宮沢レポート 【AI時代における哲学】 | 宮沢たかひと Powered by Ameba
私は常々「科学と哲学」および「政治と哲学」の関係に興味を持っていました。まだ哲学の初学者ですが、竹田先生の著書を読みながら、来たるAI 時代の哲学について考えてみたいと思います。

以下、竹田青嗣著「自分を知るための哲学入門」(筑摩書房)を引用しながら持論を述べます。

近代という時代は、はじめて神学的な世界の説明を離れて、人間が合理的な思考で世界のありようを認識できるという信念が成立した時代だった。ガリレイやニュートンに象徴される近代の自然科学はそういう信念の上に目覚ましい発達をとげていた。このとき、哲学上では、その信念を脅かすような難問が出てきていたわけである。つまり、もし人間の認識が客観と一致する保証がないとしたら、哲学のみならず科学的認識の努力も意味がないことになる。主観―客観の一致問題は、そういった近代の合理主義精神の根本にかかわる大問題であり、そのためにこれがデカルト以降ヘーゲルに至る近代哲学全体の根本問題となったのである。』(p144)

「主観―客観の一致問題」がそんなに哲学界において重大な問題になっていたとは知りませんでした。ヒトは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という五感を総動員して目の前にあるモノをそれぞれのヒトの脳で認識するので、またそのヒトの属性(性別、年齢、民族、生活環境等)にも影響されるでしょうから、「認識のあり方」は多様であり、客観性との一致を求めるのは困難と思います。また、同問題は今後脳科学の進歩に左右されることでしょう。

デカルトは以下のような方法で客観と主観は一致すると主張しました。

デカルトこの難問を「神は存在する」という証明によって解決したことになる。神は欺かない。だからわれわれは、人間に与えられた認識能力と客観の一致を信じていいのだ、と』 (p146)

しかし、神を持ちだしても、現代では受け入れられません。

 「主観―客観の一致問題」から「精神と身体の二元性をどう考えるか」という問題も派生してくるそうです。

デカルトでは、精神と物質はまったく異質な二つの原理である。人間は物質的な肉体とそこに宿る精神から成る。・・・どこからどこまでが身体で、どの部分が精神なのかという線引きの問題として現れた。たとえばデカルトは感情=情念は身体的(物質的)原理だと言うのだが、感情と心(精神)を明確に線引きすることは、メルロ=ポンティなどがよく示したように、これを詳しく考えれば考えるほどむずかしくなるのである。』(p149-150)

生意気な個人的見解を述べさせていただければ、正直、個々人によって異なる多様な認識(主観)と客観を一致することになぜそれほどこだわるのか、私にはわかりません。また、感情と精神は、解剖学的には扁桃体と前頭葉に置き換えられるかもしれませんが、その二つだけで説明できるほど脳機能は単純ではありません。

竹田先生は以下に重要なことを述べています。

『ここで肝心なのは、二元論の統一として新たに登場した一元論は、物の秩序と心の秩序は異質なものだというわたしたちのナイーヴな実感を決して説得できないし、また二元論のほうは哲学の本性である一原理性を満足できない、ということが生じ、この対立は泥沼化してくるという点だ。』(p153)

哲学は懐疑論を快く受け入れる学問のようですので、「哲学という学問」について現時点での私の率直な見解を述べます。

まず、哲学は人間の思考法と思考プロセスを学問しているという意味で、極めて重要な学問と思います。しかし一方で、哲学は歴史的に宗教やさまざまな思想に影響を受けていますが、それぞれの時代の人々(庶民)にどのような恩恵がもたらされたのかよくわかりません。「哲学」という学問に携わる学者たちの間で難解な言葉を駆使して議論してきたものの、それぞれの時代に生きる人々(庶民)にどのような貢献したのかを、解析とアピールする努力をしてこなかったように見えます。

今後数十年間でAI(人工知能)が発達し、人間しかできなかった知的作業がAIに奪われ、人間の存在意義が問われる時代になります。そのような時代にこそ哲学が活躍し、迷える人類に活き活きと生きるための思考法と指針を与えながら、人類を導くのが哲学の新しい使命であると思います。

また、政治は極めて哲学的要素が強い営みですが、来たるAI 時代に備え、現役の政治家はもっと哲学的素養を備えて議論する必要があります。

すなわち、哲学者も政治家も、変わらなければいけない時代になりつつあると思います。  



参考: 竹田青嗣著「自分を知るための哲学入門」(筑摩書房)