3087.天(24) 天の暦数、爾の躬に在り | 論語ブログ

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天(24) 天の暦数、爾の躬に在り

 

堯(ぎょう)曰わく、咨(ああ)、爾(なんじ)舜(しゅん)、天の暦数(れきすう)、爾(なんじ)の躬(み)に在(あ)り。充(まこと)に其の中(ちゅう)を執(と)れ。四海困窮せば、天禄永く終えん。

舜(しゅん)も亦(また)以て禹(う)に命ず。

曰わく、予(われ)小子(しょうし)履(り)、敢(あえ)て玄牡(げんぼ)を用いて、敢(あえ)て昭(あき)らかに皇皇(こうこう)たる后帝(こうてい)に告ぐ。罪有らば敢(あえ)て赦(ゆる)さず。帝臣(ていしん)蔽(かく)さず。簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕(わ)が躬(み)、罪有らば、萬邦(ばんぽう)を以てすること無かれ。萬邦(ばんぽう)罪有らば、罪朕(わが)が躬(み)に在らん。

周に大いなる賚(たまもの)有り。善人(ぜんにん)是れ富(と)めり。周親(しゅうしん)有りと雖も、仁人(じんじん)に如(し)かず。百姓(ひゃくせい)過(あやまち)有らば、予(われ)一人(いちにん)に在らん。

權量(けんりょう)を謹(つつし)み、法度(ほうど)を審(つまび)らかにし、廢官(はいかん)を修むれば、四方の政(まつりごと)行われん。滅国(めっこく)を興(おこし)し絶世(ぜっせい)を継(つ)ぎ、逸民(いつみん)を擧(あ)ぐれば、天下の民心(こころ)を帰せん。民に重んずる所は、食・喪祭(そうさい)。寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち民任じ、敏なれば則ち功有り、公なれば則ち説(よろこ)ぶ。

 堯曰第二十   仮名論語3071行目です。

 伊與田覺先生の解釈です。

堯帝が、天子の位を舜帝に譲られた時に言われた。「ああ、なんじ舜よ。天命は、今やなんじの身に下って、帝位につくべき時であるぞ。よく中道をふんで政を行え。もし天下万民を困窮させることがあれば、天の恵みは永久に断絶するであろう」

舜帝もまた夏の禹王に同じ言葉を以て位を譲られた。

(殷の湯王が天子の位についた時、天帝に告げて言われた)「私はふつつかな履というものでございますが、つつしんで黒い牡牛を生贄(いけにえ)にして、あえてはっきりと至大至高の天帝に申しあげます。私は天帝に罪を得た者(夏の桀王)は許しませんでした。天帝の臣下(賢人)はその徳がかくれないように、すべて御心のままに選びましょう。もし我が身に罪があらば、それは吾(われ)一人の罪であって、万民(万邦の民)をわずらわさないでください。万民に罪があらばそれは万民の罪ではなくて、すべて私にあるのでございます」

(周の武王も、天子になった時、天帝に誓って言われた)「周に下された大きな賜物がございます。それは善人が多いことでございます。いかに親しい身内の者がおりましょうとも、仁人の多いのには及びません。かように仁人が多くても、なお百姓(国民)に罪がありますならば、それは私一人の罪でございます。

(武王は)度量衡を厳正にし、礼楽制度をととのえ、すたれた官職を復活させれば、四方の政はうまくいくであろう。滅んだ国を復活させ、絶えた家を引き継がせ野にある賢者を挙げ用いれば、天下の民は心から喜んで従うようになるだろう。民の生活の上で、重んずることは食・喪・祭である。又、上に立つ者が寛(おおらか)であれば人望が得られ、信(まこと)があれば民より頼られ、機敏なれば功績が上り、公正であれば民はよろこぶ」と政治の要道を示された。

 

この章では、「天」は三度出てきます。「天の暦数」天が与えた統治の順序。「天禄永く終えん」天の恵みは永久に断絶する。「天下の民心を帰せん」天下の民は心から喜んで従うの三度です。前の二つは私達に「命」を授ける存在であり、最期の一つは私達の住むこの地の事を言っています。

下論十篇の終で全書二十篇の最後に位置する堯曰第二十は、大変特殊な篇になっています。上論の最後の郷黨第十も、内容と構成が特殊でしたが、この篇は一層甚だしい感じを受けます。

この堯曰二十は三章だけです。第一章は堯・舜・禹・武王の王朝の交代に際しての言葉やその収録です。

中国の歴史の始まりを言う場合、現在のように考古学の発掘がなされていなかった頃、すなわち二十世紀初頭までは、三皇五帝という言葉が使われていました。

しかし、孔子より四百年ほど後に出た司馬遷は「史記」を書いた時、五帝本紀を巻頭に置き、中国の歴史の始まりとして、それ以前の三皇時代は伝説時代として切り捨てています。

五帝にも色々の数え方はありますが、司馬遷は黄帝・顓頊(せんきょく)・嚳(こく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)としました。

「論語」には三皇だけでなく、五帝も初めの三人は出てきません。出てくるのは堯からです。同様のことは、五経の一つであり、古の聖天子や名臣の言葉を集めた「書経」(尚書(しょうしょ)とも言います)にも言えます。「書経」も巻頭には「堯典」が置かれています。

堯とその次の舜は聖帝として、儒家が非常に尊んでいます。絶対的な価値を置いていると言って良いでしょう。堯・舜単独でも用いられますし、堯舜あるいは唐虞(とうぐ)と続ける場合もあります。

唐とは、堯は初め陶(とう)に住み、のちに唐(とう)に移ったので、陶唐氏(とうとうし)と呼ばれました。その唐と、虞(ぐ)は帝舜の姓有虞氏(ゆうぐし)の虞(ぐ)を指します。さらに禹を加えて堯舜禹(ぎょうしゅんう)と言う場合もあります。

「堯曰わく、咨(ああ)、爾舜、天の暦数、爾の躬に在り」・・・古代の聖王である堯が、舜に天子の位を譲るに当たって、こう宣示しました。舜よ、天命による統治の大権(天の歴数)は、これからは汝に移る。完全なる道徳者である君主堯が自己の後継者に選んだのが舜です。舜もまた、立派な道徳者です。その舜に禅譲・平和的に帝位を譲り渡そうとした時の言葉です。当時帝王の交代は天の命によるとされていました。天の歴数というのはそれを表しています。

「充(まこと)に其の中を執れ。四海困窮せば、天禄永く終えん」・・・しかと公平中庸であれ。もし失敗があり天下の人々が窮することが極まれば、天の命による大権は永遠に絶え果てることになるであろう。帝王の心得である誠実に中庸の道にそって政治を行えば四もの海の果てまで天から幸福が与えられ永遠に続いていくのです。しかし政治が常道をはずれ、困窮するようなことがあればせっかく天から与えられた幸福も永遠に絶滅終熄するということです。

「舜も亦以て禹に命ず」・・・舜は、禹に天子の位を譲った時にもまた同じ言葉をもちいています。禹に関しては「舜亦以命禹」の五字のみです。舜から禅譲された禹は第三者の賢人に譲位せず、帝位をその子供に伝えました。この夏王朝は血統による帝位の継承・世襲の始まりとなり、時は流れて29代桀王の時、桀王を悪逆無道として伐ち、殷王朝を建てたのが続いて出てくる湯王です。

「曰わく、予小子履、敢て玄牡を用いて、敢て昭らかに皇皇たる后帝に告ぐ」・・・

ここでは「曰わく」の前の「湯」という字が抜けていると思われます。

湯王はこう宣言しました。ふつつかなる私・履(湯王の名)は、ここに犠牲の黒い雄牛を供え、天下に明々白々と、大いなる天帝に申上げる。

堯から舜、舜から禹は、平和的な主権の交代「禅譲」であったのが、湯は武力による「放伐」でした。しかしこの度は人民を救うための誠意からのことであり、私欲のためではなかった事を示すものとして、その時、湯が天に告げた言葉としてここに出てきます。

「罪有らば敢て赦さず。帝臣蔽さず。簡ぶこと帝の心に在り。朕が躬、罪有らば、萬邦を以てすること無かれ。萬邦罪有らば、罪朕(わが)が躬に在らん」・・・帝臣(桀王)の罪を隠蔽いたしませんのは、その鑑別が天帝の御心に在るからであります。

もし私に罪があります時には、私の責任である諸侯たちの万国をせめなさいませんように。逆に万国に罪ありますときは、責任は私にあります。と。

これは正義の軍を起こす湯の、自己反省の言葉です。桀の罪は明白です。しかし、自分にも罪があるかもしれません。もし我身に罪があるのであれば、私だけに責任だと言っています。万民とは無関係ですがもし万民達が罪を犯したならば、その罪も私から出たものであり、指導者として自分自身がかぶります。とまで言っています。犯罪は犯罪者自身の責任であるよりも、周辺社会の責任であるという考え方なのでしょう。為政者の責任は大きいですね。

 

つづく

                               宮 武 清 寛

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