今朝、家の周りをお散歩していると、広々とした田んぼに目が向いた途端に懐かしい思い出が浮かびあがった。
「小学生の頃、お正月には田んぼで凧あげをしたなぁ・・・」
―――「お兄ちゃん、凧あげしよう!」
「うん。いいよ!」
年末に小学校で作った凧を抱えて、ふたりで一斉に田んぼに向かって走り出す。
「私が先に飛ばすね!」
「わかった!」
サポート役の兄が凧を持った両腕を高く掲げると、私は凧糸が巻かれた糸巻を強く握り田んぼの中を一気に駆け出す。
どんどんと離れていく兄との距離に合わせて、糸巻からはグルグルと凧糸が流れだし、しばらくすると「そろそろ舞い上がりたい!」と要求するかのように凧がバタバタと体を揺らす。
それを察知した私が、遠くに立つ兄に向かって大声で叫ぶ。
「お兄ちゃ~ん!放していいよ!!」。
「はいよ!放すよ~!」。
兄の手から解放された凧はスーッと一気に舞い上がり、それと同時に私が持つ糸巻に強力なチカラが加わる。
「うわ~!」
身体ごと上空に引っ張り上げられてしまいそうな勢いに、私は腕をグイッと曲げて抵抗する。
さらに負けじと、ピンと張っている糸をつまんでグイグイと手前に引っ張ったり、放したりしながら凧を操作する。
風に乗ってグングンと上昇していく凧を見ながら「すごいなぁ。あんなに高い所まで行っちゃった」と思っている私は、もはや自分が操作していることなど頭の中から消え去って、「いいなぁ。気持ちいいだろうなぁ」「私も行ってみたいなぁ」と、まるで友人が空を飛んでいるのを見ているような気分になった。
ところが、凧あげもいい時ばかりではない。
兄の手から解放された凧が上空めがけてあがったと思ったら、突然、頭を下にして真っ逆さまに落ちてくることも度々なのだ。
そんな時は、凧も自分もみじめなものだ。
雪と泥でぐちゃぐちゃになった田んぼに頭から突き刺さった凧は、さっきまで真っ白だった障子紙の胴体は泥だらけとなり、それを救出した私の手袋も同じく泥だらけ。
「もう!なんでちゃんと飛ばないの!」
「これじゃ、もう飛ばせないよ」
理不尽に凧を叱る私・・・。
今思えば、子どもの頃はどんな物とも心を通わすことができたのだ。
お茶碗を落として割った時に言った「ごめんなさい」だって、今思えば、母親に向けて謝ってなどいなかった。
私が泣きたい気持ちで謝ったのは、お茶碗がかわいそうだったからだ。
不格好なウサギのぬいぐるみを特にかわいがっていたのも、家族みんながもう一方のぬいぐるみだけを「かわいいね」と褒めたからだ。
私は褒めてもらえないウサギのぬいぐるみを慰めるように「みーちゃん(私)は、ウサちゃんが一番好き」と言っていたのを今でも覚えている。
(ウサちゃんは今でも大切にしている。鼻がもげてボロボロだけど・・・)
子どもはどんな物とも心通わせ会話ができる、全知全能の神なのだ。
それが大人になるにつれて、どれだけのものを失ってきたのだろうか・・・。
誰かが言っていた「オトナのものさしで、子どもを計ってはいけない」と言う言葉に深く納得する。
だって、計れるはずがない。
相手は全知全能なのだから・・・
誰もがみんな子どもだった。
誰もがみんな全知全能の神だったのですね
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