「全ては愛の中のことだった」を前提に、自分史を書いています。

 

(自己満足で、半生を振り返ってつらつらと書いていますので、

ご興味ある方だけお付き合いくださいね(^-^)

初めから読んでくださる方はこちらです。→自分史(序章)

 

 

 

母が始めた飲食店の仕事はあっという間に軌道にのり

朝早くから夜遅くまで、家を空けるようになりました。

私はというと、水を得た魚のように伸び伸びと

過ごせるようになりました。

幼い頃からずっと感じていた母の怖い眼から

解放されたような心もちだったのです。

 

しかし、妹はまるで違う心境だったようです。

辺りが暗くなってくると、だんだん心細くなるのでしょう。

ベランダからずっと外を見ながら、泣き出すのです。

 

私は、妹が泣き出しそうになると

変なお話を即興で作って笑わせたり

クイズを作って問題を出したりして、

なんとか妹が泣かないように、気を紛らせようとするのが日課になりました。

妹は泣き出すと、だんだん泣き声が大きくなり、

手が付けられなくなるので、日々戦々恐々としていたのです^^;

そして、心のどこかで

そんな風に親の不在を寂しく感じられる妹を、羨ましく思っていました。

私の中には、そんな気持ちはどうしても湧いてこなかったのです。

 

当時は、親がいないときは留守番しか手立てがなかったので

妹と私は学校から帰ったら、まず父が帰ってくるまで

留守番をして過ごしていました。

(妹は小学校に上がったばかりでしたから、心細さもひとしおだったのかもしれませんね。父は早く帰ってくるときもありましたが、大体20時頃だったでしょうか。

母は21時や22時頃だったと記憶しています。)

 

そんな日々でしたから、次第に家事が私の役割になっていきました。

初めは、ご飯を炊いておいてとか、洗濯物を取り込んでおいてとかだったのが、

いつの間にか、掃除や洗濯、買い物や夕食の準備など家事全般にわたるようになり、

さらにそのうち、母の飲食店で出すメニューの大量の下準備まで

手伝いとしてしなくてはいけない流れになっていきました。

掃除も細かいやり方が指示されるようになり、掃き掃除や拭き掃除はもちろん、

家中隅々まで毎日磨き上げなくてはなりません。(母の方法があるのです。)

その合間に、大量の下準備は、大きな鍋や圧力釜のようなものも使って

色んな野菜を切ったり、茹でたり、蒸したり、炒めたりして、下ごしらえをするのです。

 

家の中で精神的には気楽に過ごせる時間が増えた反面、

やらなければならないことが沢山あって、

当時小学生の私にはまだ荷が重すぎました。

しかし、しておかないと母の逆鱗に触れます。

 

母の帰宅する足音が聞こえてくると、身体が硬直し始めます。

母は、ひととおり家の様子をチェックして

それで何も言われなければOKですが、

何かできていないところがあったり、気に入らないやり方だったりすると、

あっという間に機嫌が悪くなって、大変なことになるのです。

 

ちょっとでも散らかったりしていたらおおごとなのに、

泣いて暴れた妹が、ちょうど母が帰ってくるタイミングで

物を散らかしたりしていたり、

(母が帰る頃になると、私が出来ていない諸々に焦って

妹の相手をしなくなるので)

頼まれていたことがまだ全部終わってなかったりと

今思い出しても、大人のニーズに応えるには

幼すぎる私だったことを思います。

(この生活スタイルは、私が中学生になるまで続きました。)

 

この頃は、ただただ母の機嫌がどう出るかが怖くて

まだまだ母の言うなりの私でした。

一日一日の終わりに、母の機嫌に一喜一憂しながら

過ごしていました。

しかし、沢山の家事がありながも

それでも日中の束の間の自由は風穴が開いたような解放感があり、

私にとっては、やっと呼吸が出来るような日々でした。

 

 

自分史⑪に続きます。