生まれつきこうだったから
歩き方悪くたって自己導尿出来なくたって
あとはフツーだから、これが私って感じです
途中で事故とか病気や何かの後遺症でこうなったのではなく、先天性だったから。。
(中途で障害を持った友達,知り合いいっぱいいますが本当に大変だったと思うもん)
まだ朧気に覚えています。。
養護学校入学と同時に5歳か6歳で施設に入った私。。
脊髄損傷の影響で自己導尿ができなくてカテーテルを使うのですが、それまでは母が
で横に寝かせた私の下腹部を押しながら導尿してくれましたが、その日からはカテーテルで自分でやらなくてはいけません。。
施設に入る日、お出かけに行くと言われていた私はおめかしして家族みんなで行きました。
着いて一通り説明が終わり、
私は看護婦さんに呼ばれトイレに行き、カテーテルで自分で初めて導尿に挑戦しました。
まだ幼い,やったこともないカテーテル導尿なのに一発でやれて、看護婦さんに誉められたような記憶もあります。
経験のないカテーテル導尿を幼い私が一発で出来たのは今から思えば、それが一生私に託された指名,これが出来なきゃアンタは生きていけないって神様から言われて、スンナリやってのけたことだったのかなぁ と。。
看護婦さんに呼ばれトイレに行く際、何か嫌な予感があったんでしょうか。。
私は母に‘帰らないでよっ
’と言ってトイレに向かったそうです。
私がカテーテル導尿中、婦長さんが家族のもとへやって来て、
‘今のうちに帰りなさい’と話したそうで、私がトイレから帰ってきたら家族は居ませんでした。。
婦長さん曰く、本人が居る前で帰るよりいない間に帰ったほうがいい との事でした。
だいぶあとになってから聞いた話、家族は帰りの車のなかで皆して泣きながら帰ったそうです。
父も片腕で流れる涙を拭い拭いしながら運転していったといいます。。
そーんなことを知らずトイレから帰ってきた私は大号泣(T_T)
毎晩
布団のなかでなぜか
やお母さんを思い出して泣いていました。一緒に入った友達は日中に泣いて、私は夜泣いて…みたいな
布団のなかでなぜか
外泊も外出も出来るけど、
入ってすぐの子には里心をつかせない為にあえてしばらくの間はどちらも禁止だったようです。
私の場合もだいぶ経ってから外泊させることが出来たって母が言ってました。
電話も当時はまだナースステーションのなかにある電話で話すのが習わしでした。
しかも、
自分からかけるのではなく,家族から掛かってきた時だけお話できる感じです
ナースステーションにある看護婦さんとかも普通に使う
だったので、長電話も勿論できません。
早く切れ
みたいな看護婦さんからの視線オーラばりばりのなかでの束の間の家族との会話時間。
みたいな看護婦さんからの視線オーラばりばりのなかでの束の間の家族との会話時間。だんだん時間が進むと、そろそろお母さんが電話を切るな
と分かってきて、まだ幼かった私はベソをかき始めます(泣)。
と分かってきて、まだ幼かった私はベソをかき始めます(泣)。泣いてヒックヒックなってきて言葉になんなくなってきて
そうすると電話の向こうの母も涙声なんだけど厳しい声で‘泣けば電話切るよ
’とかいいます
’とかいいます
最初はそんな感じで
でもさすがに慣れて友達も出来、
施設の建物自体も翌年、私が小学2年にあがる頃増改築されすごく新しくなり
、

、ナースステーションにしか無かった電話だったけど、
公衆電話が設置され,傍に長椅子も置かれ,夜になると皆がナースステーションから10円何枚とか100円何枚とかお金を貰って
みんな長椅子に仲良く並んで順番②にそれぞれの家族へ看護婦に気兼ねすることなく
電話タイム
してました

そこで小学・中学過ごしましたよ。。
高校はまた別の養護学校でしたけど(^_-)

何のとりとめも無く、小学校入学の時の
小さいけどおっきかった‘私の歴史’の1ページでしたッッ

