【脳神経外科医から国会議員へ、その軌跡】 | 宮沢たかひと Powered by Ameba
■第46回衆議院議員総選挙

 2012年12月16日深夜、私は第46回衆議院議員総選挙において47,870票を獲得し、北陸信越ブロックで比例復活当選が決まった。雪がちらつく長野市内の狭い選挙事務所で、地元の報道陣から次々とインタビューを受ける中、事務所の電話と私の携帯電話が鳴りっぱなしになった。
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 同年2月にさかのぼる。橋下徹大阪市長の政治哲学に共鳴した私は、同年3月から大阪維新の会が主催する「維新政治塾」に通い始めた。「維新政治塾」には3326名の申請があり、最終的に160名ほどが衆議院議員選挙候補者として選抜され、私もその中に入った(最終的に維新政治塾出身者で衆議院議員となったのは16名であった)。
 野田首相による突然の衆議院解散宣言後の2012年11月22日午前11時頃、大阪維新の会から、長野一区での衆議院議員総選挙出馬要請があった。その後、2時間ほど熟考した。自分は政治家になって何をやりたいのか?、57歳という年齢で国会議員になってできることがあるのか?、選挙に出て勝てる見込みはあるのか?、学会発表しかやったことのない自分が人前で選挙演説するなどということができるのか?等々、最初はどちらかというと断る理由ばかり考えていた。
 一方で、いずれ脳外科手術はできない年齢になる、子どもたちは成人したし何も失うものはない、医療崩壊寸前の医療界を立て直すには現場で医師をやっていたのではダメだ、などのプラス指向の考えも巡っていた。まさに、マイナス指向の自分とプラス指向の自分が闘っていた。結局、もともと好奇心旺盛で新しいもの好きのプラス指向の私が勝ち、出馬を決意した。
 その後、嵐のような3週間の選挙期間となった。ここに多くを書けないが、今思うとお笑いネタになりそうな素人選挙活動であった。

■なぜ、政治の道を志したのか

 改めて、私がなぜ政治の道を志したのか、考えてみたい。
1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した。同年の6月には天安門事件が勃発し、世界が政治的に大きく揺れた年であった。私は同年8月から西ドイツ、ケルン市のマックスプランク神経病研究所において研究生活を送っていた。同年12月、クリスマス休暇をとって訪れたベルリンにおいてブランデンブルグ門開門の瞬間に立ち会い、東側からなだれ込んできた数万人の東ドイツ人にもみくちゃにされた瞬間、政治をおろそかにすると大変な事態になることを知り、私の中で何らかの“スイッチ”が入った。1991年8月に帰国後は、脳神経外科医および研究者として仕事に没頭していたが、日本政治の混迷ぶりには辟易としていた。
 2009年8月の総選挙で自民党から民主党への政権交代が起こり、私も他の国民と同様、これで日本は変われると期待感をもって民主党政治を見ていた。しかし、その期待は見事に裏切られ、特に2011年3月11日の東日本大震災以降は目を覆いたくなるような惨状となった。かといって、自分が政治を何とかできる立場にあるわけではないことに歯がゆさを感じていた。「このままでは日本は沈む!」という危機感が、私を動かした。

■大学病院を退職

 実は、40歳を過ぎたあたりから、脳神経外科医として仕事に没頭するかたわら、医学以外の学問、例えば法学、経営学、政治学に興味がわき、これらの方面の本を読むことが多くなっていた。45歳前後に司法試験予備校の在宅講座を自宅で受講したこともある。脳神経外科医のピークは55歳くらいと考えていたので、50歳を過ぎてからは引退の時期と脳神経外科手術を止めた後の自分のあり方を考えるようになった。そして、2009年5月、54歳で防衛医科大学校病院を退職した。 
 2010年4月から都内の経営大学院に通い始めた。もっぱら夜間と週末、30~40歳代の若いビジネスマンたちと一緒に、「会計学」、「ファイナンス理論」、「リーダーシップ論」などの科目を受講した。講義内容は難解であったが、医学部では学べない学問は興味深く、私より若い講師とのinteractive lecture は楽しかった。医学論文とは異質なビジネスレポートを四苦八苦しながら書いたのもよい思い出である。この経営大学院には3年間通い、2013年の3月に卒業し、MBA(経営学修士)資格を取得した。

■国会

 2012年12月27日、初登院の日、国会議事堂に正面玄関から入り、衆議院議員徽章をつけてもらい、赤絨毯の上に立った。実は、30歳代後半、当時知り合いであった某代議士に国会内を案内してもらい、この赤絨毯の上に立ったとき「私はここに再び来るかもしれない」という予感があった。まさか自分が国会議員として来るとは思っていなかったが、不思議な運命を感じる。
 翌年の2013年1月28日、第183回通常国会が召集された。本会議場では、先輩議員から国会内の慣習や立ち居振る舞いを教わった。3月12日には、初めての予算委員会で安倍首相や閣僚と対面し、緊張の質疑をこなした。また、厚生労働委員として常々疑問に思っていた医療行政のテーマについて、厚生労働大臣と厚生労働省の官僚たちに質問した。不可思議な国会内慣習には違和感を覚えることもあったが、この約1年間は慣れない中できることを必死にやっていた、というのが正直なところである。

■これからの政治

 選挙期間中、「100年後の子どもたちのために!」をスローガンに闘った。その趣旨は、

<巷間言われている世代間格差は所詮今生きる人間の中の問題に過ぎず、本当の弱者とはこれから生まれてこようとする我々の子孫であり、さらに人間の判断に運命を委ねざるを得ない動物や植物、地球そのものである。このような、「モノ言えない命」に対して責任を負っているのが今生きるわれわれであり、政治家は今生きる人間のみでなく未来の命のために考え動かなくてはならない> 

というものである。
 冷戦終了後、かつての巨大野党社会党が弱体化して戦後の55年体制が終わり、日本政治のあり方自体が問われている。イデオロギー対立による政治は終わり、日本はグローバリゼーションの荒波にもまれる中で現実的、実務的かつスピード感ある政治的判断が必要とされている。アメリカのサポートに依存する時代は終わり、日本人は自助および共助によって自立し、日本国は自律した主権国家にならなくてはならない。
 同時に、政治家のあり方も問われている。票を得るために選挙区である地元に利益誘導するのが政治家と思われていた時代は終わった。政治家の本来の役目は、国家と地球の命運を左右する政策や法案について勉強し、地元民の意見を拝聴し、議論し、国会に反映することである。政治家が一方的にしゃべって終わりではなく、地元民との双方向議論こそが重要である。
 「政治改革」を成し遂げるためには、まず「政治家改革」が必要なのではないか?日本の政治家は「政治屋(politician)」なのか「政治家(statesman)」なのかを問われている。今後私は、地元住民との新しい関わり方、地元への新しい貢献の仕方を考えながら、新しい政治家像をつくりたい。

2013年11月4日
衆議院議員 宮沢隆仁