幼少期の親への憎しみが投影される

Shin:『内観法 実践の仕組みと理論』のレビューの続きです。内観療法における抵抗の問題をより深く論じる内容に入っていきます。

 

精神療法は多かれ少なかれ「人と人とのかかわり」を利用した治療法なので、治療者・患者関係は一方が治療する役割、片方が治療される役割といったかたちで単純に固定的に捉えることができない。

精神療法における治療者・患者関係はどの学派にとっても重要なテーマであり、内観法とて例外ではない。

精神療法における治療者・患者関係というと、どうしても精神療法家は転移・逆転移を連想する。

精神分析では「転移は最大の治療抵抗である」とされており、精神分析で転移が重視されるのも最大の治療抵抗としてそれがはたらくからである。

 

しかし、転移・逆転移という治療概念や切りロは、そもそも一対一の治療者・患者関係をダイレクトに治療のテーマに取り上げ、それを治療の道具として使う精神分析特有のものの見方や考え方である。

これまで説明してきた内観の実践的な仕組みからもわかるように、内観ではそもそも一対一の関係で物事を理解しようとする発想がなく、内観者・面接者「関係」では、そうした直接的な「関係性」は厳しく排除される。

それゆえ、目に見える現象に限っていえば、石田(1972)、川原(1996)が指摘するように、内観では精神分析で起きる転移・逆移転の問題は生じない。

 

では、集中内観の内観者・面接者「関係」は、単にあっさりしたものなのかというとそうではない。

村瀬(1996)は内観者・面接者の「関係」には転移・逆転移では捉えきれない何かがあるとしながらも、その「相互関係性」の実態がなんなのかを論じることはなかった。

多くの内観臨床家は、内観における内観者・面接者「関係」に深い相互関係性があると直感しながらも、その相互関係性がいったいどのようなものなのかがうまく説明できないのである。

 

ここでは面接者と内観者が「内観的態度」という課題・姿勢を媒介に、相互に深いかかわりを持つことを指摘してみたい。

内観者・面接者「関係」で観察される相互性は転移・逆転移とはまったく異質な現象だが、その相互関係の本質をよく見ると、転移・逆転移と似通った問題を共有していることがわかる。

 

精神分析では、患者の無意識的葛藤が一対一の治療者・患者関係に転移というかたちで再現・凝縮され、治療者はそれを適切なタイミングで扱い、解釈することで、患者の気づきを促進させる。

精神分析の臨床では、一対一の治療者・患者関係に現れる転移を治療者がどのように把握し、どのようなタイミングで扱うかにすべてがかかっている。

つまり治療者が転移を適切に扱えるか否かが精神分析のカギとなる。

フロイトやユングが精神分析にとって「転移はαでありωである」と述べたのはこれゆえであり、患者の転移を治療者が実践的に扱えるか否かは、治療者自身の逆転移の問題ともかかわってる。

 

精神分析的な治療者・患者関係で転移を扱おうとすると、逆転移は不可避に現れるもので、それは治療者自身の無意識的葛藤に由来する。

精神分析では患者側の転移と治療者側の逆転移は相互に呼応して現れる。

フロイトもいうように、治療者側の逆転移がなくなることはなく、問題は治療者が逆移転を治療的に生かせるかどうかである。

 

伝統的な精神分析(自我心理学)を例に挙げれば、患者のエディプス・コンプレックスや去勢不安を「転移」の文脈で扱う際、治療者自身が自分のエディプス・コンプレックスや去勢不安をどれほど克服しているかが大切である。

治療者がその種の無意識葛藤を克服していればいるほど、患者側の転移は見えやすくなり、不必要な逆転移も起こさなくてすむ。

仮に逆転移を起こしたにしても、それを治療的に活用しながら精神分析が進められる。

 

こうしたことを実現するために、精神分析では教育分析が治療者に求められる。

精神分析で転移を扱う作業は、治療者も患者もエディプス・コンプレックスならエディプス・コンプレックスという事態(体験)に、「己の問題」として共にかかわることを意味している。

つまり、精神分析では治療者がー方的に患者を治すとか、解釈を与えるのではなく、同じ問題(たとえばエディプス・コンプレックス)に双方が深く「対峙」「対面」するのである。

 

転移・逆転移と実によく似た状況が、内観三項目をめぐって面接者、内観者双方の「間」に展開する。

内観では、内観者はみずからの自分史を、身近な人(母、父、兄弟等)との関係を通して、内観三項目に沿って時系列的に調べていく。

そこで内観者に要請されるのは、「具体的な事実に沿って」「相手の立場に立って」自分を見る(調べる)姿勢である。

言い方を換えれば、内観とは自分の都合で相手を見るのではなく、相手の都合から自分をみつめ直す作業である(自分のことを棚に上げて相手を見るのではなく、逆に相手のことを棚に上げて自分をみつめ直す作業ともいえる)。

 

しかし、こうした内観的要請が容易に実現できないことは、内観を経験した人ならばすぐに理解できるだろう。

内観では「相手の立場に立って」自分をみつめ直そうとしながらも、一方で、それに強く抵抗する自分が同時に存在する。

つまり、内観者はなかなか「相手の立場に立って」自分をみつめる内省が行えず、どうしても「自分の都合」で、ものを見てしまいがちになる。

内観者の抵抗・防衛との関連で問題となるのは、「相手の立場に立って」ものをみるという要請(内観的態度)が、じつは面接者にも要請される点である。

抵抗・防衛の説明で指摘したように、内観者(患者)サイドから見れば、抵抗・防衛を単に否定的な破棄すべき病理として見るのは臨床的に正しい態度とはいえない。

面接者が仮に「これが本来の正しい内観、深い内観である」との予測にそって、目の前の内観者を判断し、その「浅い」内観や「防衛的」態度を指導しようとすると、じつに奇妙なことになる。

つまり、面接者は内観者に対して「相手の立場(たとえば母親の立場)に立って」おのれを見るよう要請しながら、面接者としての自分自身は内観が進まない内観者に対して、「内観指導」という名目で「相手をなんとか意のままに動かそうとする」事態が起きてくる。

これは内観流にいえば、内観指導という名目を借りながら、その実、自分(面接者)の都合に合わせて相手(内観者)を見る姿勢、すなわち「外観」にほかならない。

こうした現象は、ちょうど精神分析において治療者が患者の転移をなんとか操作しようと焦るなかで、治療者自身の無意識的葛藤が触発され、逆転移を引き起こす現象とよく似ている。

 

内観では、精神分析のようにエディプス・コンプレックスが問題になることもないし、一対一の関係に転移・逆転移が再現されることもない。

しかし、「相手の立場に立って」己を見るという内観的要請(内観的態度)が双方で問題となり、本当の意味でどちらが「相手の立場に立てるか」が内観で問われることになる。

(吉本自身の内観面接のテープを聞くと、かなり厳しい指導や積極的な介入がしばしば見受けられる。

しかし、それは宗教的ともいえる吉本の「相手の立場に立った」深い内観的姿勢に裏打ちされてはじめて意味を持つのであって、そうした「指導」を表面的に真似るのはいかにも危険である。

同様に、内観者への間接話法の重要性や面接者が内観者の「しもべ」であると繰り返し強調した柳田鶴声も、時に絶妙な「指導」を行うことがある。

しかし、それは内観者の立場に立ち、迷いに迷ったあげく内観者側の内的要請と呼応するかたちで起きたものであり、それを「指導」マニュアルとして表面的に真似るのは、上記の内観的態度の相互性を著しく損なう危険性がある。

柳田はそうした「指導」を卵から生まれ出る雛鳥と外から卵の殼をたたく親鳥の「啐啄」と表現し、早すぎる殻たたきは雛鳥を殺してしまうと強調する(筆者による柳田へのインタビュー))

 

つまり内観では、単に内観者一人が内観するだけでなく、「内観的態度」をめぐって、内観者と面接者の双方が直に「出会い」「対面」するのである。
内観では、目の前の面接者(治療者)や今現在の出来事が、直接、治療のテーマになることはない。

また、内観者が内省するのは、そこにはいない母(父)との過去の出来事であり、今現在の生の治療者・患者関係(内観者・面接者関係)は、可能なかぎり排除される。

これゆえ、目に見える現象だけを見ると、両者の「関係」は精神分析より弱く、間接的と思われがちだが、それを内観的態度(相手の立場に立つ)という次元から見直すと、まったく違った風景が展開する。

 

両者は間接的どころかきわめて直接、生々しく「対峙」「対面」しており、双方とも己自身に向けて「勝負をかけている」のである。

精神分析で転移・逆転移が治療のすべてであるように、内観においては「相手の立場に立ってものを見ること」がすべてのカギを握っている。
柳田(1988)は内観面接者の心得として、①徹底的に話を聞く姿勢、②常に内観者に学ぶ姿勢、③常に集中内観、日常内観を怠らないこと、を挙げているが、それは単なるかけ声や「スローガン」ではない。

それは、精神分析において教育分析を抜きに転移・逆転移の問題が語れないのと同様、内観では面接者自身の内観が日々の面接で常に問われることを意味している。


内観的態度(相手の立場に立つ)の相互性は、次のような形で、内観そのものの成否と深くかかわってくる。

内観者は内観三項目に沿って、相手にかけた「迷惑」を中心に、「検事(自分)が被告(自分)を追及する如く徹底的に調べあげる」よう要請される。

こうした厳しい倫理的・超自我的な要請は、あくまで「内省の仕方(調べ方)」についてのものであって、内観の結果、思い出される回想「内容」についてのものでは決してない。

内観者の回想「内容」については、当然ながら面接者は「正邪、善悪を超えて」という絶対の態度で臨むのであり、回想「内容」をいかに感じるか、あるいは判断するかは内観者に委ねられている。

内観の「仕方(調べ方)」/回想「内容」の区分けと「相手の立場に立つ」内観的態度は、相互に密接に影響しあう。


面接者が真に内観的態度を保持していればいるほど、内観者は上記の区分けを行いやすく、内観が進みやすい。

ところが、面接者が内観的態度とは違う姿勢で面接に臨めば、内観者はそれを敏感に察知して、両者(「調べ方」と「内容」)は混同され、内観的作業や面接者に無用な恐怖心を感じ、内観が阻害されてしまう。

つまり、面接者自身の内観的態度(相手の立場に立って)の深浅によって内観者の内観は促進されもするし、逆に阻害されもする。

これは常識的にあたりまえの出来事である。

相手(内観者)に一定の課題(内観三項目、内観的態度)を与えた人(面接者)が、その同じ課題にどのように対処しているかが影響しないはずがない。

 

ゆう:転移って?

 

Shin:転移というのは、クライエントが治療者に対して、幼少期の親子関係を投影して、過剰に好意を抱いたり(陽性転移)、逆に、過剰にこき下ろしたり(陰性転移)すること。

 

ゆう:愛憎みたいな?

 

Shin:そう、崇拝とこき下ろしという一定のパターンがある。

 

ゆう:そういうことはよく起こるの?

 

Shin:心理療法の場では、よく起こるよ。特に精神分析療法は、そのメカニズムを利用するからね。クライエントの幼少期の頃の葛藤が、治療者とクライエントとの間に再現されるんだよね。そこで、治療者が適切な介入をすることで、癒しが起こる。

 

ゆう:親子関係を再現するのかぁ。

 

Shin:幼少期の頃の親子関係が、クライエントと治療者の間に再現されることで、擬似的な親子関係を生み出して治療をするんだよね。

 

ゆう:でも、親に対して憎しみがあると、それが治療者に向けられるんじゃないの?

 

Shin:そうだね。クライエントが治療者をこき下ろして憎悪の感情をぶつけたりすると、治療者も不快な感情に囚われて、治療が中断してしまうことがある。そういう風に治療者の側が、クライエントに対して強い感情を抱くことを逆転移というんだよ。

 

ゆう:なんか生々しいね。

 

Shin:内観療法では、精神分析のような濃密な関係性が生じないから、転移は起こらないと言われている。でも、実際は、内観者の内面で、幼少期の葛藤が再浮上してくるから、同じような作業をしているんだよね。

 

ゆう:でも、転移のことを知らなかったら、治療者が憎らしくなっても、本人は意味がわからないよね。

 

Shin:幼少期の親への憎しみが投影されているということに気づかない。この辺の転移の制御というのが、精神分析療法では重要なんだよね。

 

ゆう:心理療法だから、そういうことが起こっても対処できるのかな。

 

Shin:転移は、日常生活でもよく起こるんだけど、誰もそういうメカニズムを知らないから、いろんなトラブルが生じるよね。

 

ゆう:日常でも起こるの?

 

Shin:たとえば、恋愛関係や憧れの上司との関係とか、強い感情が生まれる状況では、転移と逆転移がよく起こるよ。

 

ゆう:恋愛でも起こるのかぁ。

 

Shin:最初は、相手の良いところばかりが見えて好きになるんだけど、何かのきっかけで、その恋愛感情(陽性感情)が反転して陰性感情になって、相手をこき下ろしたり攻撃したりするようになるんだよ。

 

ゆう:まさしく愛憎だね。

 

Shin:実はこれは、幼少期の親への感情が、相手に投影されたものなんだよね。つまり、自分の親との問題を相手に投影しているだけで、相手は関係ないんだよね。精神分析療法では、その疑似的な親子関係を利用して、クライエントを受容することで癒しに導くんだよ。

治療者の逆転移の事例

既述したように、目に見える現象からすれば、内観者・面接者「関係」には精神分析のような一対一の転移・逆転移の「関係」は生じない。

では、内観者・面接者「関係」に見られる内観的態度(相手の立場に立つ)の相互性は、精神分析の転移・逆転移と質的に違うのだろうか。

結論を先取りすれば、両者は精神療法的な対人「関係」の機能、作用、効果の点からすると本質的な違いはないと筆者は考える。

そもそも、転移・逆転移は臨床的にどのような機能や作用を持つのだろうか。

具体例を挙げて検討したほうがわかりやすいであろう。

 

神田橋の教えを受けた光元(1997、157-159頁)は、対話精神療法の入門書で治療者患者関係の実際を平易にわかりやすく解説し、そこでみずからの体験を例に、転移・逆転移の問題を次のように説明している。

 

“わたしが家族療法の訓練を受けていた時期のことである。

家族療法室は、家族と面接する面接室と、面接室の様子を観察する観察室から成っている。

その日、わたしは面接室に入って治療者役をとっていた。

クライアントは母親で、IP(Identified Patient : 患者とみなされた者)は女子高校生であった。

その日は、母親がひとりで来室していた。

面接が始まって間もなく、母親は一通の手紙を持ち出した。

手紙は、娘であるIPが母親に当ててしたためたものであった。

「娘が、お母さんにだけ読んで欲しいと言って、わたしに手渡したものなんです」と説明した上で、母親は、手紙を治療者の前に差し出した。

治療者に読んでもらうことで、治療者が娘の気持ちを理解する一助にしてほしいと言う。

 

母親の申し出を聞いて、わたしはカチンと来てしまった。

「この母親はまた同じことを繰り返している! お母さんにだけ読んでほしいという娘の気持ちを、母親はまたまた踏みにじっている!」というのが、その時のわたしの偽らざる気持ちであった。

わたしは、いらだちを抑えながら母親に言った。

「お母さん、この手紙はお嬢さんに断って、今日ここへお持ちになったんですか?」

もちろん母親が娘の承諾を得て、手紙を持参したはずはなく、わたしのこの言葉に、ハッとした表情を示した。

「ああ、またやってしまいました! これがわたしの悪いところなんですね!」

わたしは内心「そのとおりですよ!」とは思ったが、さすかに口にはしなかった。

 

面接が終了したあと、この時のやりとりに関して、わたしはスーパーヴァイザー(米国人女性)から、こう問われた。

「光元さん、あなたはいったい、誰に腹を立ててるんですか?」

わたしはこの言葉に面食らった。

わたしが腹を立てていたのは、問われるまでもなく、クライアントである母親に対してであった。

ところが、スーパーヴァイザーの言葉は、わたしに、思いもかけない気づきを喚起した。

わたしはその瞬間、わたしが腹を立てている相手は、面接室にいる母親ではなく、ほかならぬわたし自身の母親であることを、腹の底から理解した。

 

目から鱗が落ちるとは、まさにこのことであった。

わたしの目には、いつも鱗が貼り付いていた。

鱗はいつも決まったパターンでわたしの目を曇らせていた。

わたしの目の前に、「母親と子ども」という一組のクライアントが登場すると、わたしはいつも決まって、「母親は加害者、子どもは被害者」という図式で理解していた。

じつにそれはワンパターンであった。

スーパーヴァイザーから指摘を受けた時、わたしの中で何かが変化した。

と同時に、わたしの目の前に、子どものために善かれと信じて一心に、しかしおろおろと試行錯誤を繰り返している母親の姿が見えてきた。

 

わたしはクライアントに対して、申し訳なさを感じるとともに、自分の言動の浅はかさに恥じ入った。

この目から鱗が落ちるという体験は、今一度繰り返すなら、ユング流に言えば、〈投影の引き戻し〉体験であり、分析学派流に言えば、〈逆転移への気づき〉体験である”。

 

上記の光元の事例は通常のカウンセリングにおける逆転移の問題を取りあげたもので、内観とはなんの関係もない。

しかし、治療者(光元)の逆転移が解消されたとき、相手(母親)の立場に立ってものが見られるようになり、おろおろしながら試行錯誤を繰り返す母親の実像が見えるあたりは、「相手の立場に立って見る」内観的態度そのものである。

光元の事例を集中内観になぞらえて設定し直し、カウンセリングと内観の違いやそこでの治療者・患者関係(内観者・面接者「関係」)の相互性を比較すると、話が具体的でわかりやすくなる。

ただし、光元の事例を内観に当てはめるには、最低限の変更を加える必要がある。


第一の変更点は、出来事の時間設定である。

内観では、治療者のところに母親が娘の手紙を持参したとしても、その今現在の行為が内省のテーマになることはない。

なぜなら、内観は過去の出来事を回想する設定になっているからである。

ただし、その過去は遠い過去である必要はなく、一年前のことかもしれないし、先月のことかもしれないし、先週のことでもかまわない。

 

第二の変更点は、内省する出来事に、面接者(治療者)自身は登場しない設定にすることである。

光元の事例では、取り上げられるテーマ(出来事)に治療者自身が直接かかわり、登場する。

そこで登場するのは手紙を書いた「娘」と、それを受け取った「母親」、そして母親がその手紙を見せようとした「治療者」(光元)の三人である。

カウンセリングや精神分析では、対話のテーマに治療者自身が登場することはしばしばある。

しかし、内観では面接者(治療者)が直接登場する出来事が内省のテーマになることはない。

それゆえ、光元の事例を内観風にアレンジするには、手紙を見せた(見せようとした)相手(治療者)は、内観の面接者とは違う人に変更する必要がある。

たとえば、一年前、他所で精神療法を受けていたとき、そこのカウンセラーに娘の手紙を見せたといった設定にするとわかりやすい。

カウンセリングと内観の治療者・患者関係(内観者・面接者「関係」)の比較のために、内観テーマに登場するカウンセラーからは特段何も指摘されなかったと仮定するほうが好都合である。

 

このように必要最小限の変更を施し、光元の事例における母親が娘に対する内観をしたと想定するとどうだろう。

母親(内観者)は上記の手紙のエピソードをおそらく内観三項目の「して返したこと」に分類するだろう。

「昨年、娘は私にだけ読んでほしいといって、手紙をくれました。私はカウンセラーが娘の気持ちを理解できるようにと考え、娘のために内緒でカウンセラ一にその手紙を持っていってあげました」。

母親の行為は、娘の気持ちを無視しており、娘の立場に立てば、それは「して返したこと」ではなく「迷惑をかけたこと」にほかならないことは、容易に理解できる。

内観者(母親)がこうしたパターンを繰り返し、なかなか相手(娘)の立場に立って内観ができないとき、面接者がイライラして待ちきれず、「それでは内観になっていません」と「正しい」指導をするとどうだろうか。

内観者は表面的に納得してそれを受け入れるかもしれないし、逆に面接者の態度に反発を覚えるかもしれない。

いずれにせよ、そうした直接話法で内観者の真の気づきが醸成されることは稀であり、むしろ、その種の指摘で、内観がピタッと止まりかねない。

なぜなら、治療者(面接者)自身が相手(内観者・母親)の立場に立てず、指導した言葉とは逆のことをしているからである。

その場合、内観者・面接者「関係」には光元の事例で起きた治療者側(面接者側)の投影、逆転移が起きている。

いらついて待ちきれず「内観になっていない」と面接者が指導する行為は、相手(内観者・母親)の立場に立ちきれない面接者自身の非内観的態度の責任転嫁となる。

こうなると、「内観になっていない」のは内観者より面接者のほうであり、そこでは面接者(治療者)の投影や逆転移が起きている。

柳田(1988)が面接者の心得として、面接者自身が内観を怠らないこと、内観者(相手)から常に学ぶ姿勢を忘れないことを強調するのは、内観では、内観者のみならず面接者も「相手から学ぶこと(相手のを場に立つこと)」がポイントになり、それを忘れると内観「指導」の名のもとに、逆に内観を阻害するおそれがあるからである。

 

光元の事例を内観流に見なおすこともできる。

クライアント(母親)に必要なのは、娘(相手)の立場に立ってものを見る姿勢である。

娘が母親にだけといって手渡した手紙を、いくら善意とはいえ、無断でカウンセラー(光元)に見せるのは、クライアント(母親)みずから、カウンセリングの課題を裏切る行為にほかならない。

そうした行動にいらだったカウンセラー(光元)は、たまらず「お母さん、この手紙はお嬢さんに断って、今日ここへお持ちになったんですか?」とダイレクトに指摘する。

指摘の内容はまさにそのとおりだが、カウンセラー(光元)の様子をみていたスーパーヴァイザーは光元に「あなたはいったい、誰に腹を立てているんですか?」と質問する。

そこで、思いがけずカウンセラー(光元)は目の前の母親(クライアント)に腹を立てているというより、カウンセラー自身の母親に腹を立てていたことに気づく。

こうした体験を経てカウンセラー(光元)は「おろおろと試行錯誤を繰り返している母親の姿が見えてきた」のである。

これは逆転移の気づきであり、投影の引き戻しだが、表現を代えて治療者自身の内省(内観)が深まった結果、「相手の立場に立って」ものが見られるようになったともいえる。

 

カウンセリングと内観の違いは、その種の気づきをカウンセリングは、今現在の出来事、しかも治療者自身が関与する現象(転移・逆転移)を通して実現するのに対して、内観では身近な人(母、父、兄弟等)との過去の関係、そこに治療者(面接者)が登場しない出来事を回想することで実現する。
 

光元の事例をもとにカウンセリングと内観における治療者・患者関係(内観者・面接者「関係」)のありようを検討したが、そこにはよく似た治療的対人「関係」の相互性がはたらいていることがわかった。

それはカウンセリングや内観の過程に大きな影響を与え、治療過程はそれによって促進されたり、逆に阻害されたりする。

治療的対人「関係」の相互性がうまく機能しない状況を、精神分析では治療者自身の無意識的葛藤が投影され、逆転移がはたらいていると理解するのに対して、内観では面接者自身の内観が浅いために、相手(内観者)の立場に立てないためと理解する。

 

治療的対人「関係Jがうまく機能せず、治療者の逆転移(カウンセリング、精神分析)が起きたり、面接者の内観的態度が不十分だったりすると、治療上どんな不都合が起きるだろうか。

 

①考え方や価値規範の押しつけが起こり、患者(内観者)の内発的・自発的な気づきが阻害される。

光元の事例でもわかるように、カウンセリングで逆転移が起きると解釈や指摘が押しつけがましくなり、患者はそれを自分のものとして身につけられなくなる。

内観の場合はテーマ(内観三項目)が価値規範を強く連想させるので、面接者の内観的態度(相手の立場に立つ)が不十分だと、内観者は内観の作業をいたずらに「怖い」と感してしまう。

そこでは内省の仕方(調べ方)の厳しさと回想内容への価値判断が混同されてしまう。

 

②本来は治療者(面接者)自身の問題が、あたかも患者(内観者)の問題としてすり替えられるので(投影されるので)、患者(内観者)は治療者(面接者)に陰性の感情を抱いている。

カウンセリングや精神分析では対話のテーマを治療者と患者が一緒に共同して検討する雰囲気が大切だが、逆転移が起きると、そうした共同作業の雰囲気が崩れて一対一の二者関係が浮き立ってしまい、不必要に強い感情対立・衝突が煽られる。

 

内観では内省のテーマ(とくに「迷惑をかけたこと」)や面接様式が倫理的なので、面接者の内観的態度が不十分だと内観者は面接者をいたずらに「冷たい」「怖い」と感してしまう。

その結果、内観者は内観三項目(内観のテーマ)を自分を知るための「道具」として使いこなせなくなる。

カウンセリングでも内観でも、治療的対人「関係」がうまく機能しないと、患者(内観者)と治療者(面接者)の直接的な関係性ばかりが表に出てしまい、患者(内観者)は治療(内観)のテーマを自分自身の問題として捉える力が弱くなる傾向がある。


森田療法でも、同様の現象が指摘されている(内村、1970)。

森田療法がうまく進んでいる場合、治療者は「場」の背景に退き、目的本位の作業や生活行動が前面に出る。

逆に、治療者・患者関係が前面に出てきたとき、森田療法はすでに失敗している。

内観において、面接者は内観者の「しもべ」であると柳田が繰り返すのも、こうした面接者の背景への「退き」が関係している。

 

ゆう:こういうケースって、悩み相談ではよくあるよね。

 

Shin:自分の問題を相手に投影してしまうことはよくあるよ。そういう時は、ネガティブな感情が出てくるから、よくわかるんだよね。

 

ゆう:怒りとか?

 

Shin:相談を受けると、過剰に腹が立って、こうすべき、ああすべきと言ってしまう。それは相談を受ける側が、自分の問題を投影しているんだよね。日本の精神医学の世界は遅れているので、そういうレベルの精神科医やカウンセラーが結構いるよ。

 

ゆう:感情的に巻き込まれてしまうのかぁ。

 

Shin:相談を受ける側は、どんなに感情を掻き立てられる問題でも、いつも冷静な心を維持しておかないといけない。

 

ゆう:内観療法だと、そういうことは起こらないの?

 

Shin:構造上、逆転移が起こりにくくなっているけど、面接者が内観者に苛立ったりしたら、逆転移が起こっているということだよね。

 

ゆう:こういう治療って、本当に難しいね。冷静な自分を持っていないといけないね。

微妙な形で抵抗が現れる事例

これまで「相手の立場に立つ」内観的内省をカギに内観者・面接者「関係」の陰性の相互「関係」を論じてきた。

しかし、内観者・面接者「関係」にはそうした陰性のものだけでなく、陽性の相互「関係」も生じる。

この種の陽性感情を伴うこだわりは、精神分析では陽性転移として知られている。

これは陰性の相互「関係」より気づきにくく、阻害要因としては逆にやっかいである。

陰性の相互「関係」と同様、陽性の場合も内観者・面接者「関係」が浮き立ち、内観者の内発的な気づきは阻害される。


内観者・面接者「関係」の陽性のこだわりは、「相手の期待に添う」ことをめぐって展開する。

柳田(1995)は豊富な臨床経験から、「迷惑」想起で起きやすい勘違いとして「相手の期待に添えなかったので迷惑」というのを挙げている。

「期待に添えない」とは「なかったこと」「できなかったこと」であり、それは病理的な罪悪感にもつながる内省方向で、「迷惑」想起の際に気をつけるべきポイントである(清水ら、1993)。

「期待に添えなかったこと」を排して、自分が行った行為に基づいて「迷惑」を調べる作業は、内観者が内観三項目の回想を遂行するうえでも、また病理的な罪悪感に陥らないためにも重要であり、それは内観者・面接者「関係」の陽性のこだわりにも関係している。

 

集中内観では、一週間のあいだ、内観者が口をきくのは面接者だけであり、したがって感情が振り向けられる外的対象も目の前の面接者に限られるという設定になっている。

加えてその間、内観者は、面接者を含むスタッフ全員から心のこもったお世話を受ける。

内観の場は「してもらったこと」「迷惑をかけたこと」の内観三項目に沿ったかたちで運用され、これが療法の隠し味としてはたらいている(長山、1998;一丸、1999)。

一丸は、内観者と面接者の微妙な「関係」を次の言葉で見事に言い表している。

 

“内観指導者は、こうした厳しい態度とともに、面接の前後に内観者に対して合掌して深々と礼をしたり、食事を運び、風呂の準備を知らせたりする。

指導者のこのような接し方は、いかに悪事を重ねていたとしても内観者を一人の人として認め尊敬していることを伝えるものである。

このような内観指導者の態度は、正しいことを行えば承認し、間違っていれば正すという父性的態度であり、このような態度は、内観者のために食事、風呂、洗濯などの世話をするという母性的な環境とうまく補いあっている。

内観者は、いかに悪い自己であっても人として認められ、さらに「してもらい」、「迷惑をかける」状況におかれることになり、「して返せる」ことは、しっかりと立派な内観をして報告することだけになる”。

 

内観者が面接者に「して返す」のは立派な内観を報告することに絞られるというのは、下手をすると病理的な陽性「関係」と紙一重である。

というのも、それは内観者が面接者の期待(立派な内観)に添おうとする心の動きに関係してくるからである。

内観に限らず、精神分析でもカウンセリングでも、患者(内観者)が相手(面接者、治療者)によく思われたいと気持ちが傾斜するのは避けがたく、精神分析ではそれを陽性転移と呼んでいる。

精神分析の転移と同じではないにせよ、相手の期待を敏感に察知して期待に添おうとする患者心理は、心理療法ではきわめて一般的である。

前述の内観体験事例からも、立派な内観をして面接者に報告しようとこだわる様子が見てとれるし、そうしたこだわりから抜け出たとき、内観は深まっているといえる。

 

内観者が「(母や父の)期待に添えなかった」ことを「迷惑」と勘違いすると、単に内観が深まらないだけでなく、その勘違い(期待に添う)が目の前の面接者にも振り向けられる(投影される)点に注意する必要がある。

「期待に添えなかった」ことは病理的な罪悪感と関係し、回想された事実に比べて感情反応が際立ち、無意識に「演じる」側面が強い。

内観者が「期待に添えなかったこと」をあれこれ想起して、自分を責めて派手に流涙するとき、内観者は面接者に向けて「立派な内観」をして見せている場合がある。

演じているのがわかりやすく、報告が内観三項目からずれている場合は気づきやすいが、一見、しっかりした内観のように見えたり、演じ方が微妙だったりすると、面接者は次のような落とし穴にはまる危険がある。

つまり、面接者が内観者(の内観)に妙な「期待」をかけていると、内観者はそれを敏感に察知して「期待に添った」内観を行い、その結果、面接者の自己愛が満足されるという事態が起きかねない。

内観者が「期待に添えなかった」仮定・想定に基づく内省を行うのは、そうすることで相手(母や父)に実際にかけた「迷惑」に直面しなくてすむからであり、それは同時に、目の前の内観者・面接者「関係」の「期待をかける・期待に添う」関係を隠蔽する作用がある。

こうなると、一見、内観が深まっているように見えながら、まったく違った事態が展開することになる。

面接者にとって「内観者が主人である」「面接者はしもべである」との基本姿勢が、単なるスローガンではなく真に身についているか否かが問われることとなる。

 

「期待に添えなかった」という内観者の回想様式は、面接者の「期待に添いたい」という思いと表裏一体である。

「期待に添えないこと」は「迷惑」ではないと面接者が正しく理解することが、内観者の「迷惑」想起に影響を及ぼすだけでなく、内観者・面接者「関係」の質をも決定的に左右する。

内観者のほうも「期待に添えないこと」が「迷惑」ではないとわかることで、内省が病理的なものから事実に即した内観へと修正され、面接者の期待に添う(面接者のほうに向く)ことから離れ、真に内観三項目と向き合うようになる。

 

精神分析家のエーデルソン(Edelson, 1993)が指摘するように、精神分析でも、治療的対人関係のなかで語られること(telling)と演じられること(enact)の区別は重視され、その区分けによって不必要に強い転移の発生は予防される。

内観的内省で「期待に添えなかった」ことを排して、具体的な事実(自分のした行為)に基づいて「迷惑」を想起する作業は、まさに、強い転移の発生を予防する見事なしかけである。

 

ゆう:期待に添えなかったって、悪いことじゃないの?

 

Shin:それは事実ではないからね。内観療法では、事実を回想していくだけだから、期待に添えなかったというのは、事実の回想とは違うよ。

 

ゆう:よくわからないなぁ。

 

Shin:期待に添えなかったことというのは、相手の期待という幻想に添えなかったということだよね。それは、直接的に相手に迷惑をかけたことではないよね。それよりも、ダイレクトに迷惑をかけたことを思い出すことが大切なんだよね。

 

ゆう:期待に添えなかったというのは、ズレてるってこと?

 

Shin:いかにも自分は反省をしているようでいて、ダイレクトに迷惑をかけたことから目を背けている。つまり、これも心理的な抵抗の一つなんだよ。

 

ゆう:あぁ、反省しているふりをする感じなのかぁ。

 

Shin:こういう微妙な形での心理的な抵抗が生じるから、わかりにくいんだよね。

 

集中内観では、一対一の治療者・患者関係は構造上厳しく排除されるので、表に現れる現象からすれば、川原(1996)が強調するように精神分析のような転移・逆転移はいっさい認められない。

しかし、「相手の立場に立つ」ことが、内観者のみならず面接者にも問われ、「相手の立場に立てない」外観が内観者と面接者の双方に布置されるとき、そこには陰性の相互作用が歴然と存在する。

それは精神分析における陰性の転移・逆転移とかたちは違っていても、治療上の影響の面では驚くほど似ている。

精神分析に陽性の転移・逆転移があるように、内観者・面接者「関係」の相互性にも陽性のそれが存在する。

内観の場合、「期待に添えなかったこと」を「迷惑」と取り違え、面接者の「期待に添うような」内観を「して見せる」ことでそれは表れる。

 

内観者・面接者「関係」における内観的態度の相互性−「相手の立場に立てない(陰性)」「期待に添えなかった/添いたい(陽性)」−と精神分析やカウンセリングの転移・逆転移は、治療関係の相互性が異質な精神療法のなかで、違った対人「関係」の様式として表現されたものと考えられる。

精神分析と内観ではその相互性がどう異なるのか、前述の内観体験事例をもとに見てみよう。

 

事例2は、多くの心理的抵抗を乗り越えて、最終的に次のような気づきを得てから内観が一気に深まっている。

それは、“自己顕示欲が強いため、自分の話すことをより解って欲しいと思い、また自分の感情に溺れ、つい説明や観念的な装飾が多くなってしまう”

“父に対しての内観をしていて、ふと、(私は頭で内観をしている。私は父を材料にして内観しようとしている)”
“私は、今までしてきた方法(三つの課題について、面接のとき、話すことについての内容、順序、言葉遣いまで頭の中で構築し、繰り返し忘れないようにしておく)を、まったくやめた。これは、立派な内観らしい発表をしたいためのものであって、そのために時間いっぱい調べることが出来ず、新しい気付きの深まりを邪魔してしまうことが解ったからである”。

 

つまり、内観では面接者の「期待に添いたい」という陽性のこだわり(分析でいえば陽性転移)が、事例2に見られたごとく、立派な内観を「してみせよう」という形式−こだわり−で表れるのが特徴である。

一方、精神分析の転移・逆転移の場合は、陰性にせよ陽性にせよ、より直接的な一対一の対人感情として表出される。

 

ゆう:演じてしまうのかぁ。

 

Shin:意識的に演じるつもりはなくても、面接者の期待に応えようとしてしまうんだと思う。これもある意味では、心理的な抵抗だよね。

 

ゆう:こんなにいろんな形で抵抗が生じるの?

 

Shin:それはもう、ありとあらゆる手段で成長を阻害させようとするんだよ。だから、人間的に成長するというのは、簡単なことではないんだよ。心理療法のように、かなり厳密に取り組んでも、抵抗によって先に進めなくなることが多いから。

 

ゆう:どうすればいいんだろうね。

 

Shin:心理療法だと、治療者側が、そのことを指摘すればいいんだよね。ただ、転移が起こっている場合、それが陰性転移のきっかけになることがよくあるので、難しいよね。

 

ゆう:変化や成長って、大変なんだね。

 

続く

 

参考文献

長山恵一・清水康弘(2006)『内観法 実践の仕組みと理論』日本評論社.