さて、戸隠と相撲の過去の関係について続けてまいります。
簡単ではありますが順を追いまいして。
1、そもそもの、相撲の神様について
大相撲では本場所の前日に「土俵祭」という神事が行われます。
この神事で、天地長久、風雨順次、五穀成就、を祈願するとともに
三柱(みはしら)の相撲の神様からのご加護を祈願するそうです。
その神様というのが
戸隠大神、鹿島大神、野見宿禰、 の三柱の神々。
(神様を数えるときは「柱」を用います。)
これすなわち
ダヂカラヲノカミ、タケミカヅチノカミ(ともに神話に登場する「力」を象徴する神様)
ノミノスクネ(日本書紀に登場する相撲の強いお方)
このことに着目し、「相撲の聖地戸隠に道場を建てるべし」として、行動に移されたのが
佐渡ヶ嶽高一郎(さどがたけこういちろう、本名は永井高一郎。四股名は阿久津川。引退後、年寄佐渡ヶ嶽を襲名。)
という、こちらのお方なのです。
2.佐渡ヶ嶽高一郎というお方
栃木県宇都宮市出身。年寄、佐渡ヶ嶽の名で1923年(大正12)頃から青年相撲の指導を開始し、1930年(昭和5)に相撲の型に基づく「相撲基本体操」を完成されます。
この相撲体操とは、今でも大相撲や関連する合宿、学校等で行われているようで、youtubeなどで検索すると出てきます。ご興味のある方、ワークアウト好きの方はぜひやってみてください。
ちなみに私も動画を見ながらやってみたところ、主に下半身を使った動きが多く、ボディメイク系で流行りのワイドスクワットのような動きもあり、ものすごく時代の先を行っていたのだなと感じました。現代でもとっても使える動きです。
2014年にはこの相撲体操の功績により、あの、健康関係でおなじみの「タニタ」より「タニタ健康大賞」が相撲協会に贈呈されたとか。さすがによくご存じで!と驚きました。我が家でも毎日体重体脂肪チェックでタニタさんに乗っかってます。ありがとうございます。
おっと、我が家の話はどうでもいい余談でした。
佐渡ヶ嶽先生はその後多くの受講生を得るとともに、相撲指導の体系化、組織化の必要性を実感され、1936年(昭和11)に「大日本国技研修会」を設立し、代表者となられます。
見にくいかと思いますが、こちらの写真左の看板には
「大日本国技研修会 戸隠山相撲道場」とあります。
(会は旧字。道場より下の文字は残念ながら読めず。)
この、大日本国技研修会は当初、佐渡ヶ嶽先生の自宅である埼玉県川口市を本部としていたそうですが、上述しました「神聖自ら襟を正すべき相撲由緒の聖地に、正しき相撲を錬成すべき道場をうち建てたい」として、1941年(昭和16)に道場を、川口よりこの地この戸隠に移設し、整備されたそうです。
この時の費用は、なんと!私財、1万1千円を拠出されたとのこと!
この額を現在の価値に換算するのは正確には不可能なのですが、およそ400数百万円となるそうです。事業内容、人件費等を現代の価値で考えればおそらくはもっと高額でしたでしょうし、支援者や戸隠からの拠出もあったと想像します(残念ながら資料見つからず)。
ちなみにこの年12月には大東亜戦争勃発ですので、正確にはよりややこしそうですね。
3、大日本国技研修会戸隠山相撲道場
そういったことで、1941年(昭和16)、現在の戸隠越水地区に大日本国技研修会戸隠山相撲道場が建てられます。
こちらの写真はその地鎮祭(じちんさい)の様子。土地の神様へのごあいさつと、建物が無事に建ちますよう祈願する神祭。現代でもご自宅を新築された方にはおなじみですね。
建てられました道場がこちら。
現代で、ぜひとも見てみたかったなと思わずにはいられません。
道場の先生と受講生と思われる面々と、地元民との一枚。
地元民と自信をもって言えるのは、写真左の笑顔の人物こそ、我が家のご先祖様、「宮澤巌穂」(みやざわいわほ)であることから。
子供達が写っているのは、青年相撲の指導という性格ゆえか、はたまたお相撲さんを見てみたいという子供心ゆえか。どうぞご想像ご想起ください。
それにしても
(再登場のこの写真)
なにゆえに宮澤家に、この尊い道場の事務局が置かれましたのかは、これからの我が家にとっての研究課題であります。ご存じの方はご連絡をお願い申し上げます。
こちらも道場の一枚。
左で、たまたまなのかわざとなのか、変顔をしているのが宮澤家ご先祖様。
前列でひと際オーラを放たれているのが、まごうことなき、佐渡ヶ嶽先生。
その他の面々も何となく見たことがあるようなお顔ですが、不確定なので申し上げません。
まだまだ載せたい写真や事柄がございますので、次回に続きます。