ピアノの練習といえば、指の練習、基礎練習、曲の練習あたりが思い浮かびます。

これらは楽譜に基づいて練習するので、楽譜を読むことも大切な練習の一環です。

であれば、楽譜が読めて指が動けば、ピアノは弾けるということになりそうですが、あいにく、そう簡単にコトは運びません。

例えば、楽譜が読めれば、旋律1本を弾くことは決して難しいことではありません。
しかし、例え楽譜が読めても、両手で、しかも複数の音を同時に弾くとなると、途端に弾く手は止まります。

なので、練習するわけですが。

指の練習と言っても、その指を安定して動かすためには、手のひら、手の甲、手首、腕、肘、二の腕、肩、背中、腰、そしてペダルを操る脚と体を支える脚、まさに全身がピアノの演奏には密接に関係します。
鍵盤との接点は指先、ペダルとの接点は足(裏)になりますが、ピアノの演奏には全身を使うので、総合的に「身体」とします。

一方、楽譜を読むことには頭を使うので、概して「脳」としたいところですが、、、、

例えば、この楽譜を読む行為の最初の段階では、「五線のこの場所の音は、、、」などと、頭の中では言葉を発しながら弾こうとします。
鍵盤を弾く指も、この頃は「1の指で♯が付いているから、、、」などと、やはり頭の中で言葉を発しながら動かそうとします。

ところが、練習を重ね、慣れてくると、楽譜の読みも鍵盤を弾く指も考える時間が短くなり、やがて考えるコト無く、反射的に弾くことが出来る様になります。

「才能」は「生まれながら、唯一無二の何かによって与えられた」ものとして捉えらることがありますが、「才能がある」と言われる物事を成した人は、練習、訓練、努力を重ねています。

仮に、練習をしなくてもピアノが弾ける人がいたとしても、それは極々わずかで、誤差の範囲程度の話なので、「才能があると言われる、物事を成した人は、必ず練習、訓練、努力を重ねている」と言い切って良いでしょう。

つまり、「才能」とは練習、訓練、努力を重ねることによって、物事を成し得させる「何か」ではないのでしょうか。

「才能」自体の定義づけ突き詰めることも興味深いのですが、大切なのは、この物事を成し得させる「何か」を育てることが可能かどうかです。

練習の最初の段階では「言葉を使って考え」ながら行うことも、練習を重ねると「反射的に出来る」様になります。

このコトに実感が持てていない方は、練習のやり方がマズいだけで、認識と方法を整理すれば、誰にでも実感出来る様になります。

なぜなら、ヒトの脳はその様に作られているからです。

人間の脳は「言葉を使って考える」部分と、「言葉に関係なく反射する」部分があります。
感情などは良い例で、直感的に、反射的に感じることは改めて説明する必要もないでしょう。

脳は部位として、大脳皮質とその内側の大脳辺縁系や小脳などに分けることができますが、注意すべきは、それぞれが密接に関係し合っていてハッキリと分けることができない点です。

別の角度から考えると脳は、人が使う「言葉」を担っている脳を「ヒトとしての脳」、人の言葉ではないものの、動物が確かに持っている「人の言葉にあたるモノ」や、感情や記憶などを担う「動物としての脳」、とに分けることもできますが、コレらもそれぞれが密接に関係し合っていて、ハッキリと分けることはできません。

一時期流行った「右脳と左脳」という分け方は、確かに構造的に脳は左右に分かれてはいるものの、その根拠が、例えば芸術的な物事には右脳が、論理的な物事には左脳が反応しているという程度のモノで、何よりもヒトをカテゴライズすることに注力されていて、あまり興味をひきません。
ピアノを弾く人は「右脳型」とカテゴライズされた方が気分は良いかもしれませんが、どのくらい意味があるかは疑問です。

「才能」と言われるものは、「○○をこうしよう!」などと、言葉を伴って意図できるものでありません。
人間の脳の「言葉」を伴った意識できる機能と、「言葉」を伴わない意識できない機能、に分けた時、この意識できない「無意識」の部分に「物事を成し得させる何か」は在りそうです。
「無意識」も人の活動の一環である以上、その活動の根源は脳の何処かにあります。

その何処かは気になるところですが、主に言葉を担う大脳皮質を「外側の脳」、言葉を伴わないその内側を「内側の脳」と分け、物事を成し得る何かは言葉を伴わなず、無意識の部分が大きく関与していると考えられるので、「内側の脳」について、その鍛え方を考えます。

もちろん、この「内側の脳」は、当然、誰もが持っているモノです。
この部分が果たす、重要な役割の1つに「記憶」があります。
「記憶」の内容は言葉を伴うコトも多くありますが、「記憶」するという機能自体は言葉を伴いません。

よくよく考えると、物事ができると言うことは、その物事に必要な要素を「記憶」する、体の動きを伴う物事ならば、体が覚えるまで練習し「記憶」していると言うことができます。

もちろん、「記憶」が全てではありませんが、物事を成そうとした時、関連する事柄を繰り返し記憶し、動きが伴うものであれば、その動きを体が覚えるまで練習すれば、大抵のコトはそこそこ出来る様になります。

そして、「記憶」は言葉を伴わない内側の脳の機能の中では扱いやすいモノの1つです。

この様に関連付けを進めていくことで、
「才能」は、物事が成せる状態を言い、
「物事が成せる状態」は、体が覚えるまで練習し「記憶」している状態を言い、
「記憶」は、得手不得手があるものの、万人に備わったヒトとしての機能なので、その訓練、練習は誰にでもできます。

つまり、「才能の芽」は誰にでも備わっていて、「才能の芽」は脳の内側の奥にあり、「才能の芽」は誰にでも育てることができる、と考えることができます。

「才能」は選ばれた人だけのモノではありません。