娘が、先日放送されたピアニスト中村紘子の番組に夢中。トーマスより中村紘子。わんわんより中村紘子、アイドルよりヒロコナカムラ、恐るべし天才ピアニスト。もちろん見ながらピアノを弾くマネをしている。お気に入りはショパンの華麗なるナントカ〜みたいな曲(私は手が小さくて挫折した苦い思い出の1曲)。
にしても、子供って音楽が好きだねーびっくりするぐらい好きだねーそりゃフジロックも連れてっちゃうよねってぐらい好きだね。世の中の歌番組って全部子供のためにあるんじゃないかというほど、好きだねー。
AKBが出てくるとスカートに着替えて踊ってる。ジャニーズも大好き。でも中村紘子が一番好き。

閑話休題

読書会がはじまりました。
今年は娘もだいぶ落ち着いてきて、私も久しぶりにじっくり参加できています。お兄さんお姉さんには全く懐かないけど。
10年ほどやっているけれど、なんか、ようやく形になってきたという感じがしてすごく嬉しい。
カッコつけて文学かじってる子も、本気でどっぷり大好きな子も、先生や友達に会いたくて来ている子も、英語力上げたくて来ている子も、断れなくて渋々の子も、色々いる。モチベーションも目的も様々だけど、でも、"文学を語る事に意味を見出している"子が増えてきた。
文学を語ることは、人生を語ることであり、歴史を語ることであり、政治を語ることでもある。だから文学を通すと語りは無限に広がっていって、説明のつかない自分の感情を作品に託すこともできる。
もちろん、広がりのある議論を導き出すためには、大人や時には専門家の意見も必要。でも、なんとなく文学を掴めていなかった子が、ある日ある時ある作品に出会うことによって、確実に"覚醒"したな、という瞬間を垣間見ることができるのが嬉しい。
卒業生の参加率も上がってきた。今年は特に粒ぞろいで、みんなすごく楽しそう。
だから私も嬉しい。

最近あまり新聞を読んでおらず、テレビも見ないので少し情報が遅れたが、相模原の事件について今日色々と情報収集した。
戦後最悪規模の大量殺人、そして社会的弱者を狙った凶悪犯罪だという報道を受けて、改めて《社会的弱者》について私たちは考えなければならないなぁと思った。
今回の事件で最も危機感を覚えたのは、障害者のみを標的にした犯罪だということ。それが卑劣きわまりなく、あるまじき行為だというのは紛れもないことなんだけど、個人的に思うのは、今回の犯人と同じとまではいかずとも、遠からぬ考えを持っている人は少なくないんじゃないかなとも思う。もちろん、実際にこのような惨殺行為を実行しようと考えている人は限りなく少ないとは思うけれど。

なぜそう思うのかというと、それは"出生前検査"(妊娠中に胎児に障害があるかどうかを、羊水や血液を通して調べる検査)で、陽性が出た人の9割が人工中絶を選択しているという事実を知ったからだ。(日本だけでなく、欧米諸国でも同じような結果)
もちろん、既に人格を持った障害者を殺すことと、障害者かもしれない胎児を堕胎することは同じではない。だけれども、このふたつのことに共通するのは"障害者の存在の非容認"ということだ。
私は妊娠中に離婚を前提とした別居をし、父親不在で育児をする決心をした。その時、自分の両親や相手の家族に『父親がいないのは可哀想だから、今回は諦めなさい』と言われた。私はそれを聞いて、この人たちはなんて頭の固い、偏見に満ちた、器の小さい人なんだろうと思った。"可哀想"かどうかは、"幸せ"かどうかは、他人が決めることではない。生まれてくる子供が自分で決めて判断することだ。そして、親である私は、そんな偏見をぶっ飛ばして、我が子を"幸せ"にしてあげるんだ!と心に誓った。

障害者に対する考え方も、私はこれに通ずるものがあると思う。

障害者は、世界の歴史を見ても、ずっと偏見にさらされ続けてきた。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』に詳しく書いてあるが、かつてのヨーロッパでは障害者=狂人として扱われ、隔離され、差別され、もはや"人"として扱われてこなかった。日本では主に、家の中に閉じ込めて、世間から隔離し、存在をひた隠しにしてきた。
この歴史を鑑みれば、障害者も人権を手に入れ、最近では少しずつ社会に進出できてきているので、それに関してはいい流れだと思う。
ただ、人々の"偏見"に関してはまだそんなに進歩していないのではないか?そして、やっぱり、あえてこの言い方をするけれど"普通とは違う"存在であるがゆえ、"偏見"を無くすことは不可能だと思う(悪い意味のみでの偏見だけでなく)。
ただ、特に先天的な障害は、人類の繁殖の過程で一定割合必ず出てくるものなんだから、"排除"(中絶も含め)を考えるのではなく、"支援"を、行政だけでなく、親類を始め近隣の人々や地域コミュニティー全体で考えなければならない。そういう相互扶助マインドを広げていかないと、今回のような事件はまた起きてしまうのではないか。セキュリティ云々も大事だけれど、"防ぐ"のではなくて、その根本に向き合わなければならない段階なんだな、人類が。というのが私の意見です。

障害者の介助やケアはとても大変だと思うし、家族ならまだしも、報酬も出ないのにそんな面倒ごとに手を出したくない、と考える人がまだ多いんじゃないかなぁ。でも、人類の存続(というといささか大袈裟に聞こえるが)を考えると、そうやって他人を切り捨てることは、イコール自分がその立場になったら切り捨てられることであって、そうすると本来助け合えば生き残れるはずが、助け合うことができないがゆえ、そういった自分だけではどうしようもない窮地に立たされた時には倒れるしかなくなってしまう。
どうすれば"助け合い"を実現できるか、というところを行政も突き詰めなければならないし、私たちも方法を探らないといけない。これは、老人介護や保育の問題にもつながっていくと思う。
ただ、エコな人たち(雑ですみません)がよく言う"昔のような"共同体に"立ち返る"というのが得策だとは私は思いません。もちろん、かつての助け合い精神から学ぶことも見習うべきこともあると思う。ただ、それを模倣したところで、今の世の中で機能するかと言われればNOだと思う。昔と今では、私たちをとりまく環境(自然環境も、社会的環境も、地域の構成も、なにもかも)が変わりすぎている。寄り合いみたいなことをしようと思っても、生活時間がバラバラな人たちが寄り合うのは無理がある。だからこそ、ITやらIOTやらを助け合い助長に活かすなり、雑多で捉えどころのないコミュニティーだからこそできる共同体のあり方みたいなものを、あたらしく"構築"していかなければならない。監視とか、警備という対症療法的な方向ではなく、ね。

そもそも、国民国家というのは弱者でも生きていかれるようにする役割があるはず。弱者を排除したり、自己責任の一言で片付けたりするのではなく、弱者も強者も、それぞれに幸せを感じるにはどうすべきなのか。自分の差し伸べた手で、社会的弱者が幸せになってくれたら自分も嬉しいと思う、これは子育てをしていて強く思うことだ。
赤ちゃんは社会的にみたら最弱の存在。もちろん、その先には"成長"を見据えてのことだけれど、赤ちゃんのお世話をして笑ってくれたらすごく嬉しい。赤ちゃんが喜ぶと幸せな気持ちになる。そういう感覚を、社会的弱者全体に対して抱けるようにならなければなぁと、自戒を込めて強く思った。

8年ぶりにフジロックに行った。
ギャルやイェイイェイイェイな人が増えたし、忙しく山を走り回ることよりも、単独来日の方がよくないか?と思って行かなくなったけど、久しぶりにライブ行きたい→単独来日は子供いるから行けない→フジロックなら連れて行ける…?と考えて乗り込んだ。
1日のみの参加だったけど、個人的にはやっぱり単独来日に行きたい‼︎という気持ちが強まった。
自然の中で酔っ払ってライブを見られるのは至福だったけど、子供いるから集中できないし、ステージ間の移動がほとんど出来ない(あの悪路をバギー&背中に我が子12kg)。そして、遠くであっという間に終わるステージを見るとなんか淋しくなる。ヘッドライナー諦めて帰らなきゃならない。(スクエアプッシャー見たかった。)ノリノリのお母さんを見て、最初は子供もはしゃいでたけど最終的にちょっと引いてた。
とういのが、またしばらくはいいかな、と思った所以です。酔っ払って弾ける私を座って白い目で見る我が子よ…。

ただ、子供を連れて行くという目的で考えると、ディズニーランドの100倍いい。すごくいい。
久しぶりのフジで1番驚いたのはその子供の数。小学生以下無料だからなのか、とにかく子供がたくさんいた。そして、子供ゾーンも広がっていたし、子供向けステージでは終始ケロポンズがショーをしていて、我が子は夢中になって見てた。
川遊びもできるし、アスレチックもあるし、ご飯も美味しいもの揃いだし、森の装飾かわいいし、子供が多いから子供も安心して遊んでた。
うちの子もずっと『お祭りだねぇ』と言いながら踊ったり、飛び交うシャボン玉に興奮したり、通りがかりのステージを『これ見たい』と言ったり、知らない外人と遊びだしたりして、最終的には『楽しかったねー!』とご満悦の様子でした。
まぁだから行ってよかった。

娘は2歳4ヶ月なのでオムツだからよかったけど、子供のトイレは結構大変かも。ものすごい並んでるし、そんな綺麗じゃないし。トイレまでの距離もかなり離れてる場合も。
そしてお父さんの体力に自信がない場合は行かない方がいいかな…。子供だけならまだしも、荷物が多いのがフジロック。そしていかに拠点を決めてそこに腰を据えようと思っても、駐車場から会場までもかなり距離あるし、中で移動しないと子供飽きるし、アーティストによっては怖がる場合もあると思う。雨降ったらバギーごと持ち上げないと進めない場面も出てくるだろうし、ここはかなり重要ポイントかと。
あとは、エアタイヤのバギーと、宿泊先の確保もマストだと思った。つーか、子供いなくてももうキャンプはちょっと…。いや、キャンプはいいんだけど、フジのキャンプサイトでキャンプするのは辛すぎる。あの斜面よ…遠慮なく照りつける日差しよ(日陰ほとんどない)…。今回は会場から車で30分ぐらいの温泉旅館に泊まったのだけど、お酒を我慢できる人がいるなら、そのぐらいの距離もありかと。あとは、会場に新たにタクシー乗り場ができていたので、宿に車置いてタクシーでもいいかな。そういう人向けに有料で夜バス出したら需要あるかも。

今回はTRAVIS目当てで行ったので他は殆どまともに見ていないけど、G.LOVEも楽しかったし、KAN SANOは娘のお気に入り、BECKは通りすがっただけ(なぜか毎回BECKは素通り)だけど、クオリティ上がってた。TOM ODELも、イギリスポップの教科書どおり感が時代の反復性を感じられて安心した。きっといつか日本のドラマ主題歌やるんだろうなーみたいな。
TRAVISは相変わらずスーパーかっこよかったしセクシーボイスにうっとりだったけど、結成20年を迎えてフランだけがどんどん歳をとっていく(=老けていくハゲていく)不思議なバンドだという新しい側面も見えた。新曲すごくよかった。でもTしゃつダサかった。ホント、私の青春の原点はTRAVISだなと再確認(BEN FOLDSもだ)。
ホフディランやらオザケンやらのなまっちょろい日本男児にうつつを抜かしていた頃もあったけど、私の原点はやっぱ英米文化。日本の小説よんだり日本の音楽聴いても、ゔぉあーーー!っとはならない。だけど、英米の小説や音楽に触れると私の中の何かが弾ける。文字通り熱くなる。
橋本治を読んでも、面白かったー!で終わるのに、モームを読むと頭の中がエクスプロージョン状態になって記憶とか意識とかアイデアとかもう全部の領域で脳が活動を始めて、よくわからない方向性を持った感動も生まれて大変なことになる。そして泣く。というようなことが音楽にもあるなぁと思った。

さあ長い長い長い長すぎる夏休みが始まった。今年は遊び倒すぞ!


ここんところとても良い生活リズムを掴めてきている。
昼間は仕事&空き時間と通勤は(趣味の)読書。そして夜、家事を済ませて娘を寝かしつけた後は、個人的に学びたい分野の読書&勉強。25時就寝、6時起床。
新しい職場では、探求学習の指導に従事することになった。だから(だからでもないんだけど。単に今までのやりかたに飽きたというのも大きい)、新しい授業スタイルについてずーーーーーーっと考えている。授業の「開発」がしたい。
目下考えているのは、国語科に「実験」を導入する方法。教材や授業によっても方法は様々だけれども、とにかく色んな科目で「実験」をするのは面白いんじゃないかと思っている。ただ、次の職場はかなりの進学校なので、上司の理解はあれども実践できるかはかなり謎。まあでも大学入試改革もはじまったことだし、何とかゴリ押ししてみよう。

そのように、「新しいもの」を作ろうと考えていたら、「文化」(人間が作り出したシステムやモノやアイデア、デザインも含めての)って大きく二分できるような気がした。それが、「糸井重里v.s.秋元康」なわけです。糸井重里じゃなくて、下北系バンドマンとジャニーズ系アイドルでもなんでもいいんだけれども、要するに、「自分がいいと思ったものを広げていく文化」と「広く一般に受け入れられるように作られた文化」ということ。

新しい文化を創ろうと思ったときに、「儲け」を最優先して考えれば当然後者を意識して作り出していくことになる。イノベーションってのは、とにかく経済発展に必要不可欠なものであるし、「儲け」のことを考えるのもいいんだけど、やっぱり「儲け」を最優先に考えて作られたものって、一過性の魅力しかないし、儲けたお金同様、市場を席巻したとしてもすぐにぐるっとまわって中古市場へさようなら~という悲運にあると思う。

一方で、「自分がいいと思ったものを広げていく文化」の場合、即時的な利益はなくても、ジワジワと世の中を変えていったり、人の価値観を変えていったり、きちんと「意味」のあるものになると思う。もちろん、「自分がいいと思った」とはいえ、それが独りよがりな評価だったら価値はないし、そこは作り手がいかに他人を慮れるか、ということに尽きるのだけれども。(だから、自己中なひとには絶対にこういう文化を創ることはできない)

秋元康的文化って、すごく簡単な言葉で(むしろ言葉がわからなくても伝わるような)、言ってしまえばそれを理解するのに知性や知識を一切求めないように作られていて、だからこそ受け取る側は思考停止状態になっていると思う。理解するのに知性が不要なものは、それに触れている間中ずっと知性が不要だから、見てて聞いてて楽。そのうえ自分で「好み」を見つけられないような人にもなんとなーく、気づかぬうちに浸透していく。だからものすごい流行するし、経済効果もうまれるだろうし、盛り上がる。でも、付加価値は?と考えたとき、経済効果以外の付加価値なんてないと思う(何をもって付加価値というかによるけど、少なくとも私の考える付加価値はない)。

ちなみに、私の考える付加価値とは、一過性のものではない「個人的な感動」。ずーーーっと大事にとっておきたいと思えるかどうか(モノだろうが、アイデアだろうが、文章だろうが、システムだろうが)。役目を終えた後も、大事にしまっておきたくなるかどうか。世の中の価値観が変わっても、残るもの(つまりは汎用性ないし普遍性)。
超個人的にいうと、「脳みそくすぐる系」。

その点、糸井重里的な文化は、リスキーだけどちゃんと付加価値を生み出していると思う。きちんと考えられたアイデアだったりデザインだったりなので、息が長い。そしてちゃんと「生活」に入り込んでくるところがウマい。「わかりやすさ」という観点では優れたものではないけれど、そもそも私たちが生きていく過程で必要なのは、分かりやすく加工された情報を摂取することではなくて、情報という形になっていない情報を、どの位自分で理解して吸収するかということに尽きると思う。だから、「わかりやすいもの」には何の面白みも感じないし、付加価値がないと思う。

もちろん、世の中をまわしていくためには両方とも必要だし、「好き」か「嫌い」かは個人の好みによるし、まして「良い」「悪い」で議論することでもないんだけれども、もっと「付加価値」を生み出せるようになりたいな、というただそれだけです。
顔がものすごく好きで、才能に溢れていて、オシャレで、センスの固まりみたいな人で、商社マンなので外国を飛び回っている元カレがいる。妊娠中に離婚が決まってどうしようもなかったときに支えてくれたし、産後も定期的に連絡をくれて、気晴らしにつきあってくれている。
私の本能では、できることなら彼と一生一緒にいたい!!と思う。だけど、現実を見ると、そんな彼はパズドラ大好き、モンハン大好き、うちに遊びにきても隙あらばゲームやったりスマホいじったりする。そしてバカ(知識がない)。
基本的に馬鹿というか無知な人とは会話しててもつまんないし、魅力を感じないのだけれども、彼だけは別格。ホントうかうかしてるとあっという間に好きになっちゃいそう。これが「本能」なんだろうな。
昔つきあってた時もすごく幸せだったし、楽しかった。でも、嫌になって別れた訳だし、今はただ好きだからつきあう、みたいな軽い恋愛は(立場上)できない。しがらみありまくり。
本能では求めまくっているけれど、理性が働いて「これじゃないよー」と知らせてくれる。私の理性もだいぶ機能するようになってくれたもんだ。

ちなみに、元夫は匂いが好きだった。顔も特になんとも思わなかったし、性格はまじで嫌いだったけど、匂いだけはどうにも好きだった。だからこれもある意味本能で選んだのだけれども、当時私の理性は機能不全だったらしい。

そして、今私のすごく身近なところに、顔も好みじゃないし才能も特に感じられず、センスもそんなに光らない凡人の彼がいる。彼はとてつもなく子煩悩で、娘をとってもかわいがってくれているし、娘もそんな彼にものすごくなついている。教育方針も同じで、付き合いが長いので、信頼関係はばっちり築けているし、人間的に尊敬もできるし、どんな人間なのかも分かっている。友人としては一生つきあっていきたいとも思える、そんな人物がいる。
私の理性は、最近その彼をやたら推薦してくる。
シュミレートしてみても、うまく行くだろうなと思えるし、こういう人と家庭を作るのがきっと幸せなんだろうなというのも理解できる。だから、本能の彼とはあまり会っていないし、理性の彼とは頻繁に会っている。

どちらも(少なくとも私の認識では)恋人ではない。だから、相手の気持ちがどうのこうのということはよくわからないのだけれども、どうしても本能の彼が優勢になってしまう。おそるべし、人間の本能。

よく、財産目当ての結婚、なんてことが言われたりするけれど、いざ理性と本能の狭間に立たされてみると、彼女たちの決断がいかに大きな決断力を要するものだったのかがうかがい知れる。
私の救いは、本能の彼と一緒に子育てをしたいなんて微塵のかけらも思わないことだ。私の求める育児の真逆をいっている気がする。

でも、本能の彼と一緒にいる時間は、なんだか少し女に戻れた気がするので、これからも定期的に(エステ感覚で)本能を刺激していただくことにする。
今年が始まって1ヶ月半、順調に人に頼りまくっています。
特に今、入試シーズンにつき完全に無休状態が続いていますが、母と友人たちに助けられ(職場の人々は誰も助けてくれません)、最後の入試(転職します)業務をこなしています。
毎週我が家にご飯を食べに来る友人は、ついに我が子と2人でお留守番ができるようになりました!ありがたい!!
他人なのに、子供いないのに、まだ手のかかる1歳児の子守をこんなにも快く引き受けてくれて、懐の深さに感服です。
みんなで育てる、ってこんな感じか。ほんと、みんなに育ててもらってるよ私も娘もね。いつも我が家に遊びに来てくれている人たち本当にありがとう。みんなのために、もっともっと美味しいご飯が作れるようになります🍛✨✨✨
もっと大きい家を買って、ゲストルームも用意して、料理の腕前も磨いて、みんなが集まる家を作りたいなぁ。まぁでも、そもそも我が家が都心にあるからみんな集まりやすいのであって、都心にもっと大きい家って何様だよなので無理だけど。
ホームパーティーが好き、とかでは全然ないのだけれど、人が遊びに来てくれるのは本当に嬉しい。パーティーじゃなくても、魚の干物と味噌汁を一緒に食べたり、ビール飲みながら最近読んだ本について話したり、一緒にヨガやったり、お勉強してみたり、家族っていう閉鎖された関係じゃないからこそ色々あって本当に楽しい。
もしまた結婚しても、こういう家のあり方は守りたい。
あ、でも我が家に来るのは独身の人ばっかりだ。
今年の目標は甘え上手になることです。
頼ったり、頼られたり、助け合って生きていきたいです。私、寂しいのかなー?
まだ、かなり限定した人にしか頼れていない。というか1人しか頼れる人がいない!
職場の男の子たちにも、頼ってください!とは言われているものの、むしろ私が頼られてないか?という若い子と、頼れそうだけどあまりご縁がなさそうな男性なので気後れします。てか、仕事忙しそうな姿を見てるから、休みの日にアレしてくれコレしてくれなんて頼めない…。

甘えよう甘えようと考えていて気がついたのは、信頼してる人には存分に甘えられるなということ(当然すぎる!)。あとは私にもしてあげられることがある、というのがあると、気兼ねなく甘えられるな。
先週末、久しぶりに風邪をひいてダウンしていたのだけれど、娘は元気いっぱい。昼間の予定をキャンセルしたら昼寝もろくにしない始末。子育て中は風邪をひこうが怪我をしようが毎日子供と一緒に遊んで、食事を作って、お風呂に入れて、待った無し。明日から繁忙期で休みなしだしああほんとに終わった…どうしよう、と思った時に今年の目標を思い出し、近所のY君に出動要請しました。
せっかくの日曜に、昼間から娘と遊んでくれて、その間私はゆっくり寝られた。そしてなんとご飯を作って片付けて、娘にシャワーを浴びさせて帰ってくれた…✨しかもイチゴと金柑持ってきてくれたし…。お釈迦様でも憑依してるのかな??と思ってしまった。
でも、『助け合い』に慣れている人にとっては、こんなこと当たり前のことなのかもしれないなー。私は他人に迷惑をかけるのを極端に嫌悪していたけれど、離婚してシングルマザーになって(シングルじゃないマザーであったことはないが)、ああ今まで私が迷惑だと思ってたことは実際そんな迷惑ってほどのもんでもないし、持ちつ持たれつって本当に気持ちのいい関係だなぁと思うようになった。
そして何よりも、私が夜中に咳き込むと、それまで無防備に幸せそうな顔して寝ていた娘が寝ぼけ眼で背中をさすり、『ママだいじょぶ?』と言ってくれるようになっていて、この子を幸せにするためにも多くの人との助け合いは必須だなと強く思ったのでした。
ほんと、子育てして価値観も生活リズムも人生観も性格もびっくりするぐらい変わったなぁ。
とにかく、厚い友情に感動した週末でした。
MONKEY連載は読んでいたものの、今更買って読みました(BOOK OFFで)、職業としての小説家。
そして私は再確認しました。
村上春樹が大好きだ。
私は高校生の頃からずっと村上春樹みたいになりたいと思っていました。それは、小説家になりたいということではなくて、「村上春樹的な感性とセンスの持ち主になりたい」という意味です。
おまけに彼の小説家になったエピソードがまた夢みたいな話で(嘘か本当かはしらないが)、ファンタジー的な意味で夢を与えてくれる。

村上春樹が好きだと言っても、彼の書く物語が好きだというわけではなく、ただ単に、「村上春樹の言葉づかい」が好き。それだけです。
もちろん柴田元幸も大好き。そして柴田元幸の教え子である小沢賢二も、ルックスや音楽はどうでもいいけれども言葉のセンスが好き。ようするに、「あのへんの人」らの言葉づかいに弱いです。(内田樹も好きだけど、彼は特例)

村上春樹の言葉づかいは、私の中では森本レオが音読するのが一番しっくりくる。
やわらかくて、空気感があり、焦りのない堅調なリズムがあって慎重で、きちんと吟味された、という印象を与える。
話す言葉にしろ文章になった言葉にしろ、「言葉」には人間性が出ます。性格はもちろん、知性や感性、バックグラウンドとなる文化、興味関心、所属するコミュニティ、あらゆるものに影響され、それが露骨に表れるのが「言葉」だと思う。
日本語にしろ英語にしろ、ひとつの事象を表す言語はひとつじゃない。その中からどの言葉を選び、どんな順番でつなげ、どんな口調で話す(あるいは、書く)のか、もしかしたら人間の活動の中で一番クリエイティブな作業なんじゃないかとも思える。

最近は生徒の作文の添削に追われ、自分の文章を全然書いていなかったけれど、今年は「自分の文体」の確立のためにがんばろう!
マイお野菜フレンドに誘われて、お野菜イベントに行ってきました。
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あれ?秋刀魚だ。野菜じゃない。そして山なのに秋刀魚だ。でも、炭火で焼く秋刀魚美味しすぎた。
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あ、また野菜じゃない。これはロケットストーブだ!初めて見るロケットストーブに感激✨その上に乗っかっているのは……味噌汁です!里芋の親芋?種芋?ふつう食べないところを入れたらしいが美味しかった。
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良いところだったなぁ。
とまぁ、野菜の写真は皆無でした。
何をしに行ったのかといえば、大豆の収穫です。大豆はやっぱり枝豆でした。枯れ果てた枝豆のようなものを鎌で刈り取り(けっこー硬い)、乾かしてブワァーッてすると大豆が取れる。衝撃的に地味な作業だったけど、土いじりは最強に楽しかったし、娘も美味しい秋刀魚食べて超ご満悦でした。
週末農家憧れるわー。