あなたのお話を聴かせてください。
人にはなかなか話せない「いのちのこと」「死ぬこと」「生きること」など、胸の内をお聞かせください。
必要であれば、私の経験や想い、死生観も尋ねてください。
私にできることは、「いのち」を感じ、あなたの大切な方のいのちへ愛の光を当ててもらうこと。
自分や大切な方の「死」を乗り越えるのではなく、安らぎの源を見つけましょう。
【2月の個別セッションの募集は終了しました】
【3月セッション可能日時】
18日(月) ・10時~ ・13時~ ・15時~ ・20時~
26日(火) ・10時~ ・13時~ ・15時~ ・20時~
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その時、病棟の壁一面にびっしりと貼られた詩が、廊下を歩く私の目に映り込んできた。
それは腫瘍科病棟内にある院内学級で行われた詩を書く授業の中で子どもたちが書いたものだった。
歩みを止め、ひとつずつ詩を読みながら「こどもたちは純粋に病気と向き合っているんだな・・・」とか「私はこの子たちのようには強くなれない・・・」と思っていると、子どもたちの書いた詩の中に混ざって、たった一編だけ保護者が書いた詩があった。
(「電池が切れるまで」すずらんの会編 角川書店より抜粋・記事の下にこちらの本を紹介してあります)
様々な立場の親の姿が描かれているこの詩を、私は一語一句見逃さないように読みながら「自分の居場所」を探した。
「五体満足で育っている子どもをもつと———」
―――違う
「切って縫ってからだにきずをもつ子どもをもつと———」
―――違う
「一生ハンディの残る子どもをもつと———」
―――これも違う
そして、次の瞬間・・・
「余命宣告をされたり子どもの死んでしまった親は―――」
―――私だ・・・
【余命宣告をされたり子どもの死んでしまった親は、ハンディが残ってでも生きている子どもをもつ親をうらやましく思う】
このとき一瞬にして、以前医師から聴いた言葉が蘇った。
―――「奇跡的に渓太郎くんが生きられたとしても、この時期に大量の抗がん剤を使っているので、重い障害が残る可能性が高いです」
私はこの言葉を聞いて以来ずっと、同じ病棟にいたハンディを持つ子のお母さんがうらやましくて仕方がなかった。
大きく成長した我が子を抱っこをしている姿も、髪をとかしたり、顔を拭いたり、食事を運んであげている姿も・・・。
このお母さんが書いた詩の通り、私は「私だってきっと、あのお母さんのようになれる・・・」と、ハンディのある子のお母さんをうらやんでいたのだ。
そのお母さんは私にとって、叶えたい「未来の自分像」だった。
ネガティブだと思っていたうらやましさやねたましさの奥には、伸ばしてもなかなか手の届かない「憧れ」が潜んでいた。
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