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仁(39管仲は仁者に非らざるか

 

子貢曰わく、管仲は仁者に非らざるか。桓公、公子糾(きゅう)を殺して死すること能わず、又之を相(たす)く。

子曰わく、管仲、桓公を相(たす)けて諸侯に覇(は)たらしめ、一たび天下を匡(ただ)す。民、今に到るまで其の賜(たまもの)を受く。管仲微(な)かりせば、吾其れ髪を被(こうむ)り衽(えり)を左にせん。豈(あに)匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)の諒(まこと)を為し、自ら溝瀆(こうとく)に經(くびれ)て知るもの莫(な)きが若くならんや。

   憲問第十四 2103行目です。

   伊與田先生の解釈です。

子貢が「管仲は仁者ではないでしょうね。桓公が公子糾を殺した際、共に死ぬ事ができず、しかも、桓公に仕えて政治を助けたではありませんか」と言った。

先師が言われた。「管仲は桓公を助けて諸侯の覇者(旗がしら)とならせて、天下を救った。民は今に到るまで、そのお陰を受けている。若し管仲がいなかったならば、私達は異民族に征服されて、その風習である髪を振り乱し、着物を左前にしていたであろう。どうしてつまらぬ男女が小さな義理立てをして、どぶの中で首をくくって死に、誰にも気づかれないのと同じであろうか」 

 

続けて管仲が出てきます。ここでは子貢が「管仲は仁者に非らざるか」と尋ねています。

昨日の章で、子路は、「桓公が公子糾(きゅう)を殺し、召忽(しょうこつ)は死んだのに管仲は死ななかった。仁ではないですか」と尋ね、今日の章で、子貢は「管仲は仁者ではないでしょうね」と尋ねました。孔子の答えは子路には、「桓公諸侯を九合するに兵車を以てせざるは、管仲の力なり」。子貢には、「管仲、桓公を相けて諸侯に覇たらしめ、一たび天下を匡す。民、今に到るまで其の賜を受く」です。

管仲は桓公の宰相として、諸侯の覇者とし、「一たび天下を匡す」・・・天下を正しい規準に帰一させました。そうした管仲の恩惠を人々は今に至るまで、受けている。管仲がいたればこそ、その恩惠を周の国々が一つの統一体としてその文明を保持してきているのです。「管仲微(な)かりせば、吾其れ髪を被(こうむ)り衽(えり)を左にせん」・・・もし仮に管仲がいなかったら、今の我々は夷狄の侵略を受けて夷狄の風習となり、まげを結うこともなく髪をうっさばき、右前の着物ではなく左前の着物を着ていたであろう。「被髪左衽」は当時の夷狄の風習なのでしょう。今日、女性の洋服は左前となっていますが、それは西洋の風習です。

孔子の言葉はさらにつづきます。「豈匹夫匹婦の諒(まこと)を為し、自ら溝瀆(こうとく)に經(くびれ)て知るもの莫(な)きが若くならんや」・・・匹夫匹婦はひとりの男とひとりの女が連れ合いになっている状態です。夫婦・カップルで庶民の暮らしという事でしょう。伊與田先生は小さな義理立てと説明していますが、当時貴族には多妻を許されていた社会で、下々の階層である人々が匹夫匹婦であるという、身の証を立てるためにそのあたりの農業用水として引いた水路の中で自殺をして、しかもその死が誰にも知られずに終わるような小さな生き方と比較できようか。と例をあげて言っています。

桓公が諸侯の連盟をつくるのに武力を用いなかったのは、管仲の働きによるものだ。その点からして誰がその仁に及ぼうか、誰がその仁に及ぼうか。

孔子は管仲については、政治家としての面で高く評価しています。特に「管仲がいなければ、私はざんばら髪で着物を左前に着る夷狄(いてき)の風習をしているであろう」という子貢への答えの中の一句は有名です。また桓公を初めて覇者にした功績を高く評価しているのです。

「子貢曰わく、管仲は仁者に非らざるか。桓公、公子糾(きゅう)を殺して死すること能わず、又之を相(たす)く」・・・冒頭の子貢の質問の中に。桓公、公子糾(きゅう)を殺して死すること能わず、又之を相く。とありますが、その事を説明しましょう。

管仲について問題になるのは、小節を捨てて大業を成した事です。それは、桓公に仕えるに至った経緯です。桓公は斉の襄公の子ですが、父の死後公子達の争いがあり、久しく国外に逃亡していました。同じく亡命の公子で外国から帰った兄弟、公子糾を殺して君主となります。その時管仲は公子糾の家来でした、同僚の召忽は主君の難に殉じて死にましたが、管仲はかつての敵将である桓公に仕え桓公の覇業を輔佐したのです。

この章で子路が問題にしたのがその点です。そのようなかつての敵将に仕えるような人物を仁とは言いがたいのではないか、と尋ねたのです。

孔子の答えは、「管仲、桓公を相けて諸侯に覇たらしめ、一たび天下を匡す」・・・管仲は桓公を助けて諸侯の覇者とならせて、天下を救った。でした。桓公の覇業は偉大であり、九度も諸侯を会合させて平和条約を結ばせた。しかもすべて平和な話し合いにより、兵車というような武力を使わなかった。このような桓公の覇業は、管仲の努力による。彼の仁におよぶものが、他にあろうか。と言っているのです。

「桓公、公子糾を殺して死すること能わず、又之を相く」・・・管仲は鮑叔牙との交友「管鮑の交わり」として今に残っています。ここでは管仲が桓公に仕える経緯がよく分かります。

斉の国に管夷吾(管仲)と鮑叔牙(鮑叔)の二人の若者がいました。二人は友人同士であり、お互いの事を知り尽くしていました。管仲は家が貧しく、ある時鮑叔と一緒に商売をし、その儲けの配分で自分の取り分を多くしましたが、鮑叔は文句を言いませんでした。又、管仲は三人の主に仕えて三度とも追い出される、あるいは三回戦に出て三回とも逃げ帰るといった問題児でしたが、鮑叔は彼の行動にはそれなりの理由がある事を知っていましたので、管仲をバカにしたりはしませんでした。

その後、管仲は襄公(じょうこう)の弟・公子糾(こうしきゅう)の守り役に、鮑叔は襄公の弟・公子小白の守り役となりました。襄公はかねてから横暴な振る舞いをしており、その弟たちは後難を恐れて、公子糾は母の実家である魯の国へ亡命し、公子小白は莒(きょ)国へと亡命し、管仲と鮑叔の二人もそれぞれの主人に付いて行っていました。

そうこうしているうちに、襄公は公孫無知(こうそんむち)に暗殺され、代わって斉の君主になった公孫無知も、彼に恨みを持つ、雍林(ようりん)の地に住む男に暗殺されてしまいました。

重臣の高氏と国氏は次の君主に誰を立てるかを議論した結果、以前から自分達と親しんでいた公子小白を莒から呼び寄せ、即位させる事にしました。しかし魯国も公孫無知の死を聞くと、兵を出して公子糾を斉に送らせました。管仲は別働隊を率いて公子小白が斉に向かうのを阻みました。管仲は小白の戦車を見かけるや、彼に向かって矢を放ちました。矢は的を外れて小白の帯止めに当たりましたが、小白はとっさに倒れこみ死んだように見せかけました。管仲はそれを見て仕留めたと思い込み、意気揚々と引き上げたのです。

公子糾と魯の軍は小白が死んだ事を聞くと安心して、ゆっくりと斉に向かいました。小白はと言えば、霊柩車に乗って引き続き死んだふりを続け、斉に急行しました。そして公子糾が斉に着いた頃には、小白は斉公として即位していました。彼こそが斉の桓公です。桓公の軍は、公子糾を連れた魯の軍を追い返しました。紀元前685年春のことです。

その年の秋、斉軍は魯軍と乾事(かんじ)の地で戦い、魯軍を打ち破りました。そして未だ魯に匿われている公子糾の処刑と、その守り役である管仲と召忽(しょうこつ)の身柄引き渡しを求めたが魯の人は思い悩んだ結果、公子糾を処刑しました。召忽は生き恥をさらすぐらいならと自殺しましたが、管仲はこの斉の要求にピンときて、敢えて捕虜として斉に引き渡されることを望みました。

管仲の予想通り、鮑叔は主君に彼を補佐役として推薦しようとしていたのです。桓公は仇に等しい管仲を用いることを嫌がりましたが、結局は「殿が覇者になるには、管仲の力が必要ですぞ」という鮑叔の説得におれ、管仲を丁重に迎え入れ、大夫に取り立てて国政を委ねることにしたのです。

桓公は宰相の管仲の力を借りて、即位後7年にして覇者となりました。春秋五覇の一人で、晋の文公と共に最も勢力がありました。孔子は「正しくて譎(いつわ)らず」と評していますが、私生児の子が多く、桓公の死後すぐ子供たちの王位争いが始まって、桓公の遺体は60日間も放置され蛆がわいたと言われています。

管仲が仕えていた公子糾(こうしきゅう)は処刑されました。これに殉ずる形で召忽(しょうこつ)は死んだのに、管仲は生き残り、結局桓公に仕えることになりました。

私たち日本人の感覚では「忠臣は二君に見(まみ)えず」で仕えないほうが美徳ですが、管仲はなぜ仕えたのかと疑問がわきます。孔子のころの人もそうだったのでしょう。子路と子貢が別々に、孔子に尋ねています。

 

つづく

                                                                                         宮 武 清 寛

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