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最近あまり新聞を読んでおらず、テレビも見ないので少し情報が遅れたが、相模原の事件について今日色々と情報収集した。
戦後最悪規模の大量殺人、そして社会的弱者を狙った凶悪犯罪だという報道を受けて、改めて《社会的弱者》について私たちは考えなければならないなぁと思った。
今回の事件で最も危機感を覚えたのは、障害者のみを標的にした犯罪だということ。それが卑劣きわまりなく、あるまじき行為だというのは紛れもないことなんだけど、個人的に思うのは、今回の犯人と同じとまではいかずとも、遠からぬ考えを持っている人は少なくないんじゃないかなとも思う。もちろん、実際にこのような惨殺行為を実行しようと考えている人は限りなく少ないとは思うけれど。
なぜそう思うのかというと、それは"出生前検査"(妊娠中に胎児に障害があるかどうかを、羊水や血液を通して調べる検査)で、陽性が出た人の9割が人工中絶を選択しているという事実を知ったからだ。(日本だけでなく、欧米諸国でも同じような結果)
もちろん、既に人格を持った障害者を殺すことと、障害者かもしれない胎児を堕胎することは同じではない。だけれども、このふたつのことに共通するのは"障害者の存在の非容認"ということだ。
私は妊娠中に離婚を前提とした別居をし、父親不在で育児をする決心をした。その時、自分の両親や相手の家族に『父親がいないのは可哀想だから、今回は諦めなさい』と言われた。私はそれを聞いて、この人たちはなんて頭の固い、偏見に満ちた、器の小さい人なんだろうと思った。"可哀想"かどうかは、"幸せ"かどうかは、他人が決めることではない。生まれてくる子供が自分で決めて判断することだ。そして、親である私は、そんな偏見をぶっ飛ばして、我が子を"幸せ"にしてあげるんだ!と心に誓った。
障害者に対する考え方も、私はこれに通ずるものがあると思う。
障害者は、世界の歴史を見ても、ずっと偏見にさらされ続けてきた。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』に詳しく書いてあるが、かつてのヨーロッパでは障害者=狂人として扱われ、隔離され、差別され、もはや"人"として扱われてこなかった。日本では主に、家の中に閉じ込めて、世間から隔離し、存在をひた隠しにしてきた。
この歴史を鑑みれば、障害者も人権を手に入れ、最近では少しずつ社会に進出できてきているので、それに関してはいい流れだと思う。
ただ、人々の"偏見"に関してはまだそんなに進歩していないのではないか?そして、やっぱり、あえてこの言い方をするけれど"普通とは違う"存在であるがゆえ、"偏見"を無くすことは不可能だと思う(悪い意味のみでの偏見だけでなく)。
ただ、特に先天的な障害は、人類の繁殖の過程で一定割合必ず出てくるものなんだから、"排除"(中絶も含め)を考えるのではなく、"支援"を、行政だけでなく、親類を始め近隣の人々や地域コミュニティー全体で考えなければならない。そういう相互扶助マインドを広げていかないと、今回のような事件はまた起きてしまうのではないか。セキュリティ云々も大事だけれど、"防ぐ"のではなくて、その根本に向き合わなければならない段階なんだな、人類が。というのが私の意見です。
障害者の介助やケアはとても大変だと思うし、家族ならまだしも、報酬も出ないのにそんな面倒ごとに手を出したくない、と考える人がまだ多いんじゃないかなぁ。でも、人類の存続(というといささか大袈裟に聞こえるが)を考えると、そうやって他人を切り捨てることは、イコール自分がその立場になったら切り捨てられることであって、そうすると本来助け合えば生き残れるはずが、助け合うことができないがゆえ、そういった自分だけではどうしようもない窮地に立たされた時には倒れるしかなくなってしまう。
どうすれば"助け合い"を実現できるか、というところを行政も突き詰めなければならないし、私たちも方法を探らないといけない。これは、老人介護や保育の問題にもつながっていくと思う。
ただ、エコな人たち(雑ですみません)がよく言う"昔のような"共同体に"立ち返る"というのが得策だとは私は思いません。もちろん、かつての助け合い精神から学ぶことも見習うべきこともあると思う。ただ、それを模倣したところで、今の世の中で機能するかと言われればNOだと思う。昔と今では、私たちをとりまく環境(自然環境も、社会的環境も、地域の構成も、なにもかも)が変わりすぎている。寄り合いみたいなことをしようと思っても、生活時間がバラバラな人たちが寄り合うのは無理がある。だからこそ、ITやらIOTやらを助け合い助長に活かすなり、雑多で捉えどころのないコミュニティーだからこそできる共同体のあり方みたいなものを、あたらしく"構築"していかなければならない。監視とか、警備という対症療法的な方向ではなく、ね。
そもそも、国民国家というのは弱者でも生きていかれるようにする役割があるはず。弱者を排除したり、自己責任の一言で片付けたりするのではなく、弱者も強者も、それぞれに幸せを感じるにはどうすべきなのか。自分の差し伸べた手で、社会的弱者が幸せになってくれたら自分も嬉しいと思う、これは子育てをしていて強く思うことだ。
赤ちゃんは社会的にみたら最弱の存在。もちろん、その先には"成長"を見据えてのことだけれど、赤ちゃんのお世話をして笑ってくれたらすごく嬉しい。赤ちゃんが喜ぶと幸せな気持ちになる。そういう感覚を、社会的弱者全体に対して抱けるようにならなければなぁと、自戒を込めて強く思った。
昼間は仕事&空き時間と通勤は(趣味の)読書。そして夜、家事を済ませて娘を寝かしつけた後は、個人的に学びたい分野の読書&勉強。25時就寝、6時起床。
新しい職場では、探求学習の指導に従事することになった。だから(だからでもないんだけど。単に今までのやりかたに飽きたというのも大きい)、新しい授業スタイルについてずーーーーーーっと考えている。授業の「開発」がしたい。
目下考えているのは、国語科に「実験」を導入する方法。教材や授業によっても方法は様々だけれども、とにかく色んな科目で「実験」をするのは面白いんじゃないかと思っている。ただ、次の職場はかなりの進学校なので、上司の理解はあれども実践できるかはかなり謎。まあでも大学入試改革もはじまったことだし、何とかゴリ押ししてみよう。
そのように、「新しいもの」を作ろうと考えていたら、「文化」(人間が作り出したシステムやモノやアイデア、デザインも含めての)って大きく二分できるような気がした。それが、「糸井重里v.s.秋元康」なわけです。糸井重里じゃなくて、下北系バンドマンとジャニーズ系アイドルでもなんでもいいんだけれども、要するに、「自分がいいと思ったものを広げていく文化」と「広く一般に受け入れられるように作られた文化」ということ。
新しい文化を創ろうと思ったときに、「儲け」を最優先して考えれば当然後者を意識して作り出していくことになる。イノベーションってのは、とにかく経済発展に必要不可欠なものであるし、「儲け」のことを考えるのもいいんだけど、やっぱり「儲け」を最優先に考えて作られたものって、一過性の魅力しかないし、儲けたお金同様、市場を席巻したとしてもすぐにぐるっとまわって中古市場へさようなら~という悲運にあると思う。
一方で、「自分がいいと思ったものを広げていく文化」の場合、即時的な利益はなくても、ジワジワと世の中を変えていったり、人の価値観を変えていったり、きちんと「意味」のあるものになると思う。もちろん、「自分がいいと思った」とはいえ、それが独りよがりな評価だったら価値はないし、そこは作り手がいかに他人を慮れるか、ということに尽きるのだけれども。(だから、自己中なひとには絶対にこういう文化を創ることはできない)
秋元康的文化って、すごく簡単な言葉で(むしろ言葉がわからなくても伝わるような)、言ってしまえばそれを理解するのに知性や知識を一切求めないように作られていて、だからこそ受け取る側は思考停止状態になっていると思う。理解するのに知性が不要なものは、それに触れている間中ずっと知性が不要だから、見てて聞いてて楽。そのうえ自分で「好み」を見つけられないような人にもなんとなーく、気づかぬうちに浸透していく。だからものすごい流行するし、経済効果もうまれるだろうし、盛り上がる。でも、付加価値は?と考えたとき、経済効果以外の付加価値なんてないと思う(何をもって付加価値というかによるけど、少なくとも私の考える付加価値はない)。
ちなみに、私の考える付加価値とは、一過性のものではない「個人的な感動」。ずーーーっと大事にとっておきたいと思えるかどうか(モノだろうが、アイデアだろうが、文章だろうが、システムだろうが)。役目を終えた後も、大事にしまっておきたくなるかどうか。世の中の価値観が変わっても、残るもの(つまりは汎用性ないし普遍性)。
超個人的にいうと、「脳みそくすぐる系」。
その点、糸井重里的な文化は、リスキーだけどちゃんと付加価値を生み出していると思う。きちんと考えられたアイデアだったりデザインだったりなので、息が長い。そしてちゃんと「生活」に入り込んでくるところがウマい。「わかりやすさ」という観点では優れたものではないけれど、そもそも私たちが生きていく過程で必要なのは、分かりやすく加工された情報を摂取することではなくて、情報という形になっていない情報を、どの位自分で理解して吸収するかということに尽きると思う。だから、「わかりやすいもの」には何の面白みも感じないし、付加価値がないと思う。
もちろん、世の中をまわしていくためには両方とも必要だし、「好き」か「嫌い」かは個人の好みによるし、まして「良い」「悪い」で議論することでもないんだけれども、もっと「付加価値」を生み出せるようになりたいな、というただそれだけです。
私の本能では、できることなら彼と一生一緒にいたい!!と思う。だけど、現実を見ると、そんな彼はパズドラ大好き、モンハン大好き、うちに遊びにきても隙あらばゲームやったりスマホいじったりする。そしてバカ(知識がない)。
基本的に馬鹿というか無知な人とは会話しててもつまんないし、魅力を感じないのだけれども、彼だけは別格。ホントうかうかしてるとあっという間に好きになっちゃいそう。これが「本能」なんだろうな。
昔つきあってた時もすごく幸せだったし、楽しかった。でも、嫌になって別れた訳だし、今はただ好きだからつきあう、みたいな軽い恋愛は(立場上)できない。しがらみありまくり。
本能では求めまくっているけれど、理性が働いて「これじゃないよー」と知らせてくれる。私の理性もだいぶ機能するようになってくれたもんだ。
ちなみに、元夫は匂いが好きだった。顔も特になんとも思わなかったし、性格はまじで嫌いだったけど、匂いだけはどうにも好きだった。だからこれもある意味本能で選んだのだけれども、当時私の理性は機能不全だったらしい。
そして、今私のすごく身近なところに、顔も好みじゃないし才能も特に感じられず、センスもそんなに光らない凡人の彼がいる。彼はとてつもなく子煩悩で、娘をとってもかわいがってくれているし、娘もそんな彼にものすごくなついている。教育方針も同じで、付き合いが長いので、信頼関係はばっちり築けているし、人間的に尊敬もできるし、どんな人間なのかも分かっている。友人としては一生つきあっていきたいとも思える、そんな人物がいる。
私の理性は、最近その彼をやたら推薦してくる。
シュミレートしてみても、うまく行くだろうなと思えるし、こういう人と家庭を作るのがきっと幸せなんだろうなというのも理解できる。だから、本能の彼とはあまり会っていないし、理性の彼とは頻繁に会っている。
どちらも(少なくとも私の認識では)恋人ではない。だから、相手の気持ちがどうのこうのということはよくわからないのだけれども、どうしても本能の彼が優勢になってしまう。おそるべし、人間の本能。
よく、財産目当ての結婚、なんてことが言われたりするけれど、いざ理性と本能の狭間に立たされてみると、彼女たちの決断がいかに大きな決断力を要するものだったのかがうかがい知れる。
私の救いは、本能の彼と一緒に子育てをしたいなんて微塵のかけらも思わないことだ。私の求める育児の真逆をいっている気がする。
でも、本能の彼と一緒にいる時間は、なんだか少し女に戻れた気がするので、これからも定期的に(エステ感覚で)本能を刺激していただくことにする。
そして私は再確認しました。
村上春樹が大好きだ。
私は高校生の頃からずっと村上春樹みたいになりたいと思っていました。それは、小説家になりたいということではなくて、「村上春樹的な感性とセンスの持ち主になりたい」という意味です。
おまけに彼の小説家になったエピソードがまた夢みたいな話で(嘘か本当かはしらないが)、ファンタジー的な意味で夢を与えてくれる。
村上春樹が好きだと言っても、彼の書く物語が好きだというわけではなく、ただ単に、「村上春樹の言葉づかい」が好き。それだけです。
もちろん柴田元幸も大好き。そして柴田元幸の教え子である小沢賢二も、ルックスや音楽はどうでもいいけれども言葉のセンスが好き。ようするに、「あのへんの人」らの言葉づかいに弱いです。(内田樹も好きだけど、彼は特例)
村上春樹の言葉づかいは、私の中では森本レオが音読するのが一番しっくりくる。
やわらかくて、空気感があり、焦りのない堅調なリズムがあって慎重で、きちんと吟味された、という印象を与える。
話す言葉にしろ文章になった言葉にしろ、「言葉」には人間性が出ます。性格はもちろん、知性や感性、バックグラウンドとなる文化、興味関心、所属するコミュニティ、あらゆるものに影響され、それが露骨に表れるのが「言葉」だと思う。
日本語にしろ英語にしろ、ひとつの事象を表す言語はひとつじゃない。その中からどの言葉を選び、どんな順番でつなげ、どんな口調で話す(あるいは、書く)のか、もしかしたら人間の活動の中で一番クリエイティブな作業なんじゃないかとも思える。
最近は生徒の作文の添削に追われ、自分の文章を全然書いていなかったけれど、今年は「自分の文体」の確立のためにがんばろう!