昨晩、皆既月食を見ました。ちゃんと見たのは、10年ぶりくらいです。あらためて見ても面白いものです。



さて、月と言えばすぐ思い出すことがあります。学生の頃、海の近くに住んでいた時があります。この頃、しょっちゅう 海へシュノーケリングへ行ってました。午前中に3時間、お昼からまた3時間、そして、夜に2時間と一日中、海で泳いでいることもよくありました。
これだけ長く海の中にいると、潮の干満のサイクルが、海の生物にものすごい影響を与えているのかが実感としてわかるようになります。そして月の満ち欠けが月の位置が今日の潮の動きを教えてくれているということを肌身にしみて感じるようになります。月を見上げる度に海の中のうごめく潮のながれとそれに突き動かされる海の生き物達が思い出されます。




潮が干いていく時は、
浅瀬から引き上げてくる水の流れに乗って、帰宅を急ぐかのように魚たちは沖を目指して泳いでいきます。リップカレントがおこるような引き潮の集まるような所では、魚の帰宅ラッシュが起こります。普段は余り群れない大型の魚のタマンが100匹以上集まり駈けるように沖へ帰っていくのを見たことがあります。踏み切りで電車が通り過ぎていくような感覚になります。波うち際近くでは、淀んだ水が潮に引かれて沖に戻ろうとします。溜まった海藻やゴミが海底を這うように動いてくると、海底の生物たちは逃げたすように隠れてしまいます。イソギンャクやイバラカンザシ(写真1)は縮んで引っ込みます。カニやウニ達も流されないように岩の隙間に入り込んてつかまります。



反対に、満ち潮では、
沖からやってくる新鮮な海水に乗ってゆっくりと魚達は浅瀬を目指します。波が沖からくるたびに海底の膜が剥がされるように見えます。隠れていたゴカイやコエビのような小さな生き物があらわになり、そこを魚が狙ってつついています。あっちつつき、こっちつつきしながら散歩と食事をゆったり楽しんでます。
サンゴやイソギンチャク達も触手を伸ばし、口を開いてプランクトンをとらえようとしています。まさに食事どきです。




満月や新月の大潮の日は、生き物達は特に大きく動きます。現れる魚達の数は増えて動きも活発になります。海底の膜も何枚も剥がされ海岸のモノタチが沢山沖へと引き込まれてしまいます。


新月の晩に海に潜ると、海は普段と全く違う顔つきを見せます。
昼間あれだけ沢山いたスズメダイやチョウチョウオの仲間達はどこかに行ってしまい、全く違う生き物達が顔を見せます。ゴシキエビと言ったイセエビの仲間やホラ貝やヤコウガイと言った大型の巻貝達。岩の隙間から細長いモヤシのような触手をダラーと伸ばして海底に溜まったエサ?を集める?ボネリムシ達。サンゴやイソギンチャク達も盛んに触手を伸ばしてプランクトンをとらえています。珍しいものでは、テヅルモヅル(写真1)というものを見ました。クモヒトデの仲間なのですが、腕が先にいくに従い幾重にも枝分かれして気の根ように込みあってます。そして、枝分かれした先は細いツル巻きのようになっていて各自がモゾモゾ動くのです。移動する時はこの細かいツル巻きが回りのものに巻きついて彼の身体を引っ張ります。ナマで動いているものを見るとものすごいインパクトです。こんな動物が存在して生きて動いていることに驚きます。





新月の夜は、どこからともなく地面から這い出してきた触手達によって海底を撫でまわされて掃除されてるかのようです。





この月の干満が海の生き物達に与える影響の大きさを見ていると、当然、陸の人間にも影響を与えているに違いないと素朴に私は思っていました。人体の体液は海水みたいなものです。月に引っ張られたり、突き放されたりしてるに違いないと思っていました。
ところが、鍼灸師の仕事をするようになって、自分の「からだ」を観察するようになってから、この考えに保留を付けるようになってきました。
日々の自分の「からだ」の変化を、干満の時間や月の満ち欠けの周期と照らして観察していても、同調するような変化がうまく見つけられないのです。それよりも、毎日の天気だとか、気圧や温度、湿度に反応している部分ばかり目につきます。




もしかすると、私達人間はもう月から切り離されてしまっているのかもしれません。もし、まだ切り離されていないとしても、影響はごく僅かなのでしょう。天気や湿度の波の大きさに打ち消されて、ほとんど見えなくなってしまっているということになります。




思えば海の生き物達は、海に包まれ海のリズムに委ねて同調して生きています。ひっくり返して見ると、そのリズムから抜け出して自由に生きる能力や意思を持たないのです。




人間は違います。海のリズムを抜け出し、そして大気のリズムに合わせることを覚えました。そして、さらに大気のリズムも抜け出そうとしています。新しい環境に合わせて新しいリズムを作り出そうとしているかのように見えます。ここが、人間の自由と意思が生まれる下地であるように私には見えます。


この新しいリズムは、最早、単なる母なる自然では、ありえません。人間の本性に従っていれば自然に達成出来るようなものではなくなっているように思います。
ほんの少し意思や理性が必要な気がします。少し小賢しくて嫌な感じを受けて人気のない言葉達です。けれども、少々は理性と意思を使わなければ新しいリズムは作れない所まで来ているのではないでしょうか?

そして使うべき方向性は


「からだ」の声を聴いて相談する



という方向なのだろうなと私は思うのです。


今回の皆既月食の間も、自分の「からだ」の変化を探していましたが、目立った変化を見つけることは出来ません。




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