【再掲】「祈りを合わせる」 誤解?について (私のリブログ) | HER2タイプ乳癌ステージ3C 経過観察中シングルマザー

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HER2タイプ乳癌のこと、治療のことなどを書き残しておこうと思います。温かい目で見守っていただければ、幸いです。アメンバー申請、コメント、メッセージ、リブログについては、「はじめに(私のスタンス)」テーマ内の記事をご一読下さい。

※5ch掲示板の愚弄、誹謗中傷者へ
  事実と異なる(事実であっても)社会的地位を
  低下させる書き込みは『名誉毀損』です。
  法的にも。(5/4  19:30)
抹茶色追加(5/4  17:20)

ご訪問ありがとうございます。

私がリブログの目的の1つとしていた、
           「いいね」について』  を先に
          お読みいただければ幸いです。

「祈りを合わせる」
ということも、
誤解していらっしゃる方々がいらっしゃる
ようですので、
書いておきます。

私はキリスト教徒ですが、
宗教を押し付ける気もなく、
キリスト教徒にとっては、
祈りって、自分のためだけでなく、
他者を思いやる、他者のことを、
皆のことを、祈るものなのです。
    (のはずです、と付け加えましょうか、
     私は神父でも牧師でも宣教者でも
     ありませんから。)

私は、30歳の頃、聖書に救われ、
聖書の神を信仰することになりましたが、
日本人であり、
その頃は、教会に行ったこともなく、
一人で自分のために祈ってたかな。

そういえば、
教会(プロテスタント)に行ってみて、
初めて行った時には、
「祈りを合わせる」というのが、
不思議な感覚ではありました。
   ※この記事にまで5chの中傷を書かれたので
      一応書いておきます。
     初めて行ったのは、聖書に救われて
      信仰を持つ前に、友人に誘われて行った
      米軍基地の中の教会。(プロテスタント)
      日本の教会に初めて行ったのは、 娘が小さな頃。
      日本基督教団に属する教会。
      娘と一緒に礼拝に毎週通い(今は離れています)、
      受洗もしています。
      私にとっての神からの洗礼は、30歳頃の挫折時
      だと思って(信じて)います。
      聖書に限らず、家に眠っていた書物を読んでいた、
      その中に聖書があった。
      旧新約聖書は2回は通読しています。
      最初は歴史書(古代イスラエル史、大学時代の
      一般教養のレポートを書くために 読んだ書籍)
      と合わせて。
      新約のヨハネによる福音書で、スーッと自責の念
        (仕事に失敗して、
         最初は偽自尊心ってのかな、
         空プライドってのかな、が傷つき、
         その後、責任が果たせなかった 
             ~責任感は強いので
         周りに迷惑をかけた、
         それまでの諸々の事が自己中心だったなぁ、
         っていう、自責の念)
      仕事を辞めてキュウキュウと何ヵ月も苦しかった
         (身体にまで出る精神的な病だったかな、
           振り返れば。精神科には行ってなかったけど)
      のが、スーッっと楽になった、
      その時が神からの洗礼だと私は思っています、
      だから、牧師からの洗礼は、
      人間社会の教会という組織の中で、
      キリスト者として生きるという意味で受洗します、
      ということも牧師にきちんと伝えて、
      教会での洗礼も受けていますよ。
      因みに、娘は、キリスト教ベースの保育園で
      お世話になりましたし、私と共に、「こどもの教会」
      普通の「主日礼拝」に出ていましたので、
      教会で私が受洗する時、「自分も自分も~」と
      自分の意思で洗礼を希望したのもあり、
      小学校に上がったところで、幼児洗礼でなく、
      通常の洗礼を受けています。
      「こどもの教会」(礼拝形式をとっていました)で
      オルガニスト(伴奏)の奉仕をさせていただいた
      こともありました。
      幼児洗礼の場合は、信仰告白が必要ですが、
      聖餐にあずかることができる、教会社会的にも
      プロテスタントのキリスト教徒ではあります。
      
勿論、自分のためにも祈りますが、
他者のため、皆のために祈るのが、
祈りであり、
祈りを合わせることが大きな力になる、
っていうような説明が
分かりやすいでしょうか。

私は、そうしたことが、普通の感覚に
なってしまっているので、
「祈りを合わせる」と書いていますが、
  (誤解を招かないように、
   宗教、無宗教を問わず、
   皆で応援しましょうの意味、とも
   補記してきたつもりです、
   補記し忘れていたら、すみません)

ブログを読んで、今自分に出来ることって、
ブログを読んで、「いいね!」をするとか、
ただ、思いやりの心を持って、
心の中で応援するとか、

そういう意味合いで、
リブログしてきました。

私は無宗教、
でも、節目節目で神社・仏閣に祈る、
日本の田舎の習慣の中で育っていますから、

厳密なキリスト教とは少し違うかな、
神社もお寺も、大いなる神が形を変えて
その風土風土に合わせて現れているのだ
そう思って、習慣に合わせて、
神社、仏閣でも祈っています。

 (教会も、神社も、仏閣も、カタチな
  だけなので。
  究極のところ、求めているのは、大切な
  ところは、共通なのだと私は思いますので。
   排他的な宗教家には怒られるかも
   しれませんが)

私はどのような宗教でも、怪しい危険な
ものでなければ否定はしませんし、
他者に押し付けようとしているわけでも
ありません。

宗教、祈りって、
心の、ものすごくベーシックな部分
にあることを、

掲示板等で愚弄、誹謗中傷した方々は、

に関して書いている者のブログを
愚弄、誹謗中傷するのと同様、

本当に、やってはならない、
相手を傷つける『行為』だと、
ご理解いただきたいと、

そういう『行為』がなくなることを、
1キリスト者として、お祈りいたします。

※スピリチュアル、セラピスト系の
  「いいね」はお断りいたします。
  (私は、ベースの異なる、スピリチュアル、
   セラピストを必要としていません。
   信仰がありますから。
   「いいね」だけだと、押し売りされている
    ように、私は感じます。
   コメント欄は開けていますので、
   記事への共感は、
   コメントでお願いいたします。)

※私が読者登録している方々のブログは
   宗教などが違えど、いいなぁ、と思って
   拝読しておりますので、その方々の
   いいね、は、嬉しく感じております。