「全ては愛の中のことだった」を前提に、自分史を書いています。

 

(自己満足で、半生を振り返ってつらつらと書いていますので、

ご興味ある方だけお付き合いくださいね(^-^)

初めから読んでくださる方はこちらです。→自分史(序章)

 

 

4才頃、頻繁に見る夢がありました。

私は小銃を肩に担いだ日本兵で、隊列を組んで歩いていて...

山間のトンネルに差しかかるくらいの時に、

今隊列から一気に飛び出して山深くに入れば、

この隊から逃げ出せるだろうかと

ぼんやりと考えながら歩いているのです。

しかし、それは絶対できないし、しないことも分かっています。

ゲートルを巻いた足が痛みに疼くけれど、

間もなくもっと悲惨な痛みを味わうであろう戦いの現地は

もうそんなに遠くないことを感じています。

 

いつもそこで目が覚めて、

自分が今子どもであり、性別は女であり、

兵隊でも何でもないことを確認すると

心底安心するのです。

 

幼稚園の年少の頃ですから、

戦争がどういうことかも詳しくは知りようのない頃ですし

特にそういう本を読んだり、知識があったわけでもありません。

しかし、なぜか肩に担いだ小銃の揺れや装填するための玉の連なりの重み、

ゲートルの巻き具合というのでしょうか、

そういう感覚を夢の中で感じていたんですよね。

不思議ですね。

 

ずいぶん経って、過去生を感じる時間の中で

この時の自分を体感することがありました。

この時の体感は、何度も夢に見ていたのでさほど驚きはなかったものの、

それ以上に驚いたのは、

私は他にも沢山の争いや戦争を、過去生の中で体感していたことでした。

 

ある時は古代ローマで、ある時は中世ヨーロッパで、ある時はトルコで、ある時はドイツで。

またある時はレムリアで、ある時はインカ帝国で...。

 

内容は割愛しますが、どの体験も悲惨で不毛で

恐怖やもっていき場のない悲しみに満ちた体験でした。

過去生が本当にあるのかどうかその真偽を確かめようはないけれど、

感じられてくることは、その時々の自分の奥深くの何かと共振していて

大切なメッセージを含んでいるものです。

 

私にとって、争いに象徴されるようなエネルギーは

正しさや強さや多勢や...そういう何者によっても解決されるようなものではないことを、

時には兵隊として、時には戦争孤児(男子)として浮浪し、時には難民母子で国境をまたぐ避行に出て(私は娘の立場で。)、時には戦車でどこまでも仲間と侵攻し、しかし時には戦う前に自決し(女性)、そうやって様々な時代や立場で繰り返し味わい、どうあっても不毛であることを身をもって知ったような気がします。

 

それにしても、どの過去生の体感も独特のバックグラウンドから感じられてくるものがあり、今世の自分は知り得ないものだったりすることも多いんですよね。

過去生といわれるエネルギーの神秘もまた、はかりしれないものがあることを感じます。

どんな体験も体感も大切な経験で、壮大な時間軸の中で、敬虔に繋がる一つ一つとなるのですから...。

 

 

 

 

 

 

 

自分史⑤に続きます。