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奥に見える灯台が 美空ひばりさんの歌碑がある 『塩屋崎灯台』 です。

会場となった場所は豊間海水浴場の駐車場でした。

ここに立つと改めて思います。

ここから海面はだいぶ見下ろす景色です。

駐車場より下にまた道があり堤防がありその下に砂浜です。

こんなに高低差があるのに 波はこれを乗り越えたのか、と。

写真右に看板の枠組みだけが見えると思いますが

看板部は流されたのだそうです。



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海岸の手前の道です。この右に海があります。

奥に見える山が先ほどの灯台がある山につながっています。

私が子供のころから古い民家がみっちり並んでいた場所でした。

以前は瓦礫の山で入れないときもありました。

今は片付きましたが ときおりこんな風に・・・

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整然となった景色の中でこれらは怖い記憶を呼び起こします。

その一方で残った壁などには 『がんばっぺ いわき!がんばっぺ とよま!』 の文字が書かれていて。

(もう住んでいない個人のお家なので 許可が取れず撮影ができませんでした。

 元気の出る画像がお見せできなく残念です)



今回このような式次第で 倉本 聰さんもいらしていました。

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私は数名のボランティア仲間と炊き出しなどの裏方でしたので

この会場にはほとんどいられませんでしたが

2時46分には地元の婦人会の皆さんとともに手を止めて 黙祷をささげました。

そこで驚いたことが 地獄のような経験をしている地元の方たちがあっけらかんとしていたことです。

しんみりすることなく 明るく楽しくたくましくて。

お母さんたち、あっぱれです。



昼の献花が終わった場所で 夜はこのように一斉にキャンドルを灯しました。

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天気ももって滞りなく終わり 片付け始まったとたんに雨が・・・

集まった方々が解散した後だったので 本当に良かった。

そして片付けの中 たった一度だけ大きな雷が鳴りました。

本当にたった一度だけ。不思議な雷でした。

大粒の雨と寒さの中なんとか片づけが終わり なんとかその日のうちに東京へ出発できたのでした。



いままでこういうことは一人で行動することが主でしたので

こうやって団体で大勢の方のお世話をするのは貴重な体験でした。

特徴としては 最後の片付けです。

会場に来られた方々が帰られてから片づけを始め、

全てを元の状態に戻して綺麗にして帰るという当然のことですが、

他の団体などがゴミを置いていったりするとこちらの団体が持って帰ることになったり

もの凄く時間がかかることです。

その要因のひとつにボランティアに来られる方が交通の関係や仕事の関係で

途中でひとりふたりと帰ってしまうことにもあります。

今回は特にバスを出して皆で一緒に移動という形ではなかったので仕方ないですが

もっと人手が欲しいなと思いました。



とはいえこの日は 直接関われなくても祈りを捧げる気持ちがあればそれでいいんです。

何もできなくて・・・と思い沈む人も多かったようですが

思いを寄せる気持ちを持ってくれることこそ 被災した方が望んでいることだそうです。



こちらからの呼びかけで献花に賛同してくださった方々

本当にありがとうございました。皆さん喜んでくださってました。








福島は瓦礫の処分は長くできないだろうと思っています。

でも、他の地域の瓦礫は・・・

東北の人間は危ないものを受け取ってくれとは まったく思っていません。

放射線量をしっかり計測して 通常の数値内の物だけでいいいんです。

当然のことながら 害はありません! ので

冷静になって ぜひ全国の自治体に受け入れてただきたくお願いしたいものです。




そして国は 1950年代にビキニ環礁で行われていた水爆実験が日本列島に与えた放射能の影響を公にし

どれほどの線量でその当時の方々がこれだけ元気に生きてます、ということを教えて欲しいと願います。

過去のデータがあるなら役に立てて欲しい。

そのころ日本は戦後の敗戦国で勝利国に言われるまま表に出せなかったとはいえ

いま本当に必要な情報ではないでしょうか。



2012,3,11

人はどこで何を思っていたのでしょう・・・