「味と幸せの基準値は、低ければ低い方がいいらしい」
連休を利用して久しぶりに帰省した息子が、昼食に作ったクリームシチューを前にそう言った。
(へ?まずそうだとでも言いたいのか?)
一瞬、ピクッと反応したのだけれど、どうやらそういう意味じゃないらしい。
「実家に帰ると舌が肥えてしまうから、自分の作る食事がまずく感じる」とお世辞(いや、本音だと思いたい)が言いたかったようだ。
―――渓太郎と闘病していた時、私の幸せの基準値はどんどんと低下した。
入院したばかりの時は、「腎臓が片方なくても(摘出したため)、健康になってくれればそれでいい。それだけで幸せ」と思っていたのだけれど、治療の効果は一向に現れず、がんは転移を繰り返した。
すると・・・
それと同時に、私の幸せの基準値も低い方へと移動した。
「どんな状態でもいいから、生きていてくれればお母さんは幸せだよ」
しかし、渓太郎に残された時間はどんどんと削られていき、もう施す治療がないとわかった時。
私の幸せの基準値は、また低い方へと移動した。
「ありがとう。ありがとう。生きてくれていてありがとう」と、渓太郎の胸の上に手を乗せて、小さな鼓動の一回一回に感謝した。
そして、とうとうその日がやってきた。
すると私の幸せの基準値は、もう移動することのない底辺に到達した。
「渓ちゃん、お母さんのところに来てくれてありがとう。もう、それだけで十分」
そのとき、日常のすべてがギフトなのだと思えた。
太陽が明るく照らしてくれることも、私の手が上手にコップを掴めることも、右足と左足が交互に動いて歩き回れることも、意識しなくても血液が体中を巡ってくれていることも・・・
これまでとは、見える世界が一変した。
―――悲しみが幸せの基準値を下げてくれるのだとしたら、悲しみは決して悪者ではないだろう。
悲しみが深ければ深いほど、感じられる幸せが増えるのだから・・・。
(病棟のお風呂場でパチリ♪)
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