「モヤモヤの正体」尹雄大 | 部屋とココロを整えて気持ちよく生きる

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自分の望む人生をおくるために日々考えてること

 



  

 

◆「周りへの配慮」を持ち出し、ものごとの善し悪しを他人にならって判断しようとする態度に潜んでいるのは、「私のことを気遣って欲しい」であって決して起きている出来事への関心ではない

 

◆聞き分けが良くなり、自分の気持ちではなく周りの考えに従う。こうした方法に習熟したことで私たちはふたつの身なりの整え方を手に入れました。

 ひとつ目は、自分の興味に従ってものごとを試してみて、その体験の中で培った「正しい」と感じることを述べたり、それに基づいて行動することを放棄しました。

 ふたつ目は、怒りを表現することを恐れ、それでいて怒りを募らせ、ひねくれた形で表現するようになりました。

 

◆「したくなかったことを受け入れる」ことで確立した信念は葛藤を生じさせます。なぜなら「私が私ではない者になる」プロセスだからです。

 

◆周囲から「できないことを指摘され、その否定的な評価をくだされる自分に罪悪感を思えるようになった挙句、そのような他罰的な態度を受け取ると、人から「笑われないようにしないといけない」と考え、それを健気にも実行するようになりました。そうした学習の末に、失敗とは恥ずべきことで、もしもそんな人間がいたとしたら笑うことが当然なのだと学んでしまいました。

 

◆迷惑やワガママといった言葉で誰かを非難したがるのは、他人の行為が常に問題なのではなく、それが自らの不安や自信の欠如を突いてくる側面を持っているからではないでしょうか。

 

 

人は、心の奥底で

・自分をわかってほしい

・無条件で愛してほしい

・そのままでいいと言ってほしい

・自分の気持ちに素直でいたい

・やりたいことをしたい

そう思っている。

 

でも子どものときに、

周りの大人が、教育が、社会がそれらを抑圧させる。

 

常識、普通、世間体、当たり前、

みんなそうしてる

迷惑がかかるから

それはワガママ

そんな言葉で自分らしさをつぶしていく。

「個性が大事」と無自覚に嘘を言いながら。

 

そして子どもは、ありのままの自分を出すことが怖くなり、

周りに合わせるうちに主体性を失い、

自分の気持ちに従って行動することを忘れていく。

 

それで平気なら別に問題ないんだろうけど、

人は自分らしく生きないことに苦痛を感じるようにできているんだと思う。

自分の気持ちを無視して、

やりたいという欲求がないことをやり続けることは

心のないロボットと同じだから。

それは自分の存在を無視してるようなものだから。

 

そのフラストレーションやストレスはやがて周りに向かっていく。

 

周りにイライラするのは

問題のある人が周りにいるのではなく、

自分の内面の問題。

 

「私がこんなに我慢して生きてるんだから、あなたも我慢しなさいよ」

「私がこんなに努力してるんだから、あなたも努力しなさいよ」

「私がこんなに気を遣ってるんだから、あなたも気を遣いなさいよ」

 

そう言ってるだけ。

 

自分が必死で守ってきた正しいと思い込んできたルールを破る人を見ることで、

勝手に心をざわつかせているだけ。

 

すごくズレてるなと思うのは

心の奥底では自分らしく生きたいと思ってるのに、

行動は他人に合わせて生きるという真逆のことをしているということ。

 

心と行動が一致してない。

心が見えなくなってるから、

一致していないことに気づいてない。

 

望む世界は枠の外にあるのに、

ずっと枠の中で「欲しいモノが見つからない」と探し回ってる

そんな感じがする。

 

イライラやモヤモヤをきっかけに

自分と向き合うことを始めるといいのになって思う。

 

何にイライラするのか。

なぜイライラするのか。

自分はどういう「~すべき」というルールを握りしめてるのか。

なぜそのルールが正しいと思っているのか。

本当にそのルールが必要なのか。

 

ルールが減れば減るほど身軽になるし、

ルールなんてなくても楽しく、

いやルールがないほうが楽しく生きられることが

きっと実感できるはず。