「全ては愛の中のことだった」を前提に、自分史を書いています。

 

(自己満足で、半生を振り返ってつらつらと書いていますので、

ご興味ある方だけお付き合いくださいね(^-^)

初めから読んでくださる方はこちらです。→自分史(序章)

 

 

 

場面緘黙の症状が消失していくことで

全てが快方に向かったわけではありませんでした。

その頃から苦しみ始めたのが摂食障害、とりわけ拒食の症状です。

食べ物が美味しいと思えず、

まるで鉛を呑み込むように感じられることが増えてきたのです。

 

特に、家族で食卓を囲んでいるときに

食欲が急に失せてくる...

 

お腹が空いているはずなのに、

今日こそはちゃんと食べれると思っているのに、

一口二口と食べ物を口にすると、

独特の食感に辟易し(鉛のようだったり、紙のようだったり)、

もう何も口に運びたくなくなるのです。

 

もちろん、そんな私を母が許すわけがありません。

横から射すような目で、私の様子を察しているのが伝わります。

口に運ぶペースが遅くなると、苛立った声で食べることを促され、

終いには「なんで食べれないの!」と大きな声で恫喝しながら、

その場に殴り倒されたり、蹴られたりすることもしょっちゅうでした。

私としても、そういう目に遭いたくないので

出来れば食べたいのに、食というのは本当に不思議なものだと思いますが、

毎回毎回どうしても食べることができないのです。

取り繕うことができないんですね。

 

今の私が思うのは、

この頃奇しくも、母が仕事を始めたことで、

私が私を取り戻す時間に風穴が開いたこと。

それが、母が傍にいる時といない時とのギャップを作り出し、

そのうち、そのギャップを心が行き来するのが、

だんだん難しくなってきたのだと感じます。

要するに、やはり取り繕うことができなくなってきたのです。

そして、それは私にとって、その時の大事なプロセスでもあったのですね。

 

絶対的な脅威だと感じていたもの(その時は母親)に対して、

どこかそれを、もうこれ以上自分の中に入れたくない!という拒否反応が、

食を通して、表現され始めたのです。

もちろん、これは私にとっての意味合いで、

全てに当てはまるものではないことは言うまでもありません。

 

しかし、大事なプロセスとはいえ、

拒食という反応を通してそれを表現することは、

生半可なことではありませんでした。

成長期の中にありながら、体重は全く増えず、むしろ減る一方で、

健康診断では、毎回痩せ過ぎというお知らせが届くようになり、

それがさらに母の神経を尖らせるものとなりました。

 

当時、母親は私を連れ歩く機会があると、

すれ違う人が、「あの人は振り返ってこの子(私)を見るだろうな...」と感じることがあり、そして振り返ると、やはりその人もまた振り返って私を見ていることが、よくあったということを聞いたことがあります。

それくらい、痩せこけていたんですね。痛々しかったのだと思います。

 

自分でも覚えています。

我ながら、自分自身がものすごく不健康で気持ち悪い気がして、

自分のことを全く好きになれませんでした。

小学生高学年にもなると、女子は身体つきも女性らしくなっていっているのに、

自分は...。頭も心もおまけに身体までおかしいなんて。

 

その頃から夜な夜な、

自分のどこが嫌いかを100個数えて寝ることを

自らに課すようになりました。

頭の先から足の先まで、くまなく嫌いなところを言いあげて、

いかに自分がどうしようもない存在で、取るに足りないどころか、

諸悪の根源なのかを確かめるような、まるで儀式のような時間を過ごしていました。

不眠症でもあったから、私にとって夜は十分すぎるほど長かったのです。

 

母親への拒否感と同時に、自分自身への拒否感も比例するように膨らんでいきました。

「拒食」は、私にとって、一切のエネルギーの入りを拒むと同時に、

エネルギーが留まることすら許せない、全てを否定し、無しにしていきたい

欲求と衝動の顕れだったのです。

 

しかし、先に述べたように

苦しいけれどこれは、私にとって大切なプロセスの一つでした。

私なりのNOが芽生え、不器用ながらもそれが表出するという

大事な芽吹きを迎えていたことを思います。

 

症状は表現なのだということが、

今の私の理解に、深く刻まれるかけがえのない体験です。

そして、どんなに強い拒否も否定も

矛盾するようだけれど、

それでも生きている、生かされているという

生の慟哭のような、その顕れだったような気がしています。

 

 

自分史⑭に続きます。