尼崎えびす神社から約1キロ北上
難波熊野神社へ
難波
大阪のなんばかと思ったら…
ここは兵庫県
ややこしい
難波熊野神社 【なにわくまのじんじゃ】
天平年中(729~748)行基僧正が聖武天皇の勅命により摂津の国内に数箇所の熊野神社を再興し其の第一の社とされ、其の本宮は和歌山県紀伊国本宮村鎮座熊野座神社と称せられ古来霊験最も著しとせられ皇室の崇敬参詣、又庶民これを做ひ争ふて参詣し所謂蟻の熊野詣の語を産んだ。
その路々には高貴の人々にては凡そ一ケ月にも及ぶ程行程であった。
その御道には要所要所に多くの熊野神社を祭ったこれが皆臨幸の際の御休所なりしと伝へられる。
この尼崎市難波の熊野神社は旅中の一休所の第一の社であったと伝へられる。
鳥居
元文4年(1739)建立なんやって
阪神・淡路大震災の時…頑張ったんやね
手水舎
水が出る所…
何かの形なんかな?
顔みたいなん付いてるよな…
拝殿
御祭神
伊弉冉尊
別名、伊邪那岐
国産みの神なんよね
伊邪那岐と伊邪那美は高天原に掛かる天の浮橋の縁に立ちまして天沼矛という美しい矛で海をかき回しました
「コォロコォロ」という穏やかな音色を奏でながらかき混ぜていますとその矛先から一滴落ちたところに淤能碁呂(おのごろ)島という島が出来ました
2柱はその島に降臨されてました
淤能碁呂島に降りられた伊邪那岐達は柱を立てて広い宮殿を作ったんです
そこで伊邪那岐と伊邪那美はこのような会話をされます
伊邪那岐「そなたの身体はどのようにできておる?」
伊邪那美「私の体は全て整っております。しかし、一箇所足らない場所があります。」
伊邪那岐「私の体も整っておる。しかし、一箇所余ったところがある。」
伊邪那岐「私の余った所でそなたの足らない箇所を塞ぎ国を作ろうではないか」
そう話された後二柱は柱の前に立ち伊邪那岐は左、伊邪那美は右から周り出会った所で夫婦の契りを交わされます
この時、出会われた時に伊邪那美は思わずこのように話しかけます
伊邪那美「あなにやしえをとこを(なんといい男性なのでしょう)」
伊邪那岐「あなにやしえをとめを(なんといい女性なのだろうか)」
こうして、二柱は夫婦の契りを交わされます
この時日本書紀にはセキレイが頭と尾をふったのを見て夫婦の契りを学んだそうです
こうして、最初に生まれた子は蛭子命
3年たっても立つこともできない奇形の子で二柱の神様は葦の船にのせて蛭子を流してしまわれました
次に生まれた淡島命も婦人病を患ったため流されてしまいました
伊邪那岐はおかしいと思われ、高天原の神々に相談しました。
高天原の神々は占いをしてその結果、夫婦の契りの際に女性から声をかけたことが良くないということがわかり二柱は再度、柱の周りを回って今度は伊邪那岐から声をかけて夫婦の契りを交わしました
そうして、生まれたのが淡路島、四国、隠岐の島、筑紫、壱岐の島、対馬、佐渡島、大日本豊秋津洲です
この島々を大八洲国といいます
続いて、児島半島、小豆島、周防大島、姫島、五島列島、男女群島をお産みになり国生みを完成させました
国生みを成された伊邪那岐と伊邪那美は次に多くの神々をお産みになります
家宅に関する神々、海や川、木々や野山、土や霧、谷や山の影、船や穀物の神々など35柱の神様をお産みになられた最後に火の神火之迦具土を産まれました
伊邪那美が火之迦具土を産んだ時にその業火で焼かれ伊邪那美は死んでしまいます
妻を失った伊邪那岐は嘆き悲しみ、怒りに任せて火之迦具土の首を跳ねられます
その後、妻を追い黄泉国まで追いかけていかれます
黄泉国とは死の国のこと
黄泉国につき黄泉国の門で伊邪那美と言葉を交わします
伊邪那美は黄泉国の食事を取ってしまったので帰れないがこの国の世界の神と相談してくるとおっしゃいました
しかし、いくら待っても伊邪那美は現れず伊邪那岐は待ちきれず門を開けてつけていた櫛に火をつけて黄泉国を除きます
そこで見たものは体中に雷神が取り憑き、腐り果てた妻の姿でした
伊邪那岐は恐ろしくなり逃げ出してしまいました
追って来た伊邪那美に対して黄泉国の入口を大岩で塞ぎます
伊邪那美は怒り「貴方の御子を日に1000人殺しましょう」と申され
伊邪那岐は「私は日に1500の産屋を建てよう」と答えます。
この事が生と死の起源とされています
その後、黄泉国の穢を祓うために筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎを行われます
その時に23神を化生しその最後に「天照大御神」「月読命」「須佐之男命」の三貴子をお産みなりました
天照大御神には自分の持っていた珠を渡して高天原を治めるように言い渡します
月読命には夜の食す国(夜が支配する国)を治めるように言い渡します
最後に須佐之男命には海原の世界を治めるように言い渡します
しかし、須佐之男は言うことを聞かないで母が恋しいと髭が伸びても泣きわめき世界を混乱させていました
それを聞いた伊邪那岐は須佐之男を海原の世界から追放して自らは近江にお隠れになっていました
江戸時代には天照大御神の親神ということから
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあります
淡海地方では、国土を作り出した力のある神ということで、近江商人により産業繁栄や商売繁盛の神として信仰されるようになり、日本最初の夫婦神であるため良縁の神としても広く知られています
狛犬
迫力のある狛犬さん
摂津難波稲荷大社
通称(がんのいなり)
御祭神
大日留姫命、豊受大明神、外四社
去る文化年間以前は非常に盛大に祭事が行われ摂津雄逸の稲荷として、京阪神間の者の参拝絶え間なく殷賑を極めたと伝えられてます
摂津難波稲荷大社のお狐様と立派なお堂
お狐様のスタイルバツグンやね
松尾神社
御祭神
大山咋命
大年神が天知迦流美豆比売(あめのちかるみずひめ)と結婚されて奥津日子神、奥津比売命をお産みになられました
次に大山昨神、またの名を山末之大主神をお産みに
この神は近江国の比叡山および葛野の松尾に鎮座しておられ、鏑矢を用いる神なんです
大山昨神には「山王」という別名も
これは神仏習合の影響を大きく受けた「山王信仰」という信仰体系に基づいたもので、今でも全国で「山王さん」の愛称で親しまれています
この始まりは、最澄が比叡山に延暦寺を建て天台宗を開いた際に、唐の天台山の国清寺の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、日吉大社の主祭神である大山昨神(と大物主)を「山王権現」と称したことに始まりなんやって
全国の「日吉神社」、「日枝神社」の広がりの背景には、山王信仰および天台宗の存在が大きかったとされています
大山昨神は平安京以前、京都盆地で栄えていた渡来系豪族によって祀られていた神様でもあるんです
その中でも勢力の強かった秦氏によって松尾大社が創祀されました
本朝月令にはこのような伝承が残されています
ある日秦氏の娘が葛野の川で洗濯をしていました
すると、川上から一つの矢が流れてきました
娘はそれを持って帰り戸上に刺し置きましたすると娘は夫無しに妊娠し、男児を産みました
戸上の矢は松尾大明神(大山昨神)でありました
これが書かれてある文章の直前に賀茂氏に関するほぼ同じ内容の伝承が書かれています
そして平安京遷都後、松尾大社は賀茂氏の賀茂神社とともに「東の厳神、西の猛霊」として皇城鎮護の社とされました
また、秦氏は酒造を得意としていたため、同時に大山昨神も酒の神と仰がれるようになりました
そして室町時代末期以降、松尾大社の大山昨は「日本第一酒造神」と呼ばれはじめ、今日に至るまで多くの醸造業の信仰を受けるようになります
御神徳
厄除け
方除け
醸造
松尾神社の前にいた狛犬さん
愛くるしい顔
これはなんだ
地下に何かが埋まってるような…
行者堂
役行者があるのですが…
戦中の爆弾で手足頭部の無いのを安置してて
夫婦和合、円満のご利益があると毎日参拝があるようです
傳史跡難波の梅 碑
難波の里(現東難波町・西難波町)の香り高いウメの木を、仁徳天皇がとくに好まれたので、村人が毎年ウメの花を献上してきたんやって
あるとき、このウメの木を勅命で都に移した
都では難波に向いている枝には花をつけたが、ほかの枝には花を咲かせることがなかったので、もとの地に返したところ、また昔のように多くの香り高い花を咲かせるようになったとか
約20種70本の梅が境内に植えられた、梅の名所として知られる神社なんよ
兵庫県尼崎市西難波町5-9-22
今回のランチは
尼崎の国道2号線沿い(昭和通)にあるカツ丼で有名は豊家さん
メニューにはこだわりのいろんなカツ丼が
ふわとろ玉子カツ丼
さっぱりだしカツ丼
チキンカツ丼
特製ソースカツ丼
おろしだしカツ丼
天然海老カツ丼
カレーカツ丼
八丁味噌カツ丼
辛みそカツ丼
お代は丼の大きさによって変わります
小盛りは710円、並盛りは820円、大盛りは940円、特盛りは1,180円、そしてドカ盛りは1,700円
ハーフ&ハーフもあるんや
一番人気のふわとろ玉子カツ丼 並み820円 (お味噌汁、漬物付き)
店内を見ていたら…
9割の人がふわとろ玉子カツ丼を注文してた
期待度MAXやぁ
トロントロンの玉子が軽く左右に振ると、プルンプルンしています
ご飯を優しくすくいあげると玉子がテロ〜ンとしちゃって
口に運ぶ前から漂うダシの薫りが強く、ご飯にしみこむダシの美味しいこと
そのダシしみこむご飯とトンカツの合わせがまた美味しいカツ丼でした
阪神尼崎駅より徒歩10分
兵庫県尼崎市東難波町5-3-14