二 竜神の衰退および九頭竜神としての復興 | 信州戸隠の宿坊 宮澤旅館のブログ

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二  竜神の衰退および九頭竜神としての復興



   戸隠の竜神信仰を考察する場合、竜神と九頭竜神を分けて考えることが必要である。

   戸隠神社(中社)には、奈良時代の牙笏が蔵されている。『日本書紀』持統天皇五年八月の条文に記された「水内神」は、風雨の災害から国土・穀物を守るため、竜田神および須波神とともに特別に奉祭された。竜田神の奉祭は広瀬神とともにセットで風雨の神を祭ったものであり、須波神・水内神も同じ配慮のもとにセットで祭られたであろうことは、すでに指摘したとおりである。(註8 拙著『戸隠竜神考』(銀河書房) 四五頁)

   この竜田神・広瀬神の奉祭は天武天皇四年を初見とし、持統天皇の時代にも継続されていた。それまでまったくみられなかった竜田神・広瀬神が、突如として国史に登場するのであるが、両神の奉祭は天武天皇に始まる宗教政策の一貫であり、持統天皇にも継承された政策であった。(註9 吉野裕子『持統天皇』(人文書院) 二○七頁) よって、竜田神・広瀬神とともに、突如として奉祭された信濃の須波神・水内神も、同じ宗教的政策の配慮のもとにセットで祭られたといえる。

   しかし、次の文武天皇の時代になると、竜田神および広瀬神の奉祭は、まったく国史にはみられない。それのみではない。『続日本紀』文武天皇三年五月丁丑の条には、役君小角が伊豆に配流された記述がある。役小角の宗教については明らかではないが、葛木山を中心として、呪術をおこなう山岳宗教者とみられる。役小角を訴えた韓国連広足は呪禁道にすぐれ、天平四(七三二)年には典薬頭に任じられている。

   呪禁道とは呪術をもって厄災・悪神の害を禁ずるもので、道教の方術に巫術を加えた中国土俗の医療呪術に他ならず、道教は中国の民族信仰である長寿延命の信仰の上に成立したものである。よって、役小角の宗教は道教と深く関わりをもつものであったと指摘されている。(註10 村山修一『修験の世界』(人文書院) 一七頁)

  この役小角の配流というできごとも、文武朝の宗教政策と関連した動きであったのではなかろうか。(註11 梅原猛『神々の流竄』(吉川弘文館) 二五七頁) このような天武・持統天皇と文武朝の政策の違いは、宗教政策のみではなく、政治全般にわたって隔たりがみられるとの指摘もなされている。(註12 直木孝次郎『持統天皇』(吉川弘文館) 二五七頁)

   前述したように、信濃の須波神および水内神の奉祭は、竜田神および広瀬神の奉祭とともにセットであり、その背後には天武および持統天皇の宗教的配慮が推察された。しかし、文武朝の施政は、天武および持統天皇とは異質である。水内神衰退の原因には、この文武朝の宗教政策が強く影響していたと思われる。

   現存する他の四枚の牙笏は、中央の高名な人物とのかかわりをもち、貴重な牙笏としての歴史をもっている。したがって戸隠の牙笏も犀角笏として誤認されるまでには、牙笏としての認識が忘れられるほどの衰退期が、必ずやあったであろう。

   『続日本紀』仁明天皇承知十(八四三)年四月には、竜田神および広瀬神の奉祭が再び記されている。また、須波神も、『続日本紀』承知九(八四二)年五月には従五位下の神階を与えられ、復活することになるが、水内神はついに後の歴史に姿を現すことはない。

   前述した文武朝の宗教政策が、水内神の衰退の原因だとすれば、持統天皇からの奉祭を受けた直後の八世紀初期から、すでに衰退が始まっていたといえる。また、竜田神および広瀬神、須波神が再び国史にみられるのは九世紀中頃だが、水内神としての竜神はこの頃すでに、修験道および密教との接触がおこなわれていたと思われる。

   『普曜経』の中では、「釈尊誕生に際し、九頭の竜が出現した」と記されている。また、『胎蔵曼荼羅図』には「水天の眷属」として九頭竜が記され、密教養護の善神とみなされている。このように、九頭竜は密教と深く結びつきをもつ竜王の最高神とされている。日本における密教の普及に関しては、白山や英彦山のごとく、九頭竜と仏教者とのかかわりが語られている。戸隠の九頭竜神も、学問行者により『法華経』の読誦を通して鎮まる記述が『顕光寺流記』にみられる。

   水神としての竜神信仰が、密教や修験道の信仰の定着および発展に重要な要素であることは、他の霊山・霊場の例をみても明らかである。戸隠と修験道および密教との結びつきは、古来より全国的に周知された事実であり、修験道および密教は道教思想との結び付きをもつことから、戸隠における信仰が牙笏を奉納された水内神としての竜神から、牙笏を犀角笏と誤認した修験道および密教との関連をもつ九頭竜神へと、姿を変えて復興したのではないかと推察する。

   天台学僧皇円が著述した『阿裟縛抄』には、「戸隠寺縁起」が所収されているが、『吾妻鏡』文治二年三月十日の条で戸隠寺は、「天台山末寺顕光寺」と記されているから、文治二(一一八六)年までには比叡山延暦寺の末寺として荘園化されていたことがわかる。(註13 片山正行「頼秀流井上氏と戸隠寺」(『長野』第一三○号) 一二頁)

   「戸隠寺縁起」では戸隠の神を「鬼」と記しているが、戸隠寺を奉ずる人々が祀っていた神が鬼とは考えられない。憶測ではあるが、比叡山からみた一地方神への命名か、もしくは『殿暦』『三槐記』『百錬抄』にみられる国家(鳥羽天皇)を呪詛した顕光寺十三代別当静実の影響によるものであろう。ともかく、十二世紀後半の段階では、戸隠は比叡山延暦寺の末寺となっていた。

   さらに、新たな信仰へと戸隠を変容させた出来事が、思兼命・表春命を戸隠に遷祀した阿智祝の戸隠入山であった。下伊那郡阿智は東山道が御坂峠より下りた地点であり、御坂峠からは多くの祭祀的遺物が発見されている。これらの遺物については峠祭祀用具であるといわれ、峠を境とした境界祭祀がおこなわれていた場所と思われる。

   この境界祭祀にかかわりをもつ氏族は、阿智使主が率いてきたといわれる十七県の党類の後裔氏族に多くみられるという。(註14 加藤謙吉『大和政権と古代氏族』(吉川弘文館)九十二頁)後に東漢氏といわれる渡来系氏族であるが、境界祭祀は主に境部(坂合部)を称する集団がかかわっていた。御坂峠の信濃国側の麓に存在した阿智祝は、御坂峠にかかわる峠祭祀との関連があったのであろうか。(註15 桐原健『点描・信濃の古代』(信毎書籍出版センター)二一〇頁)阿智祝がこれらの氏族と同類であるならば、岩屋戸神話を奉じて戸隠に入山した行動も理解できる。すなわち岩屋戸神話とは、天の岩屋の内と外を境とする岩戸にかかわる境界祭祀といえるからである。この阿智祝が戸隠に思兼命および表春命を遷祀したのは、『昔事縁起』にみられる天暦年間の十世紀中頃と考えられる。(註16 『市村咸人全集』第二巻(下伊那郡教育会)一四一頁)

   このように、戸隠本来の信仰は七世紀末の持統朝に奉祭された水内神としての竜神信仰であったが、八世紀初頭の文武朝以後に衰退が始まる。その後、九世紀前後に密教および修験道と習合する形で九頭竜神として復興し、さらに十世紀中頃、岩屋戸神話を奉ずる阿智祝の入山により、戸隠信仰の原形が重層的に形成されたのではないかと考える。