平成31年度版・中学三年生の道徳の教科書(出版元:廣済堂あかつき)に、母と私の物語が掲載されることになりました。

以下に全文を転載させて頂きます。

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「母と子のロードレース」

「すごい!この人たちはみんな自転車のプロなんだ!」

 

 その日、テレビ放送されていた世界最大の自転車レース「ツール・ド・フランス」を偶然目にした十四歳の宮澤崇史少年は、雄大な自然の中を颯爽と走り抜けるロードレーサーたちの勇ましい姿に興奮を抑えきれなかった。
 三歳の頃から毎日のように自転車に乗り、野山を駆け巡った。
六歳のときに父を病気で失い、移り住んだ家には当初、電話がなかったが、頼りの祖母の家へは、往復五キロメートルの道のりを自転車で行き来し、伝言を届けた。

「遠いのに、よう来たねえ。」と目を細める祖母の言葉がうれしくて、用事を見つけては往復した。

中学生になると、サッカー部の応援の帰りに電車で帰途につく友人たちに「自転車で先に着いてみせる。」と宣言し、笑って取り合わなかった彼らを終着駅で出迎えて驚かせたこともある。

 宮澤さんにとって自転車は、自分自身の代名詞であり、切っても切れない体の一部のようなものだった。

「プロになれば、大好きな自転車を仕事にできるぞ!」

そのときから「プロのロードレーサーになる」という宮澤さんの大きな夢への挑戦が始まった。

 

 自転車に「レース」というものがあることを知ったこの頃、宮澤さんは近所の山でマウンテンバイクの大会が行われることを聞いた。

「この大会に出てみたい。」と思ったが、なかなか言い出せなかった。なぜなら、大会に出るためには、普通の自転車とは異なる競技用の自転車が必要だったからだ。

 一つ年上の姉と崇史、幼い子供二人を抱え、宮澤家の家計は母の純子さんが一人で支えていた。

暮らし向きは決して楽ではなく、高価な競技用自転車が買えないことくらい、中学生の宮澤さんにもわかっていた。

 すると、母は、

「崇史、大会に出てみなさい。自転車は母さんがなんとかするから。」

と言って、数日後、マウンテンバイクを用意してくれた。

 純子さんは知人に息子の夢を語り、必死に事情を説明して、人づてに競技用自転車を借りてきてくれたのだった。  こうして宮澤さんは、人生初の自転車競技に出場した。結果は二十七位。しかし、そこには、 大人に混じって力走する宮澤さんに大きな声援を送り、手をたたいて喜んでくれる母の顔があった。

 この大会をきっかけに、宮澤さんは自転車競技にのめり込み、競技者としてめきめきと頭角を現すようになった。

 

 高校を卒業した十八歳のとき、宮澤さんはプロロードレーサーを目指して自転車レースの本場ヨーロッパへと旅立った。家計を考え、留学を躊躇していた宮澤さんの、その背中を押してくれたのも、やはり母純子さんだった。純子さんは限られた給料の中から生活費を切り詰め、息子の留学費用を工面した。息子の夢は、母純子さんの夢でもあった。

 そんな母の思いに応えるかのように懸命な努力を続けた宮澤さんは、やがてさまざまな競技会で 好成績を残すようになる。しかし、これからがまさに競技者としての正念場というときに、思いも寄らぬ出来事が親子を襲った。

 母純子さんが、重い肝臓病で倒れたのだ。

 

「生体肝移植をする以外に、治療法はありません。」 医師から告げられた言葉は、残酷なものだった。

 生体肝移植は、健康な提供者(ドナー)から肝臓の一部を切り取り、患者(レシピエント)に移植する大手術である。提供者は、肝臓の三十パーセントから七十パーセントを切り取られることになり、手術前後の検査を含め、長期の入院、通院を余儀なくされる。そして、移植を受けた患者は、術後、合併症の恐れがあり、命を落とす場合もあった。

 生体肝移植は、提供者と患者の双方に多くの危険を伴う手術だったが、以前から患っていた肝臓病がさらに悪化してしまった純子さんには、これ以外に生きる道はなかった。

 宮澤さんは、ためらうことなく言った。

「僕の肝臓を移植してください。」

 しかし、そんな息子の申し出を、母純子さんは断固拒絶した。宮澤さんが何度も説得を試みたが、決して首を縦には振らなかった。

 母は知っていたのだ。この申し出を受けるということは、息子のロードレーサーとしての選手生命を奪うことになる、ということを。

 肝臓は、体内で最も大きな臓器であり、再生可能な臓器でもある。しかし、切り取られる提供者の体への負担は小さくない。ましてや、生体肝移植後、第一線で活躍したプロアスリートは、 世界に例がなかった。これからいっそうの飛躍が期待される二十三歳という年齢で、息子の夢が絶たれることを、母はどうしても容認できなかったのだ。

 母を思う息子と息子を思う母ー。

 互いの思いがぶつかり合い、時間だけが過ぎていく。とはいえ、純子さんの病状は、それほどの猶予を許さなかった。

 覚悟を決めた宮澤さんは、きっぱりと言った。 「母さん、僕のために移植をしてほしいんだ。」

 母の目から涙がこぼれた。

 

 移植手術は無事成功した。必要な安静期間をおいて、宮澤さんはトレーニングを再開し、母は生きるためのリハビリを始めた。 しかし、宮澤さんの肉体的ダメージは、想像以上に大きなものだった。みぞおちの上部からおへそ、おへそから横腹へと大きくメスが入った腹筋は、力を失っている。体を支えることさえできず、自転車にまたがって立っているのがやっとだった。 一日の練習で、およそ150キロメートルを走るという過酷なスポーツである。立っているのがやっとの自分が、以前のような走りに戻るのは、生半可なことではないと実感した。宮澤さんは、腹筋を鍛え直すことから始め、毎日三時間もの腹筋運動を自分に課した。

 けれども、宮澤さんの戦場は、たった一日練習を休んだだけでも肉体が変化し、それがすぐに競技結果に表れるアスリートの世界である。どんなにハードなトレーニングをしようとも、一度筋肉が切られ、長期休養を強いられた体は、そう簡単に元には戻らなかった。

 思うような走りができない日々が続く。成績は振るわず、ついに、当時の所属チームから戦力外通告を受けた。

 予測できた結果だったのかもしれない。もともと小柄で恵まれた体格ではないうえに、移植手術というハンディキャップを背負ってしまったのだ。当然といえば当然の結果だった。

 宮澤さんは、失意の中で思い出していた。昼夜を問わず、働き詰めに働いていた母。どんなに疲れていても、必ず応援に駆けつけてくれた母。そして今、ぼろぼろになってしまった体を奮起させ、生きようと懸命にリハビリを続けている母…。

 宮澤さんの中で、手術を決めたときの強い決意がよみがえってくるのを感じた。

移植を理由に、引退はしない ー。

宮澤さんは、顔を上げた。 「そうだ、こんなところでロードレーサーとしての人生を諦められない。諦めてたまるものか。」 自分自身のためだけではなかった。母のためにも、どうしても諦めたくなかったのだ。

 

それからの宮澤さんの執念は、すさまじいものがあった。復活を誓い、いっそう過酷なトレーニングを行った。自分自身が誰よりも練習をしたという確信がもてるまで練習に練習を重ねた。不遇の年月は長く険しいものだったが、気持ちは一度も後ろ向きになることはなかった。自転車への思い、そして母への思いが、宮澤さん自身を支えていたのだった。

 

2008(平成20)年、宮澤さんは、北京オリンピック日本代表の切符をつかんだ。そして迎えた2010(平成22)年6月。ついに日本最高峰のレース「全日本選手権」に勝利し、宮澤さんは、日本一のロードレーサーとなった。それは、移植手術前にも手にすることはできなかった、最高の栄誉だった。

 最後の直線、渾身のラストスパートで大接戦を制したゴールには、涙にむせぶ母の顔があった。息子を信じ、いつも夢を後押ししてくれた、あの頃と同じ母の顔が。 

 手術から九年。

 息子は母のために走り、母は息子のために生きた。 

 母と子の長いロードレースが大きな実を結んだ瞬間、二人は抱き合い、人目をはばかることなく泣いた。