↑現・横浜の岸根公園は通っていた小学校の学区内で朝鮮戦争勃発からベトナム戦争終結までアメリカ軍の接収地でした。

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今年の6月に弟が横浜の実家を売りに出して事実上無くなり、いろんな意味で今年は断捨離の年なのか、2005年から2011年頭までの間、利用していたYahoo!ブログも2日後の2019年12月15日で消滅となります。

 

せっかくのいい機会なので、かつてYahoo!ブログ記事の中で場所を特定されると厄介だと思って、ごにょごにょっとだけ触れたことのある、「地元に米軍基地があった」という話を、忘備録として書き残しておきたいと思います。

 

上の画像を含めて、当時のヨコハマ米軍基地事情について詳しい特集記事は以下のハマレポに出ています。

https://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=1176&from=

 

終戦直後のヨコハマは港湾地区を含め占領軍に接収された土地だらけでした。私の生まれたのは昭和35年ですから、まだそのような占領地の面影も濃く残りアメリカ人と中国人と朝鮮人がぞろぞろと歩いている異界が私の幼年期風景です。人生で特別に日本人的なアイデンティテイを意識したことが無いのはこんな地域での育ちも多分に影響しています。

 

そして岸根の米軍基地は基地下の池の上に同級生の住む東南アジア的な木造小屋があったので遊びに行った事もあり、よく覚えています。いまだに漆黒の夜空に向かって基地から強力なサーチライトを幾条も照らす光景は特に印象深く覚えています。

 

後にF・コッポラの映画、「地獄の黙示録」ではベトナムのジャングル奥地に、非常に場違いな夜の米軍基地が登場しましたが、まさにアレですね。子供には違和感と恐怖の塊です。

 

そしてベトナム戦争末期になると、病院施設基地である岸根バラックには毎日、沢山の双発ヘリがやってきました。それは怪我人だけでなく死人も同時にベトナムから運ばれて来て岸根は兵士の遺体置き場になっているという噂が立つようになると、戦場で破損した遺体補修の仕事人がいるとか、超高額バイトでそれに誘われたとかいう都市伝説が語られるようになりました。

 

小学校高学年の頃、私が地元を離れて田舎に行くと「お前の家は死体置き場」とからかわれたので田舎の脳足らずなクソガキ共にはいまだに恨みがあります。最近では原発事故から福島の子供が避難した先で「放射能」とからかわれたのと同じですね。田舎のクソガキ共は土着親と村八分の偏見根性DNAを受け継いで大昔からこんな連中ばかりです。

 

現在の東京はあぶれ者の烙印を押された地方人達の怨恨による集合無意識で地方の過疎化を押し進めているんじゃないかとも思っています。日本の地方という場所は想像以上に保守的であり時代の早い変化に全然ついていけない場所になっていますから。

 

さてそんな岸根の基地は私が小学校6年生の時に返還が行われて今は岸根公園となり、頂上には武道館が建っています。そして、この地域が本当に元から異界だったと知ったのは私が高校生になってからの事です。

 

基地の近くでは昔、霊能力者による物体引き寄せ(本当にどこかから物質をひきよせる)や守護霊に怪しい機械を通して言語を喋らせる実験等が行われていたそうなのです。極めつけは私の住居の隣町にあの有名な「冝保愛子さん」の住まいがあったという事でしょうか。類は友を呼ぶというか、実際そのような霊的エリアだったのかもしれません。

 

実は今だからこそ言える奇妙な話ですが、すでに無くなった実家の電話番号がなぜか、「いのちの電話」の電話番号と頭の地方局番の違い以外は全く同じで、母親が亡くなった後、たびたび、死ぬかどうかで迷っている人達からの電話がかかってきた時期があります。当時、だいたい家にいるのは弟だったので応対にとても気を使って嫌がっていましたが、それも霊的な体験クエストだったのかもしれません。

そんなわけで良くも悪くも色々ありましたが様々な過去の思い出に感謝を込めて。南無南無どっとはらい

 

いつもお読みくださりありがとうございます。