幼い頃から、うちは貧しかった。

父は岡山で、数坪の小さな洋食店をしていた。

母は美容師で、腕を買われ、岡山にコンサートに来ている歌手のヘアカットもしていた。

しかし、私が五歳の時、母は急に病気で亡くなった。

幼くして母親を失った私を不憫に思った父は、広島に住んでいた母の従姉妹と再婚することにした。

広島の山間部に引っ越した私たちは、そこで五年間を過ごした。

小さな借家で、トイレも汲み取り式だった。

私は、毎月のお小遣いも、もらったことはない。

友人がお小遣いをもらっているというのを聞いて、そんな習慣があるのかと驚いた。

両親は共働きで、私は夜遅くまで一人で過ごしていた。

私が小学五年の時、岡山に戻ってきた。

当時は、田んぼばかりが周囲に広がっている地域だった。

六畳の部屋しかない、古ぼけた小さなアパートを借りた。

一面の田んぼとカエルたちの鳴き声。

広島弁の私は、転入した学校で、からかわれた。

地元の公立中学に進学した私は、勉強に熱中した。

塾や習い事に行く余裕もなかったので、私は独学であらゆる勉強をした。

論文の勉強も、自分で本を購入して、繰り返し推敲をした。

私は、近くの公立高校に進学したが、ずっとアパート暮らしだった。

このままの生活が続けば、私は大学に進学する学費も捻出できなかっただろう。

しかし、サンマルクという岡山の小さなレストランの運営企業に就職した父は、それまでの経験と実力を買われ総料理長になった。

その後、サンマルクはベンチャー企業として急成長を遂げた。

私は、東京の私立大学に進学して、一人暮らしができるようになった。

しかし、私たちの生活は、決して楽になったわけではない。

私たちはいつも質素に暮らしてきたし、贅沢などほとんどしなかった。

父はサンマルクを引退した後、退職金で、カウンターだけの小さなレストランを開いた。。

その小さなレストランも、テレビの取材が殺到し、連日行列になった。

ランチを600円という価格で提供していたため、儲けなどほとんどなかった。

父は早朝から仕込みをし、一人で料理を作り続け、夜遅くまで翌日の仕込みをした。

母は、足が不自由にも関わらず、配膳と接客をこなした。

しかし、そんな無理な生活が長く続くわけもなく、過労がたたり、レストランを休業せざるを得なくなった。

その後、父はドレッシング専門店を開いた。

原価率が50%以上という、まったく儲からないドレッシングだった。

きっと大手メーカーが同じ内容のドレッシングを販売したなら、一本二千円くらいの価格になるだろう。

うちのドレッシングの価格は、人件費を完全に無視した価格設定だった。

しかし、職人気質の父は、ドレシングを愛してくれる人のためだけに、一生懸命ドレッシングを作り続けてきた。

ギリギリの生活をしながら、贅沢もせず、私たちは一緒に生きてきた。


私が執筆の仕事を始めてから、私のことをお坊っちゃまだとか、金持ちのボンボンだとか言う人たちがいた。

苦労を知らないボンボン。

甘やかされて育った、世間知らずのお坊っちゃま。

どこからそのような妄想が生まれるのか。

何も知らない人間たちが、ステレオタイプの思い込みだけで、そのようなことを言った。

私たち家族が、貧しい生活の中でどれほど苦労し、どれほど互いを支え合って生きてきたか。

何も知らない人間たちには、まったく想像すらできないだろう。

しかし、それでもいいのだ。

もし神さまがいるなら、私たちがどのように生きてきたのかを、きっと見てくれているはずだ。

贅沢もせず、ひたすらに仕事に身を捧げてきた父と母。

私のことを深く愛し、信頼してくれている父と母。

私が一番大切に思い、一番愛しているのは、そんな父と母だ。

何よりも、どんなものよりも、父と母こそ、私にとって一番大切な存在だ。