極私的な評伝 友人・瀧本哲史君の逝去によせて | 宮崎タケシ公式ブログ

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『僕は君たちに武器を配りたい』『ミライの授業』などの著者として知られるタッキーこと瀧本哲史君(京都大学客員准教授)が亡くなりました。学生弁論界の一年後輩で、足掛け30年のお付き合いでした。未だまったく現実感がないのですが、記憶が薄れる前に瀧本君との思い出を幾つか書き残しておきたいと思います。彼からFacebookを通じてもらったメッセージの一部も、当たり障りのない範囲で、誤字脱字をそのままにして書き残しておきたいと思います。あくまで「当たり障りのない範囲」に限りますが。

 

 彼と初めて会ったのは、私が中央大学辞達学会の二年生、彼が一高東大弁論部の一年生の時です。彼は東大法学部で一、二を争うと言われた秀才で、傲岸不遜にして多智多弁。官僚支配の全盛期、サークルの先輩の多くが霞ヶ関に進む中で「私は官僚にはなりませんよ。大蔵省に入るのは東大でトップになれなかった人たちですよ」と放言するようなタイプでした。

他人を容赦なく批判し、露骨に馬鹿にすることも少なからずあり、それでもいつも周囲に人が集まっていました。それは、彼の発言に裏表と悪意がまったくなかったこと、ユーモアに富んでいたこと、なによりその人懐っこい性格の故でしょう。「理外の理」を信奉する私とはタイプがまったく違いましたが、なぜか馬が合いました。

 

彼は弁論部ではディベートに打ち込み、選手のみならず指導者として練習メソッドやマニュアルの整備に取り組みました。その功績は「学生日本語ディベートの完成者」と言っても過言ではありません。私が2012年の衆院選で落選した後、公立長岡造形大学でディベートの講義を受け持った際も、彼のメソッドを大いに活用させてもらいました。

おそらく私が三年次に、愛知県蒲郡市で開かれた友愛杯争奪弁論大会に出場した時、彼は「学校教育にディベートを導入せよ」という主旨の弁論をしました。終了後のレセプションで、私が「あまりに陳腐じゃないか。君が伝えたいのはあんなことか」となじると、彼は「会場が管理教育で有名な愛知だからこそこのテーマなんですよ」と言い訳しました。

しかし、彼はその後も、まさに物理的に死ぬまで、若者にディベートを伝え続けました。彼の著作も煎じ詰めれば「ディベート的な思考を持て」という内容でした。彼が次の世代に伝えたかったのは、まさにディベートによって養われるべき論理的な思考であり、あの友愛杯の弁論は彼の魂の叫びだったのです。

 

彼が伝えようとしたのは、「人間が自由に生きようとするなら、研ぎ澄まされた論理的思考と、それを伝える技術が必要なのだ」ということなのでしょう。私が大学で受け持ったディベートの授業の主眼も結局そういうことになったのは、偶然ではなく必然なのでしょう。

ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終結し、あらゆるイデオロギーが揺らいだ平成初頭の弁論界で、世界秩序の再構築に向けた新しい論理を追い求めた世代。時代の空気に翻弄されながら、時代遅れと蔑まれていた学生雄弁界を中興し、第三の黄金期を作り上げ、あるいはその洗礼を浴びた世代。

爾来30年。ますます閉塞していく世界の中で、時代の同調圧力と戦うために「論理という武器を持て」と、彼は訴え続けていました。『僕は君たちに武器を配りたい』の冒頭は、次のような言葉で始まります。「本書は、これから社会に旅立つ、あるいは旅立ったばかりの若者が、非情で残酷な日本社会で戦うための『ゲリラ戦』のすすめである」。

 

私が四年生の時、サークルの同期で、全関東学生雄弁連盟の委員長を務めた上念司君(今は経済評論家)が「最強の弁士を養成する」と言い出したことが契機となり、のちに伝説として語り継がれることになる「『草の会』合宿」が開かれました。会場は私の祖父が当時、草津に持っていた小さな別荘でした。

上念君の趣味で「弁聖」という仰々しい名前がつけられた講師は、弁論班が小池英雄君と私、ディベート班が上念君とタッキーでした。その合宿では一言では言い尽くせない様々なことが起こり、オウム真理教事件の際には「草の会」合宿との類似性が仲間内で大いに話題になったのですが、それは本論から離れるので割愛します。

当時、学生雄弁界ではすでに「議論で瀧本に勝てる者なし」と言われていましたが、私はその合宿で“対瀧本必勝法”を編み出しました。それは議論において彼が調子に乗って畳みかけようとした瞬間に、「君は麻布・東大のエリートだから底辺の這う人間の思いはわからんのだ!」と叩きつけるものでした。言われた瞬間、彼は絶句してしまうのです。

それを3度、4度と繰り返すと、彼は顔を真っ赤にして抗議してきました。「宮崎さん、それは“卑怯”ですよ!」と。たしかに卑怯なので、私はその戦法を封印しました。タッキーは「私の属性と、論理の正しさとは無関係ですよね」とでも軽く反論できたはずですが、そうはしませんでした。お得意のロジックから離れて、「卑怯ですよ」と自分の感情を前面に押し出して抗議しました。

彼は表面に出る言動から醸し出すイメージと違って、とても人間的で、常に自分がエリートであることについて誇りと同時にやましさを持っていました。「自分はトップエリートであるからこそ、弱い人の側に立たなければならないのだ」と無邪気に信じていて、時にそこから外れてしまう自分自身を、歯がゆく思っていたのかもしれません。

 彼が著書でひたすら否定し続けたのは「人材のコモディティ化」でした。私流に解釈すれば「人間は歯車ではない。歯車になるな。いくら勉強ができようが仕事ができようが、歯車は歯車にすぎない」ということでしょう。トップエリートである彼は、社会的には歯車を回す立場の人間だったはずですが、そのような自らのあり方を拒否していました。

 

私が政治家の道を進んでから、彼がメール等で連絡してくるのは、大半は私が苦境に追い込まれている時でした。こちらが好調な時にだけ連絡してきて落ちぶれた時には音沙汰がなくなる人は大勢いるのですが、彼は逆でした。

Facebookで初めてもらったメッセージは、私が意味不明の疑惑でマスコミに叩かれた時です。「例の○○報道にはかなり怒りを覚えました。タイミングからしても。。負けずに頑張って下さい」「それくらい、敵も追い詰められてきたと言うことなのでしょうね」。私が消費税引き上げ反対で孤軍奮闘していた時期なので、彼は増税派からの攻撃だと受け止めたのでしょう。うがち過ぎのような気もしますが、勇気づけられました。

 

2016(平成28)年、唐突にこんなメッセージをもらいました。「Kさんの件からだいぶたちましたが、ドラッグラグとか、先端医療の保険適用のテーマってごかんしんあります?」「○○大の先生から、誰か取り上げてくれそうな議員を紹介してほしいといわれまして」。

Kさんとは、学習院大学輔仁会弁論部OGで、若くして亡くなった女性です。希望する薬剤を首都圏の病院で使ってもらえず、ようやく私が紹介した病院で自由診療で使えそうになった矢先、受診日前夜に体調を崩して亡くなってしまいました。私の国会初質問はこのKさんのことで、その結果、この薬は保険適用されることになったのでした。

「宮崎先生はこんなこともやっているんだ絶対に国会に残ってもらおうと地元選挙民に知ってもらいたいと思うのです。ライフワークたり得ると思いますし。一度資料をまとめて、その先生とご相談に上がります。必要であれば質問の資料を作ったりも出来ます」

案件は、新しい治療法の確立を阻害する制度上の障壁を、何とかして欲しい、というものでした。「あなたに点数を稼がせてあげますよ」とでも言いたげに頼みごとをしてくるのは、相も変わらぬタッキー節なのですが、なぜ彼が私に頼んだのかは、少々不可解ではありました。

麻布高校、東大法学部、マッキンゼー、京都大客員准教授とエリートコースを歩んできた彼には、国会議員の友人知人が軽く十人以上はいます。高校の同級生だけで国会議員が2人いるし、仕事上では複数の大臣級議員と絡んでいます。なんでまた、野党の下っ端にすぎない私なのか。

 

少々横道にそれますが、その頃の彼は、長年ビジネスでタッグを組んでいた上念君から離れたことが遠因となって、東大以外の弁論部の卒業生とは少々縁遠くなっていました。私は「色々難しいところがあるそうだが、みんなが彼に影響されているわけでもないので、気が向いたら弁論部の集まりにも顔を見せてください」とメッセージを送りました。

彼の返答は「そう、弁論部、いろいろ、お互いに闘っているし、極端な人いて、あまり上念さんと近いと思われるとまずいなというのはあります。なので、実際の気持ち以上に上念さんとは決別感出しているというのはあります」というものでした。

彼が上念君と「切れた」のは仲間内では周知の事実でしたが、少なくとも私に対して、タッキーは生涯、上念君について批難めいたことは言いませんでした。私の方からは言ったかも知れませんが(笑)。

 

厚労省のヒアリング後に、瀧本君からこんなメッセージが来ました。

「議員としての、宮崎さんの仕事ぶりを初めて見ましたが、まさにstatesman(筆者注・ステーツマン=良い意味での政治家)という迫力を感じました」

彼はおべんちゃらを言うことは皆無で、それどころか滅多に人を褒めない人間でもあったので、その時は軽く驚きました。正直嬉しかったし、「タッキーもずいぶん丸くなったなあ。お世辞のひとつも言えるようになったか」とも思いました。

この案件、私としてはさほど手応えはなかったのですが、彼によれば厚労省の反応は一変したとのことであり、のちに「例の○○大の先生の件も、宮崎さんの質問で前に進める突破口が見つかり、少しずつ進んでいます。いろいろありがとうございました」というメッセージをもらいました。

今にして思えば、彼はその時すでに、自分の病気について知っていたのかもしれません。だとすれば、私に頼んできたことも腑に落ちるのです。秘書に任せず、役所に投げず、空気も読まず、彼の希望通りに直球でガツガツ迫っていくう点だけは、彼が知っている国会議員の中で私が一番だったかもしれません。

その治療法が彼の病気と直接関係がなかったとしても、彼なりのロジックで、自分が一番納得できる道筋を選んだのではないか、と感じるのです。その少し前に次のようなメッセージをいただいていました。「宮崎さんは、なんといっても消費税の景気条項で日本破滅を止めたのがリアルに凄いことだと思いますが、結構、成果上げている国会議員ですね」

 

2017年の森友・加計問題の追及の時期には、幾度か激励のメッセージをもらいました。

「宮崎さんの質問よかったですね。あれで、メディアも取材するポイントが絞られて、 的外れな報道がなくなるかと。ディベート的に言えば、反駁に直結する尋問ということですね」

「予算委員会見ました。総理からも、『お褒めの言葉』(筆者注・総理のヤジのこと)が出てて、かなりいたいとこ、突いてるなと思いました。次の選挙では、向こうも全力で来るかと思いますが、返り討ちにしてください」。

 

 同年10月の落選後、もらったメッセージは次のようなもの。

「残念無念ですが、宮崎さんの名前を書いた人はこの投票率で前々回、前回に比べてかなりのびたのですから、一年半後に必ずや機会が来ると思います」

「たられば、ですが、共産票を足せば逆転可能な高さではあります。今後どのような体制でやららるのか、決まったら教えてください。渡しもささやかながら支援させて頂きます。実はここまで迫ったのは、特集要因の2009除けば初めてなわけで。とはいえ維新の票の取り合いで負けた、(中略)逆に言えば、改善の余地もあると思います」

 そして、私の生活の糧についての心配。

「ライターをやったりする可能性はあります?仕事を探して見ることは可能です」

「○○あたりから執筆依頼あればかきますか?」「とりあえず先方に打診しました。あと、小説の執筆とかリライトとか、興味あります?」

 その後、実業についての話になったのですが、彼のアドバイスはいつも高尚な経営戦略論になってしまうので、残念ながら実務的にはあまり参考にならなかったのは事実です。とはいえ、私の落選後の生計を心配してアクションを起こしてくれた人はおそらく五指に満たず、その一人が冷徹なる合理主義者、瀧本哲史だったことは、意外であり、嬉しくもありました。

 

 彼が亡くなる直前の一年間は、連絡を取ることもありませんでした。いただいた最後のメッセージは昨年、2018年の3月。Facebookで私の投稿に「あんたは地元の産業の実態を何もわかってないし、やる気もない」という趣旨のコメントがついた時でした。

「宮崎さんは、自動車産業の未来とかの話しも地元でしているわけで、そういうところはそういうこともしているという反論もした方が良いですよ。そう言う意味では世界も見ている訳で」

 それが、最後のやり取りになってしまいました。

 

 瀧本君のことを考える時に、いつも思い出すエピソードがあります。社会人になってかなり経ってから、おそらく学生雄弁界の同窓会の帰りに、大きな交差点の信号待ちで交わした会話です。

私が質問しました。「タッキーは結婚せんのか?」。彼の回答はこうでした。「結婚ですか?どんなメリットがあります?」。たぶん私は「そういうもんじゃないだろう」と言ったと思うし、記憶は曖昧ですが、タッキーは「デメリットは把握していますので、結婚のメリットを3つ挙げてください」というようなことを言った気がします。いかにも、言いそうなのです。それ以来、「こいつは一生結婚しないんだろうな」と思っていました。

死が公表された後、報道で流れた訃報には「喪主は妻の○○さん」との記述がありました。タッキーも年輪を経て、何か思うところがあったのでしょうか。ああ、彼は47年の短い生涯の晩年に至るまで、色々なものを見つけ続けたのかなあ、と思いました。

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