「全ては愛の中のことだった」を前提に、自分史を書いています。

 

(自己満足で、半生を振り返ってつらつらと書いていますので、

ご興味ある方だけお付き合いくださいね(^-^)

初めから読んでくださる方はこちらです。→自分史(序章)

 

 

場面緘黙の症状が消えたのは、私が5年生の時でした。

学校で、いつの間にか話すことができるようになっていたのです。

だんだん話せるようになってきたなとか、そういう意識がまるでなく、

ふと気が付くと、学校生活の中でも話しているのが自然になっていたのです。

授業中に手を挙げたりすること、国語の本読みが順番に回ってくること、

そんなこともいつの間にかできるようになっていました。

そんな変化に当の本人の私は、まるで気づいていなかったことが印象的です。

 

変化というものは、本当に不思議なものです。

そして、そういうものなのだということを深く実感します。

季節が今日から変わるとか、そういうことではないように、

おそらく水面下ではゆっくりと変化している何かがありながらも

一見何も変わっていないように見える....

だけれど、いつしかすっかり様変わりしていたりすることに

後になって気が付き、それを実感したりすることがあるのですね。

 

その背景にあったものは、母が自らの仕事を開業して、

私にとって脅威に感じていた圧が大きく緩んだこと。

そんな母の「目」を逃れ、自分の息をする時間ができたことでしょうか。

(低学年の頃に学校で描いた母の似顔絵には、目がなかったことを覚えています。

もちろん無意識にそう描いたのでしょうけれど、手元にその絵が返されてきたときに、なんで目を描かなかったのだろう、この絵を母に見られると、またひどく怒られる。自分はどうして、怒られるようなことを無意識にしてしまうのだろうと強く思ったので、よく覚えているのです。)

そういう時を過ごしていましたから、

失敗をして逆鱗に触れないように緊張していなくてもいい、

自分のリズムで呼吸していていい、

自然体でいていいという安堵感がもたらすものは

とても大きかったことを思います。

 

また、5,6年の時に担任してくださった先生のさりげなさに

大きく救われました。

そのまんまでそこにいられたことが、学校でも自然体でいられるきっかけになったのです。

 

とはいえ、先生のことを思い返しても、

実は、何か特別な話をしたことも関わりがあったことも

思い出せません。

私の中で、先生が私を見ているという印象はどこにもないのです。

 

しかし大人になったとき、

それは実は、それくらいさりげなく見ていてくれたのだということに

はっと気が付いたことがありました。

胸が熱くなり、心から感謝が湧いてきました。

 

そして、これも大人になってから母に聞いたことですが、

その先生の初めての懇談会の時に、

いつものことながら、また何か言われるんだろうなと構えて行っていた母に、

「miyukiさんは、沢山の可能性を感じられるお子さんですね。

成長が楽しみです。その成長を見守りながら、できるだけのことをさせて頂きますね。」

というようなことを伝えてくれたのだそうです。

母は、私に関して学校で嬉しいことを聞くことがなかったので、

この時、本当に嬉しかったと同時に、

こんなとろくさい子に可能性があるなんて、先生は本当に思っているんだろうか?と、にわかに信じがたい気持ちでもあったのだそうです。

いずれにしても、その先生には2年間担任をして頂き、

私は初めて穏やかな学校生活を送ることができた時期でした。

 

先生は、私に何か特別なものを差し出してくれていたのではなく、

ごく自然にそう在るという、実は最も尊い境地で

共にいてくださったことを思います。

その空気感は確実に私の細胞の隅々に浸透し、自然な変化が促され、

同時に成長にも繋がっていたのですね。

 

6年生の終わりに、学級で劇をしました。

私は何人かの友人と、担任の先生が6年生の女の子という設定で台本を作ったのを覚えています。

内容は、先生の家の雛人形たちがひょんなことで時空の狭間にワープしてしまい、

なんとか3月3日に、先生の家族が雛人形を飾るために箱を開ける前に帰ってくるという、冒険ストーリーのような内容でした。

その冒険ストーリーを、友人たちとあれこれ空想し、台本にしていくのがとても楽しかったことを思い出します。

 

この劇では周囲に、6年生の女の子である先生役を薦められ、

不思議と、自分も素直にこの役をしたいなって思ったんですよね。

人前で声を出したり、ましてや演じたりするなんて

当時の私には恐怖にも似た大きなチャレンジだったことを思いますが、

おそらく、何も介さなくても、先生のことが好きで、信頼が芽生えていたのですね。それ(表現)が自然にできる境地には、温かさが溢れているのです。

人に対する好意や信頼が芽生えていたこと、そのような素地を与えられていたことは、当時の私にとってかけがえのないことだったことを、今更ながらに実感します。

 

当時、先生が涙を溜めて、この劇を見ていらっしゃったのは、

先生をストーリーの主人公にしているからだと思っていましたが、

同時に、私を含め皆の成長を心から喜んでくださっていた証なのかもしれません。

 

自分史⑬に続きます。