大抵のことではないんだけどね。僕みたいに、歌が歌えなくなって10年経つとか、そういうレベルの強烈な抵抗もあるからね。

 

ゆう:それって、スランプというよりも、やめてしまったという感じだよね。

 

Shin:こういう抵抗も強烈だけど、もっと激しいものもある。病気や事故で引退してしまうとか。

 

ゆう:でも事故なんて、自分だけで起こせないでしょ。

 

Shin:そこまで踏み込むと、かなりオカルティックな領域に入るんだけど、現象としては起こるんだよ。でも、それが人生なんだけどね。

眠気としての心理的抵抗

ⅱ)内観の場になじむ(胎内空間としての屏風)−初期~中期以降に見られる現象

 

刺激遮断、情報遮断が徹底された内観の環境下では、日常生活のように急がされる用事や気を紛らわす刺激がないので、時間の流れはきわめてゆったりしたものとなる。

その結果、内観者は退屈を感じ、眠気を催したりする。

前項の内観空間への反応や身体的反応が、慣れない場に対する緊張や不安・不満に由来するのに対して、内観の場に少し慣れた後に起きる弛緩や眠気・退屈感は、安堵感や安心感の混じった反応様式である。

とくに主婦の場合、食事の支度をする必要がなく、上げ膳据え膳であることからそうした気楽さを感じる人が少なくない。

精神療法家として集中内観を経験した高橋美保(2002)の報告は、その典型といえる。
 

“内観中は、最初は少々の緊張感があったものの、半畳の狭くて白い空間にとても安心感を覚えて、膝を抱えるようにしてうつぶせていた。

強い眠気を感じたが、それを子宮に包まれたような幸せなまどろみと感した。

そして、それに抵抗しようという気は少しも起こらず、頭の片隅で与えられた課題を反芻しながら、眠るとも眠らぬともつかない安心感の中に漂う状態を自分に許していた。

その時、屏風の存在や必要以外そこから出られないこと、といった外枠は、強制や締め付けではなく、あるがままに漂う自分を絶対的に外界から守ってくれる心強い守りのように感じられた。〈中略〉

雑念から解き放たれてただ三つのことを緩やかに考えているだけで、お食事も運んでいただいて食器を洗うこともなく、「至福の時とはこういう事をいうのかもしれない」と思っていた。

「三食昼寝付きだな」という不謹慎な言葉を思い付いて初めて我に返り、何度も足を運んで下さっている面接者や、家族、職場のことを思って恐縮するような有り様であった。

ふと我に返るその瞬間まで、誰もそんな私を監視することも咎めることもなく、すべては私自身に委ねられているのだと感じて、内観の枠組みが厳しいようで実は中に入るととても緩やかであることを実感した”

 

ある40代の男性は、母親に対する葛藤体験を内観で乗り越えた直後から、まるで卵のように、自分の体が屏風全体に包まれているような感覚となり、深い安らぎと安心感を覚え、半畳の屏風内空間を胎内空間と実感したと述べている。


プライバシーが守られた空間を、最初から安心の場と受けとるかあるいは葛藤体験のすえにそれを実感するかでは体験の深さや意味合いが違うとはいえ、いずれにせよ、双方とも屏風内の空間を身を委ねられる安心の場と感じている。

そうした場に支えられて、内観者はさらに内観を深めていくことが可能になる。

こうした空間体験の際には、内観者は身体的な温かさや安楽さを感じていることが多い。

 

ゆう:眠気が起こるの?

 

Shin:眠たくなるんだよね。本当は、これも心理的な抵抗なんだけど、ここでは、緊張感が薄れたから生じていると解釈されているよね。

 

ゆう:眠気が抵抗だなんて、普通は思わないよね。

 

Shin:とにかく心理的な抵抗は、課題から意識を逸らそうとするんだよね。

 

ゆう:それって、試験勉強をする時に、急に別のことがやりたくなるみたいな?

 

Shin:そう、それもまさしく心理的抵抗だよ。急に掃除がしたくなったり。

 

ゆう:普段は掃除なんかしたくないんだけど、勉強しないといけないときは、掃除をしたくなるんだよね。

 

Shin:勉強への抵抗が強いから、掃除も簡単にできてしまうよね。

 

ゆう:そんなメカニズムがあるのかぁ。

 

Shin:より大きな抵抗が生じると、それより小さい抵抗は乗り越えられたりする。

 

ゆう:不思議なメカニズムだね。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.