第17章 会社員としての仕事
シンギング・リンの会社に入社してすぐ、「癒しフェア」というイベントに参加した。
芸能人がトークショーにゲスト出演し、マクロビという食事療法やアロマテラピーといった女性向けの癒し系ブースが出店される大きなイベントだ。
会社でもシンギング・リンのブースを出店し、シンギング・リンを使ったセラピーなどを行なった。
その後も、いくつかのイベントに出店し、私も講師として、シンギング・リンを使ったボイスヒーリングの講座をおこなった。
しかし、私にとって一番大変だった仕事は、シンギング・リンの大きな舞台イベントの制作を引き継いだことだ。
『鈴響の祭典』と名付けられたこのイベントは、私が入社した時に、すでに制作の大部分が進行していた。
東京のホールを一日借りきって、映画上映や著名な方々の講演会を行い、シンギング・リンの演奏会やワークショップも行うというものだった。
とても面白いイベントになりそうだったが、その制作の状況を聞いた私は、これはどう考えても開催不可能だろうと思った。
まず、時間の配分に無理があった。
講演会をひとつ開催するにしても、音響や照明のセッティングをしなければならないし、パワーポイントを使う場合は、それらの準備も必要だ。
いきなり演者が壇上にあがって話を始めればいいというものでもない。
『鈴響の祭典』では、その講演会が二本、舞踏ステージが一本、映画上映が一本、シンギング・リンの演奏会が一本、ワークショップが一本と、一日で同じステージ上で開催するのは不可能な内容になっていた。
なおかつ、既に出演者への依頼が終わっていて、今から内容を削ることは無理だった。
私は、様々な演劇やコンサートの舞台制作を手伝ってきたので、ひとつの舞台を成功させるために、どれだけの事前準備が必要かを熟知していた。
どう考えても、この時間配分では開催不可能だと思われた。
なぜこのようなことになったのかというと、企画の段階で、会社には、舞台制作について詳しい人がいなかったということだった。
音響や照明のセッティングや、舞踏のステージではリノリウムを敷く必要があるということも、誰も知らなかったようだ。
確かに、このような大きな舞台イベントを開催するのは初めてだということなので、知らなかったのはしかたがない。
ただ、今の段階で、この舞台制作を私に任されてしまったら、一体私はどのようにして、この舞台を成功に導けばよいのか。
大変な難題を抱え込んで、私は精神的に追い詰められた。
私は、セッティングの時間も含めて、時間配分を考え直してみたが、やはり一日で出来るような内容ではなかった。
しかし、いまさら演者に辞退してもらうこともできない。
映画の上映や舞踏のステージは、進行内容が決まっているため、短縮することは不可能だった。
時間を短くすることができるとしたら、講演やシンギング・リンの演奏会しかない。
講演は、映画『ガイアシンフォニー 地球交響曲』の龍村仁監督と、寺山心一翁さんの講演が予定されていた。
シンギング・リンの演奏会は、片岡慎介さんが指揮をする予定だった。
私は、講演と演奏会の時間を限界にまで短縮して、さらに、バイオリン体操で有名な神原泰三さんのシンギング・リンを使った体操のワークショップを、舞台が終了して懇親会が始まる間の時間にステージで開催してもらうことにした。
私は、制作とステージの総合責任者を任された。
とにかく無理のある進行だったため、私は失敗が許されない舞台に臨むにあたって、極度の緊張感で制作をせざるを得なかった。
非常に殺気立った雰囲気になって、社員たちからも恐れられるようになった。
企画の練り直しから詳細なスケジュール作り、スタッフの配置のシュミレーション、当日のスタッフマニュアルの制作など、私は様々な準備を行なった。
そして、9月に『鈴響の祭典』の本番を迎えることになった。
舞踏は、ダンサーの専属の演出家の方が、音響や照明をセッティングしてくれた。
シンギング・リンの演奏会は、片岡慎介さんに任せることにした。
私は、舞台の袖で、舞台監督として細かい指示を演者たちに伝え、スタッフたちとの連携を図った。
映画の上映会と講演会と舞踏ステージは、成功に終わった。
ところが、シンギング・リンの演奏会でハプニングが起こった。
演者が音響スタッフに渡したBGMのテープに手違いがあり、曲の順番が入れ替わってしまったのだ。
私はBGMのテープのことは知らなかったが、音楽監督を担当していた片岡慎介さんに、あなたの責任だと舞台袖で言われ、私も片岡さんに声を荒げた。
もちろん、片岡さんも細かい状況を知らなかったのだし、私がステージの責任者である以上、私の責任であることは確かだ。
しかし、このトラブルによって舞台袖の雰囲気が極度に悪くなり、なおかつシンギング・リンの演奏会も時間が伸びて、観客の方から不満が漏れた。
それでも、シンギング・リンの体操のワークショップをなんとか開催して、懇親会に観客の方々を誘導することができた。
私は、非常に殺気立っていたが、音響を手伝ってくださった方や舞踏の演出家の方が、私の仕事を評価してくださった。
とにかく、不可能だと思われた舞台を無事に終えることができて、ほっとしたのを覚えている。
ちなみに、片岡さんとは、その後、著作権料のことを電話で相談した時に、とても優しく、思いやりのある対応をしてくださった。
しかし、残念なことに、片岡さんは、それからしばらくして病気で急逝された。
『鈴響の祭典』が終わってからも、忙しい日々が続いた。
私は、シンギング・リンの様々なワークショップや合宿を企画した。
コンテンツの制作や告知文の作成、チラシやテキストのデザインなど、制作の舞台裏を私が一手に引き受けた。
また、ビジネスモデルを考え、シンギング・リンを使ったセラピーが世の中に広まっていく道筋を作ろうと努力した。
ただ、私が経営に深く関わるようになると、私自身のポリシーと会社の方向性にズレが生じるようになった。
株式会社である以上、営利を追求しなければ経営が成り立たない。
しかし、私は、あまり利益を追求することよりも、社会奉仕を中心としたビジネスモデルを作りたかった。
この点に関して、何度も社長や専務と話し合ったが、なかなか折り合いがつかなかった。
会社経営は、現実的な側面を重視さざるを得ないため、私のように理想を追求することには大きなリスクがある。
そのバランスを上手にとっていくことができれば良かったが、私も若かったため、自分が折れるということができなかった。
結局、私は会社を独立し、個人事業主として会社の仕事を外部委託で請け負うという形態にしてもらうことにした。
社長は、将来的に私が会社の役員になって、シンギング・リンを広める手伝いをしてほしかったと私に言った。
しかし、当時の私は、自分の夢もあったため、そのような方向性は難しかった。
しばらくの間、外部委託で仕事を続けていたが、友人の経営者から、新しいプロジェクトのプロデューサーになってほしいという要請があった。
私は、シンギング・リンの会社の外部委託を終了し、友人の会社の新しいプロジェクトを全面的に手伝うことにした。
しかし、シンギング・リンの会社とは、その後もパーティーなどに参加して、社長と交流もした。
私自身は、シンギング・リンの会社で働くことができたことに感謝しているし、シンギング・リンを広めるという夢を抱き、それをみんなで共有できた日々は、本当に楽しかったと思う。
また、会社経営などのノウハウを実践的に学ぶこともできた。
シンギング・リンの会社に勤めたことは、私にとって、かけがえのない貴重な人生経験になった。
社長も含め、共に働き、学びあった社員の方々には、深く感謝している。