【前置き】
タイトルにある「あさま山荘事件」とは、1972年2月19日から28日にかけて軽井沢にある浅間山荘にて連合赤軍の残党が人質とって立てこもり、死者3名、負傷者27名を出した事件。警察が包囲する中での人質事件としては日本最長。
私の父は、このとき現場に向かった警察官でした。
事件については、これまで何度もテレビで取り上げられているので知っている人も多いと思いますが、
この事件の陰で家族にどのようなことが起きていたのかということはあまり語られていません。
そのため、いつかその時の家族の姿をどこかに残したいと思ってきました。
すべてを書き残すことはできませんが、「いのちの現場」だと感じたエピソードをまずはひとつ。
長編になりますが、お付き合いいただけましたら幸いです。
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―――これはもう51年も前の話。
当時の私の家族は、佐久署に勤務する父と専業主婦の母、3歳の兄と1歳の私の4人家族だった。
母はその時代にはよくいるタイプで、専門学校卒業と同時に父と結婚することが決まっていたため、学校に通いながら花嫁修業に入ったような人。
今どきは「良妻賢母」という言葉を使うのははばかれるのだけれど、私から見た母はまさにそのような感じの人で、夕飯づくりが趣味であるかのように毎日何時間も台所に立ち、いつも豊富なおかずを作って父の帰りを待った。
そんなある日。
あさま山荘事件が発生。
現場行きを志願した父は、警察署からそのまま事件現場に直行したのだけれど、その時なんと、佐久署長を乗せた車の運転手を任された。
山荘に立てこもる犯人たちが、猟銃やライフル、けん銃の銃口を外に向け、容赦なく発砲しているなか、標的中の標的ともいえる署長を乗せた車をなんとか山荘付近まで到着させるのが、父が命じられた最初の任務。
―――運転手を任された理由を、父は今こう懐かしむ。
「あの頃は、まともな冬タイヤなんてなかったから、どこもかしこもツルンツルンさあ。でも俺は雪道に慣れていたんだよ。大町の雪ん中をよく走っていたからなぁ(母の実家が雪国 大町市)」と。―――
雪道の運転に慣れていた父は、佐久署長と署員数名を乗せた車をなんとか無事に現場に到着させることができた。
そこから父は現場にこもったまま、何日間も家に帰ることはなかった。
激しい緊張状態で現場がシーンと静まりかえる中、目の前で人が撃たれたかと思えばまた銃声が鳴り、一晩中その音が止まることはなかったという。
―――ここからは、事件から10年近くが過ぎたころ。当時私が、小学3,4年生くらいの時のことです。
私たち家族は、当時、家族ぐるみで仲の良かったAさんご一家(父親は警察官)と一緒に家族旅行に出かけました。
ワイワイしながらバス移動をしている時、私は、Aさんのお父さんの片耳がないことに気が付いたのです。
(え?)と思い、子どもながらにも直視するのは失礼だと思った私は、横目で何度も確認しました。
しかし、いくら見てもやはり、耳の上の部分だけがわずか残っている状態で、そのほとんどを失っていました。
驚きを抑えきれなかった私は、母の耳元に口を近づけて、こっそりと尋ねました。
「ねえ、お母さん。Aさんちのお父さん、耳、どうしたの?」
すると母は「あー。Aさんのお父さんの耳ね」と普通の声量で言ったあと、平然とした顔でこう続けたのです。
「仕事中にピストルで撃たれたんだよ。」
(ちょっとお母さん、やめてよ!!)
耳がない理由にびっくりする前に、母の声量に慌てふためきました。
警察官家族同士ならではなのでしょうが、私がこっそりと尋ねた気づかいはどこへやら・・・笑
私はそのあと、なにも尋ねることはありませんでしたが、母が最後に「勲章だよ」と言っていたのを覚えています。
母の言った「仕事中」というのが、「あさま山荘事件」だと知ったのは大人になってからのことでした。―――
⇒「あさま山荘事件の陰で②」に続く
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