そのとき突然、渓太郎に「ただ生きてほしい」と願う自分と、「ただ生きようとしている」がん細胞が重なった。
「がん細胞は渓太郎を痛めつけたいわけじゃなくて、ただ生きたいだけなんだ・・・」
そう思えたら、抗がん剤によって叩きつけらながらも必死に増殖するがん細胞を哀れにさえ思えてきた。
けれど「渓太郎に生きてほしい」という願いは変わらない。それは、がんの死滅を願うことでもある。
だからと言って、がんの増殖を許すことは、渓太郎の死に直結する。
これは「複雑な心境」というものではなくて、むしろ、とてもシンプルで、「渓太郎が生きるのか」「がん細胞が生きるのか」だと思っていたのだけれど、心をユラユラとシーソーのように、あっちに傾かせたりこっちに傾かせたりしているうちにハッと気が付いた。
―――ちがう。これは「渓太郎が生きるのか」それとも「両者とも死ぬのか」だ。
渓太郎の死は、その体の中で息づく(・・・とは言いたくないのだけれど、「巣食う」とも言いたくない・・・)がん細胞の死でもある。
私はその時、やっと目指すべき心の中心点が見つかったような気がして、渓太郎のお腹に手を当てながら、見えないがん細胞に向かって交渉をした。
「渓太郎が死んだら、あなたたちも生きられないの。
だから・・・
ここにいてもいいから、おとなしくしていて・・・」
この答えは、渓太郎に完治の見込みがないという筋道の中で到達した答えであることは間違いないのだけれど、それでもこの時の私にとって「がん細胞」はもう敵ではなく、どうしようもない憎たらしさを伴った同志のような存在だった。
我が子という血縁を超え、人間という種を超え、さらには哺乳類とか生物という種を超えて、細胞と同じ景色を見ながらいのちの交渉をしたのは、とても不思議な時間だった。
日常におけるコミュニケーションの中で「相手の立場に立つ」ことは大切なことだとは言え、簡単ではない。
けれど、あの時の私は確かに、がん細胞の視点から世界を見ていたような気がするのだ。
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