昨日の夕食は鍋焼きうどんで済ませました。また,デザートはカットスイカでした。

 鍋焼きうどんは肉,エビ天,梅焼きを入れて煮込みます。まだ,この時期には暑いのですが美味しいです。

 

 昨夜は午前0半前に精神安定剤と軽い睡眠薬の服用をしてMBLのドジャースの試合(録画)を観ていたら3時過ぎになったのでイライラ防止薬も服用して消灯しました。そして,寝付きはマアマア良くて途中覚醒も記憶が無く8時頃に目覚めました。それからは寝付けずに何度も目を覚まし11時過ぎに起床しました。


 マートウオッチでの睡眠の質の評価は”普通”であり,睡眠時間は6時間31分となっていました。


 起床後の血圧は139-73mHgとやや高く,体重は前日より-1.0kg67.4kgでした。

 妻が亡くなって10年近くなりますが,これまで妻が可哀想だった,愛おしいとばかり書いてきましたが,妻は酷い浪費家だったのです。
 妻はアルコール依存症で毎晩晩酌をして酔っぱらって寝ており,その結果すい臓ガンになり他界したと思っています。

 又妻は買い物依存症見栄っ張りで金遣いが荒く,2人生活なのに生活費は40万円/月が必要となり,60歳を過ぎて積立金・積み立て年金,投資信託などで66歳で亡くなるまでに500万円近い買い物をしていました。

 これは妻の死後に判ったことですが。
 また,片づけるのが苦手居間や妻の部屋ゴミ屋敷状態にしてくれました。遊びが好きで,片づける暇もなかったのでしょう。

 居間です。ソファーが隠れて見えません。

 居間です。これを一人で片付けました。

 妻の部屋です。高価な衣類が沢山ぶら下がっており,洋服箪笥の中には値札がついた高級衣類もぶら下がっていました。買うのが楽しみだったのでしょう。


 これらは精神的な病であり,私がきつく指導して直さなかったのも問題だと思っています。この様な性格の妻が現在も健在であれば,私の生活設計は破綻していたでしょう。
 以下に妻が亡くなってから,私の終活をかねて遺品整理をした時の記録があります。私は精神的に崩壊寸前でした。

 2015年5月17日妻の四十九日までに,ゴミ屋敷状態だった居間と妻の部屋を片付けたかったのです。さもないと,弔問客を自宅に呼べないからです。

 4月19日には居間にあるソフアーの上の半分とステレオの上の整理(処理)は出来たので,妻の部屋の片付けようと入りました。
 しかし,その部屋は居間以上のゴミ屋敷状態だったのと妻の匂いが残っているので,辛くて私には一人で片付けることが出来なくなり叔母さんに電話をして初めて片付けの援助をお願いしました。以下は2015年4月21日の”気まぐれ日記”の記述です。
 【2015年4月21日 19日に私が我が家の片付けの限界が来たので,叔母さんに手助けを頼んだら昼から来てもらえることになり,駅まで迎えに行きました。私は,今までは自分自身で何とかゴミを片付けたのですが,食卓の下や家内の部屋の片づけは手に負えません。
 先ず,叔母さんは大きな食卓の下に隠されていた段ボールの中の食品の選別を行なってもらい,期限切れでない物は持って帰ってくれることになりました。
 食品はシチューや乾物,麺類,缶詰等が多量に仕舞われていたのですが,私の食べられない物(タンパク,塩分)が多く10年近く前から仕舞われていたものも入っていました。
 家内は,自分が購入してきたものを忘れてしまっていたのでしょうか?また,食卓の下から多くの調理器具(新品であり何で買うて来たのか。)が隠されており勿体ない。
 また,瓶類(大きな梅干の瓶:3個,梅酒の瓶2本,未開封のたまり醤油の瓶:2本,焼酎の一升瓶:1本,その他調味料の瓶等)が出てきましたが,中身を捨てないと瓶として廃棄できません。
 しかし,余りに古すぎて蓋がこびり付いており,手で開けるのが困難です。蓋を切ったり,金づちで割ったりで開けたのですが,中身が腐っているので臭くてたまりません
 叔母さんが,何とか食卓や椅子の下を片付けてくれたので,普通の家?に戻りました。

 次は,叔母さんに家内の部屋の片づけを依頼しました。肌着や古着は捨てて,高価と思われる上着類(特にフラダンスの衣装)は形見分けで貰ってもらうので,叔母さんに選別を依頼したのです。
 叔母さんには「我が家の居間や,特に家内の部屋は”ゴミ箱状態”で私には片付けることができない。」としばしば,電話で泣き言を言っていたのです。
 叔母さんは,家内の部屋に入るや否や「聞きしに勝る凄さやな。」と驚きの言葉を発し,片付け始めました。
 その部屋の書類類はあらまし私が片付けていたのですが,叔母さんから「ベッドの下から,こんなん出て来たで。」と紙袋を出してくれます。
 その袋の中には,これまでと同じ保存する意味のない古い領収書や詩吟,フラダンス,ハワイ関係の資料・本が入っており,個人情報が入っているので内容を確認しながら,必要に応じてシュレッダーを通します。(片付けを始めて,これが2台目のシュレッダーですが使用頻度が高いので壊れそうです。)
 そのような袋が5袋も出てきて,私は腹が立って来ました。何で,こんなに不要なものを沢山貯めたんやと。

 叔母さんが衣類の整理を始めると,「ようこんなに高価な肌着やズボン,服を沢山買うたな。」,「百万円台では買われへんで。1千万円は超えていると思うわ。」,「捨てるには勿体ないけど,どうする?」と私に聞くので,「あんまり考えずにゴミ袋に入れて。」とお願いします。
 また,叔母さんから「**さん(家内)は高級な服を着て,豪快に遊びまわっていたようやな。」,「四十九日までに祭壇にお参りに来たいと言う友達も,お金持ちが多いんやろ。」,「なんぼ片付けても,こんな家に来たら吃驚するやろな。」と言われて,私は初めて”みすぼらしい我が家”に気が付きました。

 この家は,普通のサラリーマンであった私が自分自身でお金を貯めて,借金をしながら40年前に精一杯で購入したマンションだったのです。11階建てですが,金額の安い3階で間取りも5LDK~3LDKと有ったのですが,一番安い3LDKしか買えなかったのです。よくこの日記で”分相応”と書いていますが,我が家は私にとって分相応だったのです。
 一方,家内は我が家の経済事情も顧みず外面が良い”見栄張り”だったのです。従って,彼女の友人を惨めな自宅に呼ぶことなどできず,段々ゴミ屋敷状態に陥ったのですね。

 叔母さんから「**さんは66歳で亡くなったけど,これまで好きなようにやってきたので本望やったやろ。」,「普通の家庭なら,このようなことは出来へんやろな。」,「それにしても,これだけの量を,あんたが一人で片付けるのは無理や。」,「これからも,何回か通たるわ。」,「今日は,簡単に廃棄しても良い衣類を選別して,後日考え直すわ。」と言いますが,今日片付けられたのはベッドの下やベッド周りの一部です。
 私はゴミ袋に入れられる家内の衣類(購入した時の袋に入れられたままの新品もある。)を見て,”何でこれほど衣類を買うたんや。”,”衝動買い病”と今まで言っていましたが,叔母さんには「家内は気違いや!」と言ってはならない差別用語を言ってしまいました。(これまでの日記では,この言葉は使用していません。)

 サラリーマン時代の私は仕事中毒で家計は家内に任していました。しかし,私が50歳近くになると,万一の事態(私が亡くなる)に備えて,私名義の銀行口座が凍結されても良いように葬儀代と一時の生活資金として,家内名義で500万円の預金をしておきました。それ以外にも,家内は60歳から貰える年金保険をしていたようでした。
 56歳で私が早期退社した時に我が家の預金を調べてみると,余りの少なさに唖然としました。
 私が必死に働いている間にも,2年に1回はハワイに行き,その他の日も好きな買い物をして遊びまわっていたので,預金が出来るわけがありません
 それ以降,家内に家計を任していては破産すると節約させて私名義の銀行口座の管理をしていたのですが,二人家族で40万円以上/月のお金が必要だったのです。
 しがない年金生活に入ってからは”爪に火を点す思い”で節約生活をして,EOS7DMark(19万円)を購入する際も非常に悩んだのですが,家内は気にすることなくハワイへ行ったり数十万円のコートを購入したりしていました。
 そのお金は,家内が60歳となると満期となった年金保険(300万円以上)や非常用に家内名義で預金していたお金まで使い込んでおり,その他年金も60万円以上/年が私の判らないものでした。
 こうなると,”衝動買い病や買い物中毒”を通り越して気違いだとしか思えなくなったのです。私の精神状態は完全に崩壊しました。

 今日は2人で片付けを行ったので,沢山のゴミ袋が出来ました。
 18時過ぎに叔母さんが帰られるので,私はその前からゴミ袋を台車に載せてゴミ収集場まで運びますが,瓶類や期限切れの食料品類の袋は重くて,益々腹だ立ちます。何で,私が毎日ゴミ運びをせねばならないのかと
 2回目のゴミ運びを行いましたが,マンション内の道路の中央付近に高級外車を止めておばはん二人が喋っているので,台車を押している私は”邪魔やな!”と切れかけていました。
 3回目のゴミ捨ても,未だゴミ袋は多くあるので比較的軽いゴミ袋2個を叔母さんに持ってもらい収集所に向かうと,先ほどの車が未だ止まっており,とうとう私は切れて車の側に行くと「阿保か!こんな場所に車を止めるな!」,「向こうに行け!」と大声で怒鳴ると,車は逃げて行きました。
 気分がむかむかすると,見知らぬ他人を襲う気違いと精神状態が一緒になっていた思い,もしその車が動かなかったら私は何をしていたか判らない危険な精神状態となっていました。多分,これ見よがしに高級外車を道の真ん中に止めて楽しそうに喋っているおばはんたちに,大きな妬みを感じていたからでしょう。

 叔母さんと4回目のゴミ捨てを行い,精神異常が頂点に達しているので眩暈まで始まり部屋に入ると祭壇の遺影の家内を見て「こいつが,こんな家にしてまいよってん。」,「祭壇みたいなん,捨ててもたろか。」と叔母さんに言うと,「それはあかんで。」と止められました。
 「そしたら,この祭壇を家内の部屋に移動さそうか。」,「私の部屋にあるから腹が立つねん。」というと,叔母さんは「それは可哀想やから止めとき。」,「**さんも,あの世で申し訳ないと思っているで。」と言います。
 「それなら,帰って来て片付けろ!」と家内の遺影に怒鳴ります。そして,誰のせいで私はこれほど体重が減ってしまったのかと。
 私も気違いになったので精神安定剤を飲んで落ち着かせる以外方法はありませんでした。精神安定剤が常備薬となってしまいました。

 叔母さんが帰られて暫くは精神状態が安定せず布団に横になったままです。19時過ぎにやっと起床が出来たので,家内の祭壇にご飯と水をお供えして「食べてや。」と言いましたが,家内は何にも言いません。私の夕食は,絶対的な非常食であるインスタントカレーで済ませました。

 私が家内の部屋を片付けられない一番大きな理由は,その部屋に家内の香りが残っており,衣類は着ていた家内の姿が思い出されるからなのです。怒ったり,落ち込んで悲しくなったり私は”気違い”になりました。禁止用語の使用は,今日を最後としたいが・・】

妻が亡くなって20日程で自宅を片付けようとする,私の精神状態が異常だったのでしょうネ。亡くなって数カ月以上経過してから書く回顧録は故人を美化することが多いのですが,特異な例かもしれませんが我が家の遺品整理は以上のようでした。結局遺品整理や私の終活を済ませて,自宅のリホームが完了したのは2015年12月半ばとなりました。途中で休憩をしながらも長い遺品整理となりました。

 しかし,好き勝手に,人生を謳歌して,私を残して逝ってしまった妻は”悪妻”ではありませんでした。私の希望は何でも聞いてくれ,私を気遣いながら亡くなっていったのですから。

 今日も14:25の迎車を受けてデイケアに出掛けました。そして,体調は余り良くなかったのですがエアロバイク2種各10分,足蹴り・脚上げ各3分,平行棒横歩きを100%ぐらいの力で行いました。そして,少しへばり汗が出てきました。
 そして,今日も男性理学療法士だったので,ここ最近酷い腰痛を中心に脚の頼りなさも改善するためのマッサージを行って貰いましたが,太股の筋肉が硬くなっていて非常に痛かった。このマッサージで脚が少ししっかりした気がしましたが,直ぐに元に戻りました。

 デイケアから帰宅後に整形外科医院に出掛けました。医院ではいつもと同じで膝へのヒアルロンサン注射,腰へのトリガー注射を行い,腰の牽引とマイクロ波で腰を温めて帰宅しました。この通院は電動三輪自転車がなければ絶対に不可能になりました。
 今日も意義のない短い1日でした。