3045.仁(48)予の不仁なるや | 論語ブログ

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仁(48予の不仁なるや

 

宰我問う、三年の喪は期にして已(すで)に久し。君子三年禮を為さずんば、禮必ず壊(やぶ)れん。三年楽を為さずんば、楽必ず崩れん。舊穀(きゅうこく)既に没(つ)きて新穀(しんこく)既に升(のぼ)る、燧(すい)を鑽(き)りて火を改む。期にして已(や)むべし。

子曰わく、夫(か)の稲を食い、夫の錦を衣て、女(なんじ)に於いて安きか。曰わく、安し。

女安くんば則ち之を為せ。夫(そ)れ君子の喪に居る、旨(うま)くを食らうも甘からず、楽を聞くも楽しからず、居處(きょしょ)安からず。故(ゆえ)に為さざるなり。今女安くんば則ち之を為せ。宰我出ず。

子曰わく、予の不仁なるや。子生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免る。夫れ三年の藻は天下の通喪なり。予や、三年の愛其の父母に有るか。

   陽貨第十七   仮名論語2737行目です。

   伊與田覺先生の解釈です。

宰我が尋ねた。「父母のためにする三年の喪というのはその期間がすでに長すぎます。もし君子が自ら三年も礼を修めなかったなら、礼は必ずすたれましょう。三年も音楽を修めなかったなら、音楽は必ずくずれましょう。旧穀はすでになくなって新穀が出てまいりましょう。また火を取る木をすりもみして火を作りかえます。従って一年でやめるべきだと思います」

先師が「お前は三年もたたないのに、うまい飯をたべ、美しい着物を着ても心は安らかかね」と尋ねられた。宰我は「安らかであります」と答えた。

先師は「お前が安ければそうしなさい、一体君子は喪中にはご馳走を食べてもうまくなく、音楽を聞いても楽しくなく、家に在っても安らかでない。そこで政務をとらないのである。今お前の心が安ければ、そうするがよい」と言われた。

宰我が出て行った。

先師が居合わせた門人達に「宰予はなんと不仁なことよ。子が生まれて三年、漸(ようや)く父母の懐をはなれるのである。一体三年の喪は、世の中の人が誰もやっている共通の喪である。宰予も三年の父母の保育の愛情を受けた筈(はず)なのに、忘れてしまったのであろうか」

 

この章は弟子の宰我が孔子に三年の喪について質問した章です。そこで、宰我は「不仁」である事を言っています。

宰我は「孔門十哲」の一人で、「言語には宰我・子貢」宰我は言語の人です。

姓は宰、名は予、字は子我。魯の人で孔子よりも26歳若い人です。

弁論に優れていた人です。一方、日中に昼寝をしていて、孔子を嘆かせました。後に斉の臨淄(りんし)の大夫となり、田常(陳成子)の乱に加わって、一族が皆殺しにされたということです。孔子はこの事を恥としたようです。

「宰我問う」、宰我が孔子に尋ねました。「親に対する服喪は三年と決まっていますが、一年での十分ではないでしょうか。君子が服喪のために三年も礼の儀式に参加しないでいたら、礼制はおろそかになってしまうでしょう。また、三年も音楽を遠慮していたら、音楽はすたれてしまうでしょう。そもそも、一年たてば古米は食べつくして新米が出回りますし、種火だって一年ごとに新しくするのですから」すると、孔子は言いました。「では親がなくなって一年そこそこで、うまいものを食い、いい着物を着る。それでお前は平気なのかね」「はい、まあ・・・」宰我は答えました。

「では、そうするがいい。親がなくなれば、ご馳走を食ってもうまくない、音楽を聞いても楽しくない。普通の暮らしをしても落ち着かない。だから君子は喪に服するのだよ。お前が平気だと言うなら、そうするがいい」宰我が退室すると、孔子は誰ともなく言いました。

「何と言うことだ。子は生まれてから三年は親の懐に抱かれている。その親の死後、三年の喪に服するのは常識だろう。宰我だって、三年は親に抱かれていただろうに」と。

当時、親が死んだら、子は三年間の喪に服さなければならないことになっていました。その間は公務を退き、衣食住もすべて規定に基づいて粗末にし、特別の生活をすることになっていたのです。

宰我という門人は、今でいえばドライな人だったのでしょう。形式と化した「喪」に意義を唱えたのです。これに対し、孔子は「形式より心の問題だ」と説きました。三年の喪を乳幼児生育期間と対比させたのは、おもしろいですね。

もともと、「孝」を形式的なものにし、強制してきたのは、後世の儒教なのですが、儒教の祖である孔子は、形式もきわめて重く見ましたが、それよりも「孝」の心を大切にしたのです。

心を伴わない見栄や義理と化した今日の冠婚葬祭を考えさされる言葉です。

宰我は、ここでは、三年の喪が長過ぎると言って不人情だと叱られています。

「子生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免る。夫れ三年の藻は天下の通喪なり」・・・子は生まれてから三年は親の懐に抱かれている。その親の死後、三年の喪に服するのは常識だろう。当時、親が死んだら、子は三年間の喪に服さなければならないことになっていました。その間は公務を退き、衣食住もすべて規定に基づいて粗末にし、特別の生活をすることになっていたのです。

 中国山東省曲譜の孔子の墓の左手に煉瓦を積んだ小さな建物があります。これが「子貢盧墓(しこうろぼ)の処(ところ)」の遺址です。孔子が紀元前479年に亡くなった後、弟子達は師を失った深い悲しみをどのように形に表すべきか、いろいろ相談を重ねただろうと思います。

通常、肉親の者が死去した場合は、遺族は一定の期間、社会的生活から退き、引きこもって慎み深い生活を送ります。この「喪に服する」期間を設定することによって、遺族の悲しみが表現されます。

ところが、「喪に服する」というのは、肉親の間でだけ行われる方式で、師を失った時の方式というのは、何もないのです。そこで、弟子たちは「心喪(しんそう)三年」ということを思いつきました。それは、師である孔子の死を悼んで父母の時と同様に三年間は喪に服して慎ましやかな生活をする。しかし、あくまでも心の中で喪に服するにとどめて、社会的な活動は人並みに行う。それが「心喪三年」です。

三年の喪が明けた後、弟子たちはお互いに涙を流しながら別れを告げ、それぞれの故郷へ散っていきました。ただ子貢だけは、孔子への悲しみの思いがまだ十分には尽きていないと感じたのでしょう。孔子の墓のかたわらに粗末な仮小屋(盧(ろ))を立て、そこでさらに三年間、あわせて六年間の喪に服しました。「子貢盧墓処」は、子貢のそうした師への真心を記念する場所です。

ちなみに、孔子には3000人の弟子がいたと言われていますが、子貢は孔門十哲の一人です。衛の人で、「論語」の中で孔子との問答が最も多く、聡明で、言葉巧みな雄弁家であり、自信家でした。孔子には聡明さを褒められ、多弁をたしなめられています。一方その雄弁を生かして魯や衛に仕えています。また、機を見て商品を売るのがうまく、莫大な財産を残しました。

宰我は孔子からは十哲の一人として子貢と同じように、言語に優れていると評価されていた門下です。しかし、弁舌の才能があった為に、つい舌が滑らかに動きすぎ、子貢とは異なってかえって孔子から叱られてばかりいたのでしょう。

 

つづく

                                                                                            宮 武 清 寛

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