パリ・オリンピックの
開会式がヤバかった。
・・・みたいなことが
話題になっていましたね。
それに関する動画を
観ようとしたら、
なぜか、
「カルト教団」について
あれこれ語っている動画が
出てきて。
それでついフラフラと
それを観てしまったのですが
その動画の中で、
ネットフリックスにこんな
ドキュメンタリーがあったことを
知りました。
これは、
バグワン・ラジニーシ
ことOshoと、
そのコミュニティの
ドキュメンタリーです。
当時の実際の映像や、
あらゆる方面の当事者たちの
インタヴューなどを交えながら、
その頃に起こったことを
振り返っていくものでした。
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Oshoに関することでは、
私もいろいろありましたので。
このドキュメンタリーを観たら。
それはもう。
思うことが、
ものすごくたくさんありました。
ただ。
これを観ながら、
今の私が一番しみじみと
思ったことは。
「あぁ、あの時。
あちらの道に
進まなくて、
本当に、よかった」
・・・ということでした。
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このブログでも
ポツポツと掲載している
「イエソドのドラマ」
・・・の中でも。
その頃の私に起こったことは、
すでに書きました。
『イエソドのドラマ 63』
あたりから、
『イエソドのドラマ 90』
あたり、
ここらへんで起こった
出来事です。
今にして思えばあれは。
この人生の中で、
一番大きな分岐点だったような
気がします。
あのドキュメンタリーを
観たら。
自分の日記の
このあたりのことを、
改めて読み返したくなったり
しました。
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私が出会った、
あのサニヤシン(Oshoの弟子)の
彼は。
Oshoが亡くなったあとに
弟子になった人です。
そうやって。
Oshoに傾倒する人は、
今、現在でも世界中に
たくさんいるようですが。
今、弟子として
そこにいる人のほとんどが。
実際のOshoには
会ったことのない人達ばかりです。
そのことは、
ドキュメンタリーの中でも
言われていました。
なので当時、
生きているOshoと共に
いた人たちというのは。
ヒッピー時代の人達で。
今はもう、
おじいちゃん、おばあちゃんの
歳になるような世代の
人達です。
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1995年に、
冥王星が射手座に移動
したのですが。
冥王星が星座を移動するときは、
地震が起こりやすい。
・・・と言われています。
実際、あの年の1月に、
阪神淡路大震災が起こりました。
そして3月にはあの、
オウムのサリン事件がありました。
余談ですが。
今の学生くらいの年の子達の
中では。
オウムのことや麻原彰晃のことを
まったく知らない子達も
増えてきているのだとか。
話を戻すと、
「宗教」ともかかわる
射手座に。
破壊と再生の星である
冥王星が入ったとたんに。
オウムのような事件が起こり。
世間では、
「カルト教団」を。
・・・というよりも、
宗教的思想の元に
人が集まること。
団体になること。
・・・を恐れ、
徹底的に排除する動きが、
大きくなっていきました。
それよりも前の、
蠍座に冥王星が入っていた
時代は。
カルト教団。
・・・というか、
新興宗教団体の動きは
とても活発でした。
その時代、
多くの人達が、
「伝統的」な宗教や常識に
堅苦しさや息苦しさを
感じるようになっていました。
そして。
そこから解き放たれるために
何かを求めた結果。
新たな思想に辿り着き、
そこに人が集って、
「新興宗教団体」が出来る。
・・・みたいな
流れが起こっていました。
そしてそれが暴走して、
薄気味悪い事件なども
よく起こっていましたが。
Oshoが生きていた時代と
いうのは。
そういう時代だったのでした。
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ドキュメンタリーを観て、
今の私が思ったことは。
「私はやっぱり。
Oshoが口で言っていることには
どこまでも共感できるけど。
Oshoが実際にやっていることには、
どこまでも共感できない」
・・・でした。
私は弟子には
なりませんでしたが。
弟子の人たちと少しの間
交流したことがありましたし。
自分も一歩間違えたら
そうなっていたかも
しれませんので。
彼らの気持ちも、
ものすごく解るのです。
部外者の人達から見たら、
頭がおかしいのかと思うような
ことでも。
なぜ彼らが、
ああいう風になるのか。
・・・ということは。
理解できてしまうのです。
・・・と同時に。
ああいった集団が、
自分たちがもともと住んでいた
土地に侵入してきて、
今までの静かな生活を壊され、
それで怒ったり怖がったりする
地元住民の人達の気持ちもまた。
やはりよく解ります。
そして今の私は。
・・・というと。
どちらかというと、
その地元住民の人達の気持ちに
寄り添っている感じでした。
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私から見ると、
Oshoのやっていたことは。
「理想に走りすぎ」
・・・でした。
まったく。
射手座の人っぽい。というか、
なんというか
Oshoがやっていたことは、
人に「幻想」を見せることで。
実際のこの人間の
世界の中で。
この社会の中で、
上手に生きていくための
すべは。
まったく、
教えていないな。
・・・と、
今の私には映ります。
そして私は。
人というものは、
まずはそこで満たされないと。
本当の意味での次には
進めないだろう。と。
そう思っています。
しっかりと
地に足をつけていない人に、
より高いところの常識を
教え込んだところで。
人は、
勘違いして暴走するだけです。
インド系のマスターは。
そのあたりのバランスを
欠いている人が多いような
気がするのです。
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Oshoは、
「セックス・グル」
・・・と呼ばれていました。
彼は、
フリー・セックスを
推奨していました。
多くの男女が
普通に人目に付く場所で
昼間からセックスしていたら。
サニヤシンたちが、
裸で乱痴気騒ぎをしていたら。
一般的な神経でしたら。
それを見て、
ドン引きするでしょう。
けれども。
Oshoの考え方に
染まっている人達には。
その「ドン引き」が。
「まだまだ常識に囚われている」
・・・と映るのです。
そこにある「羞恥心」とか
「ためらう気持ち」は。
ただの幻想だ。
・・・とでも言わんばかりに。
ああいう人たちと
しばらく過ごして感じたのは。
彼らは、
「自分たちはもう、
囚われから解放された人。
目覚めた人である」
・・・という意識に
囚われているということ。
そして、
その他の人たちのことは、
「まだ囚われている人」
・・・と映っていること。
そういう「思い込み」に
囚われている彼らは。
彼らのやることにドン引きしたり、
否定する人たち、
つまり、
彼らにとっての、
「まだ目覚めていない人たち」
・・・の言葉には、
耳を貸そうとしなくなります。
だって。
自分たちのほうが、
より目覚めた人なのだと。
そう、
思い込んでしまっているから。
でも。
本当に悟った人だったら。
本当に解放された人だったら。
そこにそういう、
「分離感」
・・・を生み出すことは
ないはずなのです。
誰の言葉にも
謙虚に耳を傾けるし。
たとえ同意できなくても、
尊重はするはずです。
その意識だったら。
地元住民の人達に
迷惑をかけてまで。
自分の理想を押し通そうと
するような。
そんなエゴは、
本来ないはずです。
Oshoに限らず、
インド系のグルは。
人間の世界。よりも、
もっと高次の世界の常識を
重視する傾向が強くて。
それを無理矢理、
ここに降ろそうとします。
その気持ちもわかりますが。
でも私たちはやっぱり、
「すべてである私」であると
同時に、
人間なのですから。
そのあたりのバランスや塩梅を
ちゃんと見極めないと、
結局ああやって、
地元の人達とのトラブルを
起こすことになり。
自分が思い描いていた
理想郷とは真逆の方向に
進んでいくことになるのでしょう。
側近の女性に去られた時。
Oshoの本当のところが
少し垣間見えましたが。
なんだかんだ言っても。
Oshoもまた、
ひとりの人間でした。
それはひとつの、
「生き方・在り方」
・・・でした。
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もしあの時。
あのサニヤシンの彼の
誘導のまま。
あっちの道に
進んでいたとしたら。
それはそれできっと、
後悔はしなかったでしょうが。
でも私は。
今の自分に
心底満足していますので。
あぁ、
進まなくてよかった。と。
やっぱり、
思うのです