リアルミユキ -3ページ目

NYで観た現代アート

アートの世界を探っていると他のものも見えてきたりする

たとえば女性と男性についても深く探ることもある。
わからないから放置してきたことのひとつだけれど。

女性は人間の生と死に近いところにいる。


現代作家の作品をみているとそれをひしひしと感じる
テーマをそこに置いている人は女性が多い。

アバカノビッチMagdalena Abakanowicz (1930- ) ポーランドの芸術家)もその中のひとり。
メトロポリタンミュージアムでアレクサンダー・カルダーと同じフロアーに展示されていてまたまたラッキーッ!!!


あの時のわたしはメッチャクチャにツイテいた。


そして隣の部屋にはジョージア・オキーフ



ウンッモゥッ!p(><)q



ちぢんでのびてくるくるまわってしまいました。


滞在先がメットのちかくだったので毎日行けたのだから。


しかしニューヨークはフランスのパリにかわって、しばらくの間アートのメッカだったらしいが、アートの神樣はもうそこにはいなかった。

1950年代の息吹だけがメットにあったけれど。


その時本当にガッカリしたのと同時に現代アートは日本にあると感じた。
とっとと日本に帰って次の行動を考えるべきだと。


不肖ミユキはいくつかの美術館やギャラリーのキュレーターにお会いして持って行った作品をみていただいたんですが、『これからの活動を報告してほしい。その上でスケジュールを考えましょう。』という反応だった。


いいのかわるいのか?判断はできなかったが、一瞬日本で活動したほうが楽しいと思った。

手放しで喜んでくれなかったことがとても悔しかったのもあるけど、それだけじゃなくここにもう一度くることは無いだろうと直感的に思ってしまった。


その後1度だけある美術館に個展のCDを送ったけれど、反応は無かった。

しかしNYに執着する気持ちはまるでない。


日本で、それもローカルにやりたい。

負け惜しみではなく心からそう思った。



今までの概念をひっくり返すのが現代アートなのだから。

日本から発信してもいいでしょう。

西洋的なものにかぶれていたのは過去のことにして。




アジアの片隅の日本で、


静かに地味に活動するつもり。




現代アートはどこへ行くか

アレクサンダー・カルダー現代彫刻の道を開いた。といわれている

「<モビール>は何ものも<暗示>しない。それは本当に生きた動きをとらえ、それをかたちづくる。<モビール>には何の意味もなく、それ自体のほか一切を考えさせない。それがそこに<ある>。それがすべてだ。それぞれがぜったいのものだ。」byサルトル



リアルミユキ-未設定

<ピグ>はそこにある。・・・というか放置状態。


何かいいコスプレを着せてやりたいのだが。


自分で作っちゃだめ?!byミユキ

現代アートに知識はいらない!

評論、評価をする人を評論家という。
批評家もいる。
専門分野に深い理解を持っていて教養の高い人がすることなのだろう。
美術品を鑑定する人もいる



だけど、どうなんだろう!?


知識はそんなに大事なものなのだろうか?


だれかが丹精込めて何かをつくる。
ありとあらゆる努力をして。
愚鈍なまでに一生懸命。



そして出来上がったものがダメなものであるはずがない。




わたしの田舎では今、山菜が採れる季節だ。

熊笹の上に酢メシをのせて山菜や木の実を甘辛く煮たものと錦糸玉子と紅しょうがを彩りよくちらした笹寿司というおいしいものがある。
これは謙信寿司ともいわれているように、上杉謙信のためにこの地方の人が家にある粗末な材料で工夫を凝らして作った携帯食だったそうだ。

見た目も美しい上にとても美味。

謙信がこれを食して、村人の心づくしをたいそう喜んだというお話がいい伝えられている。



お母さんは家族の健康を願って心を込めてお味噌汁を作り
ご飯を炊き
それが不味いわけがない。


でもいいかげんな人もいる

心ここに非ずって人。
ハンパな事をする人。

絵描きだってそういう人はどっさりいる。


欠落しているものを埋める努力をして、一生懸命持てる力を出し切った実感が得られたとき、はじめて喜びがうまれる。
職業であろうとなかろうと。
ものを創る人はそういうものだ。

満たされていたらそんなことをやろうとも思わないだろう。


適当なところで良しとしているなら。
適当な満足感でいいなら。
それはそれでよいではないか。
愚痴や不満はやめたほうがいい。


好きなことがある人はうらやましいって。
これは、余裕なご発言ですね。
ミユキはよく言われます。
うんざりなの。


ミユキが何かに係わる時は納得できるまでやる。
適当なところでおわらせると後でひどく悔しい思いをする。

相手が人間ならなおさらだ。
ハンパには愛さないのね、じっくりと真綿で首を絞めるように、やんわりとどこまでも・・・。
怖い女ですよ。

関わらないほうが利口ですよ。だはは

なので作品に係わってください。(笑)

現代アートは難解?

現代アートは難解でよくわからないとおっしゃる方がいる。

でも、わたしから言わせればアートなんてわかったとかわからないとかで見るものではない。

それぞれの感性で感じられればそれでいいのではないかと。

平たくいっちゃうと好きか嫌いでいいんじゃないかしら。


なんとなく好き、とか

なんとなくいいかも、とか

そんなんでいいんじゃないでしょうか


権威でものを捉えるくせができているとどーしても捉われてしまうけど。

もっと単純にみてもいいですよね。


日本の片田舎で育ったわたしはレオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロとかは違和感があります。

遠い西洋のものだし。


イタリアルネッサンスとかがバックグラウンドにある西洋のアートは身近には感じられないのです。


わたしが個展をやるキッカケは祖母の死です。

それまでは、そういった活動を避けていました。めんどくさいから。


ただ、祖母が死んでこころにぽっかりと空洞ができたみたいに寂しくなって、なんなんだろうって考えるようになって。

いろいろなことを思い出したんです。


祖母の家で毎年やっていた年中行事のことを。

すべて祖母がとりしきっていたので、祖母が亡くなってからは何もなくなった。

お盆だとか夏祭りえびす講秋祭り雪祭り桃の節句端午の節句

そういうときの調度品やら食べ物が自分を構成している一部のような気がしてきた。


それで何かやらなくちゃって思い立ったわけです。

鎮魂のためだったかもしれない。


なので今も純粋に芸術活動とは言えないかもしれないんだけど。


現代アートっていう概念がそれをゆるしてくれているんじゃないでしょうか。

けっこう快くやらせていただいています。


わたしにとっては御神輿や仏壇などの装飾やお菓子の色や形なんかのほうが身近なアートに思える。


あと、その時の雰囲気、儀式的なしつらえが醸し出す空間の色とか匂いとか空気


そういうものが日本のアートなんじゃないかと思います。

西洋のものとは、根本的に違う。


宗教と密接なのは東西同じなんだけど、何かが根本的に違う。




現代アートは知性(考え方)中心

ピエト・モンドリアン (Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン Pieter Cornelis Mondriaan 1872年3月7日 - 1944年2月1日)


カルダーおじさんが若い頃パリでこの人に出会ってびっくらこいたという。
かなーり影響を受けたそうだ。

モンドリアンという人はそーとー好き嫌いの激しい人で、バリバリの都会派だったようだ。
きっちりとした直線と塗りつぶした平面で構成された絵をみると頷けるけど。

この人のは度を超していたみたい。

キュビスムの作品に接して深い感銘を受け、どんどん追求していった。

視覚が中心のアートから知性(考え方)中心のアートに変化した。

ここが現代アートへの分岐点なんだと思う。




そこでアートの世界はぐ~~~んと広がった。


アーティストは人並みなところで納得してちゃダメなんだね。



突き抜ける必要がある。

普通ははつき抜けるようなことはイケナイことってされてるところがあるけど、アートは突き抜けなくちゃいけない。



それだけでもアートは自由だってわかる。

自由になりたい人はアートすればいい。


度を超した好き嫌いとか、人並みはずれて神経質に物を見るとか、自分の特徴を最大限に伸ばす努力をすればいい。むずかしくないでしょう。知性を磨くってそういうことだからさ。


ちなみに、わたしはザク切りのタマネギが大嫌い。
すごくぞんざいに思えるから。


小学校の給食の時間に拷問を受けたけど絶対に食べなかった。

まわりの人が度を超してわがままだって言うけど、そうじゃないっていつも悲しい気持ちでいっぱいになった。
自分の舌と視覚が許さなかっただけなのに。
子供はボキャブラリーが少ないから伝えることができない。


わかって貰えない子供たちに言いたいな。


【もうガマンしなくっていいよ。自分の「好き嫌いは個性」だって胸張って言い続ければアーティストだ!!!】

他人を傷つけちゃダメなのは言わなくたってわかってる。



立ちはだかる壁はたいていの場合自分自身で作り上げている。
多くの場合それはお母さんや学校の先生の顔色を読んで自粛してるんだよ。

聴いてくれてる?お母さんたち。

アートは生きる事

アートは生きる事だれかに教わることじゃない。

お偉い学者さんが書物に書いていることより
現実に現代に生きてメッセージを表現している人たちの感覚の方をわたしは信じるし、正確に心に沁み込む。

誰かの解釈なんて無用の長物。


ヒップホップの世界なんかは今を的確に表現していると思う。
ミユキ一押しのアーティスト、ラッパーのANARCHYもきっと知ったんですね。
詩の中にあることばに滲み出ている。
現実
待ったなしの一生にだけ起る奇跡!
望んだ訳じゃない、
背を向けたら先は無い!
終わらない・・・
ラッパーANARCHYは言う。


生まれてこのかたあーしろこーしろって言われたら
その反対のことをやってきた。


保育園の先生、お名前忘れたけど、ムリに自分の名前を書かせなかったことをありがたく思う。
折り紙を折ったんだけど、名前を書けない人は絵でもいい、三角でもなんでもわかればいいと言ってくれた。

ちなみにわたしは△を描いた。しかし△を描いた人が3人いてだれがどれかわからなくなった・・・

小学校でも1・2年の時は担任が勝手に話してることを理解しただけ。
3年から上にいくにしたがって先生はいらなかった。
自分で勝手に本を読んだり疑問を解決したりしていた。

今思うと小学1・2年の担任は重要な人だった。

小学1・2年の担任だった広瀬先生、わたしが空想に耽っていようが窓の外を眺めていようが、ほっといてくれて、いいとこだけ褒めてくれてありがとう。
好きににさせていてくれたことが、どれだけありがたかったか。

今わたしが生きているのはあなたのお陰です。大げさなようだけど、本当です。


高学年の担任なんてクソだ。
ロリコン野郎!!!


中学高校は同級生や先輩後輩いろんなやつと知り合ってお互い切磋琢磨させてもらったことを思うとみんな師匠。


絵の師匠は今村公子画伯。ナマモノの見方を徹底的に教えてくれた。


機織はなんといっても六日町のおばさんたちだな。
あの人たちに教え込まれた。
羽交い絞めみたいにされて、抵抗できなかった。
妙に素直になれたな。
あの人たちは最強だ。


まんがの師匠は森田拳次さん。

先生って言うと【先に毛が生えて先に抜ける人】みたいに感じるらしく言われたくないらしいけど。


わたしは思いついたらなんでもやる。
自分でやる。

友だちなんていない。
ライバルならいっぱいいる。
師匠もいる。
誰とは言わないけどね。


これからもわたしはどんどん変わっていくしいろんなことをやっていくけど、何も無い人と捉えてくれていい。
こういう人と思われたくないし決めてほしくない。

自分勝手なイメージを持たれるのが一番ツライかな

なにしろミユキはウソツキだから。

がんじがらめが大嫌い。
男についてもそうだ。
わたしをめぐって殺し合いをしようが勝手にしてくれていいと思っていた。

(そう思っていただけでそんなことは起らなかったけどね。残念ながら・・・)

なにしろ自由を束縛しないでくれれば問題ナシ。
何人か同時に付き合ったりしてたけど、バレたら去っていった人もいた。
でも後悔もしないし悪いともおもわない。
まあ、今はそろそろ引退の年齢かもしれないけどね。(笑)


なにがなんでもやりたいことはやる!

絶対あきらめない!

最後までやり通すのがアートです。

現代アートを掘り下げよう!

そもそもアートって何?!

うすぼんやりとこんな感じって思ってたけど、
真面目に時系列を含めて検証してみると今までより深いところにいけるんじゃないかしら。
そうすることによって、自分のやっていることに裏づけができて深く突っ込んでいけるだろう。
そして、できればたくさんの人に馴染んでいただきたい。
アートを自分のものにして楽しんでほしい。
だってほんとに楽しいから・・・

他の人とも共有したい。


今度の個展ではそーゆーことを意識してやりますよ。

わたしといっしょにバカやりたい人よっといで~


ミユキはアレクサンダー・カルダーというアーティストが大好きだ

メトロポリタンミュージアムのコンテンポラリーアートのブースに、カルダーおじさんの赤いモビールが天井から吊り下がっていたのをみつけた時はもう小躍りして喜んだ。

その時誰もいなかったから本当に踊ったんですよ~はずかしながら!

”憧れのモビールが~~~~っ!”て感じ

この人の楽しいところは自分が芸術家っていう気がないところ。

船のボイラーマンやったり、ペンキ職人として船の乗組員になって、アメリカからフランスに行って、ハリガネでサーカス人形作って動かして人に見せて遊んだり、抽象的なものを作って動かしたりして遊んだ人。

一生楽しんだんじゃないかな。

ふざけたおじさんだ。

アレクサンダー・カルダー (Alexander Calder、1898年7月22日 - 1976年11月11日)

現代アートの旗手!!!


もうミユキはこーゆー生き方しかないって思う。

現代アートはismだらけ

現代アート

よくわからない世界です。


やってる本人たちが説明できないからどうしようもない。

観て頂いて感じてもらえればなんて調子のいいこと言ってるんですよ。

モダニズム (modernism)
ダダイズム→1910年代半ばに起った芸術運動。

ヨーロッパのいくつかの地方やニューヨークが中心に同時に起った。
シュルレアリスム(フランス語: Surrealisme, スュレアリスム)→1920年ぐらい「過剰なまでに現実」超現実主義

モダニズム(Modernism)

ポストモダニズム(Postmodernism)
いろんなismがあるもんだ


ネオダダ→1960年代前後
ポップアート→1950
コンテンポラリーアート(contemporary art)

と、こんな感じの流れ。

入り組んでいるので解かりにくいですね。


わたしがやっていることはコンテンポラリーアートってことになるらしい。

現代に生きてるから必然的に。

前回「目に見えぬ者たち」というテーマで個展をやった。

関わってくれた人たちに「人間以外の生き物ならどんな生き物になりたいですか?」と質問しまくって、出てきた生き物を総動員させた。

そんな訳でギャラリーの人が【モノノケコンテンポラリーアート】って名づけてくれた。


この時は不思議なことがたくさん起きた。

撮った写真にいっぱい丸いものが写ったり、

展示の中で音楽会をすることになっていたんだけど、出演者が病気や怪我で出来なくなったり。

窮地に立たされる経験もさせられた。

この時からかなり肝がすわったというかいろんなことに動じないようになった。



一連の試みはインスタレーション(Installation art)と呼ばれている。1970年代に一般的になったらしい。

場所や空間全体を作品として体験させる芸術。
お客様が作品に全身を囲まれて空間全体を「体験」する。


だからはじめて観にいらした人はビックリしてしまいます。

これはいったいなんなの?!って。


今日はここまでにしておきます。

続きは次回。

現代アートに行く前に

絵とか歌とか詩とかっていうのは、
芸術と呼ばれている。

芸術=アート

人はいつからアートをはじめたんだろう?


アートするのは必然だったのかな。

生きること=アート

もしかしたら人間始まる前からアートはあったんじゃない?
だってさ自然と空間があれば色を塗りたくなるし、
音が出るものを叩いたりこすったりしてみるし。

人間が始まる前にも生物はいただろうからさ。


人間はどんどん先に進んでいるようだけど、
根源的なものに向かっているんじゃないかなあ。
よくそんなことを思う。


日本の縄文時代ってすごーく興味がある。
土の中に眠っていた土器などをみるとステキだなーと思う。
その中に込められてる情報に興味がある。


学校でおおまかに習っているようなことは面白くないからここでは書きません。

次は20世紀に、現代に飛んじゃうつもり。

わたしはイタリアルネッサンスとか中世ヨーロッパが好きじゃないんで書けないってのが本音です。

なんでかっていうと、アートするひとたちがすごく生きにくかったんじゃないかと思うから。
自由が制約されていた時代なんじゃないかと。


自由を愛するミユキには受け入れられないことなのでね。
恋愛なんかも自由を束縛するからイヤなんですよね。

異性は好きだけど。あは。

現代アートについて

身近にいる子供たちと接すると、みんな天才だと思う。
このまま誰の垢も付けず大きくなってほしいと思う。


ある人がミユキのところに小学1年生の男の子を連れてやってきた。

人の顔を描かせてほしいということだった。

断ったけれどどうしてもと頼まれて週1回めんどうをみることになった。

ミユキはその男の子と友だちになっていっしょに遊んだ。

そのうちいつまでたっても絵をもってこないことに業を煮やしてお母さんが怒ってしまった。

そしてその子を連れて母国の中国に帰ってしまった。

残念なことだ。


わたしは子供の頃、絵なんてろくに描けなかった。
字すらきちんと書けなかった。

ただマンガが好きで簡単そうな絵をマネして描いてはみたけどヘタっぴーだった。


前回も言ったけどもう一度はっきりと言います。
わたしに絵を描く才能なんてなかった。
逆に言ったら誰にでも絵を描く才能がある。

花を花らしく描くのなんて簡単なことなのだ。
絵なんて得意じゃないミユキがが大きくなって訓練してそれらしく描けるようになった。

それを聴いたらみんなな~んだって安心するでしょう。


好きだったら努力する。
すぐに芽は出ないかもしれないけど努力すれば出来るようになる。
ウソじゃなく本当のことだ。

特別な才能なんて言ってる画伯がいたら偽者だ。
なぜなら、その画伯は自信が無いから、自分の今の地位を脅かされたくないから、そういうことを言って立場を守っているだけにすぎないのだから。

人間は変わっていく。世界も変わっていく。

昨日すばらしい絵を描いたからといって明日また描けるわけじゃない。


すばらしいアートというのは、その時代の病を受け取って昇華させる力をもったものなのだから。
だれがやっても出来るかもしれないことなんですよね。
この時代の苦しみや病の中で自分を癒そうとして表現方法を探して七転八倒しているのがアーティストというわけだから。
そして、うまく表現できたなら、それには普遍性というものが備わって後世に残る。


アートの世界にも歴史があって時代と共に変化し続けている。


次はアートの歴史のことを書こうかな。