3041.仁(44)民の仁に於けるや、水火よりも甚だし | 論語ブログ

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仁(44)民の仁に於けるや、水火よりも甚だし

 

子曰わく、民の仁に於けるや、水火(すいか)よりも甚(はなは)だし。

   水火は吾蹈(ふ)みて死する者を見る。

   未だ仁を蹈(ふ)みて死する者を見ざるなり。

   衛霊公第十五 仮名論語2424行目です。

   伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「人民にとって、仁徳は水や火よりも甚だ大切なものである。私は、水や火をふんで死んだ者を見たことはあるが、まだ仁徳をふんで死んだ者を見たことがない」

 

この章では、人々にとって「仁」が大切であるのに、皆無関心である事を孔子が嘆いています。

「子曰わく、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし」・・・孔子の言葉です。人民にとって、仁徳は水や火よりも甚だ大切なものである。「水火は吾蹈みて死する者を見る」・・・私は、水や火をふんで死んだ者を見たことはあるが。「未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり」・・・まだ仁徳をふんで死んだ者を見たことがない。

孔子が、人間にとっての「仁」の大切さを説いたと共に、それを理解しない人々を嘆いている言葉です。人間を人間たらしめる条件である「仁・徳」の重要性と生活に欠かすことのできない「水・火」の重要性を比較して、ややシニカルに仁徳の尊さを教えている章です。

水や火は日常生活で、欠かせないものです。しかし、人を思いやり、愛する心が大切なのだと強調するために、あえて孔子は日常生活に必要な水や火と対比させたのではないでしょうか。

孔子の表現は少々こじつけのようにも感じられないことはありませんが、言いたい気持ち、仁道を説く情熱は感じます。

「水火は吾蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり」。水や火にはまり込んで死ぬ人は見たことはあるけれど、仁愛にはまり込んで死んだ人なんか見たことない、この言い方、いかがですか。

水に誤って踏み込めば溺死しますし、火に誤って踏み込めば焼死するでしょう。だけど仁愛というものにどれだけ踏み入っても絶対に人は死ぬ事はないんだよ。と。

水や火に深く接しすぎて焼け死んだり溺れたりした人は多くいますが、仁徳に深く接しすぎて仁のために自己の生命を投げ出した人は殆どいないというわけです。

仁愛に溢れ、仁愛を以て人がつながり合う、守られる社会というものが、孔子の思い描いた理想の社会だったのでしょう。そのためには、いつと限定する事なく、仁愛はいつでも実践するべきもので、どれだけあってもこれでよいという事はないのです。また人を愛するという事は究極の思いやりではないでしょうか。

 

つづく

                                                                                            宮 武 清 寛

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