3012.仁(15)未だ知らず、焉ぞ仁なるを得んⅱ | 論語ブログ

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仁(15)未だ知らず、焉ぞ仁なるを得んⅱ

 

子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)三たび仕えて令尹(れいいん)と為(な)れども喜ぶ色無し。

   三たび之を已(や)めらるれども慍(うら)む色無し。

   舊令尹(きゅうれいいん)の政(まつりごと)、必ず以て新令尹(しんれいいん)に告ぐ。何如(いかん)。

子曰わく、忠なり。曰(い)わく、仁なりや。

曰(のたま)わく、未(いま)だ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。

崔子(さいし)、齊の君を弑(しい)す。陳文子(ちんぶんし)、

馬十乗(うまじゅうじょう)有り、棄(す)てて之を遺(さ)る。

   他邦(たほう)に至りて則ち曰わく、猶(なお)吾が大夫崔子(さいし)がごときなりと。

   之を遺(さ)る。一邦(いっぽう)に至りて則ち又曰わく、猶(なお)吾が大夫崔子(さいし)がごときなりと。之を遺(さ)る。何如(いかん)。

子曰わく、清(せい)なり。曰わく、仁なりや。

曰(のたま)わく、未(いま)だ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。

   公冶長第五 仮名論語577行目

   伊與田覺先生の解釈です。

子張が先師に尋ねた。「令尹(楚の宰相名)の子文は、三度仕えて令尹となったが喜ぶ様子がありませんでした。又三度やめさされても、怨む様子はなく、必ず政務の引き継ぎを丁寧にしましたが、人物としてはどうでしたか」

先師が答えられた。「職務に忠実で私心のない人だ」子張が「それでは仁者でしょうか」と重ねて尋ねた。

先師が答えられた。「まだよく分からないが、どうしてそれだけで仁者ということができようか」

「崔子(斉の大夫)が斉の君を殺した時、陳文子(斉の大夫)は、馬車十乗(一乗は馬四匹)を持つ財産家でありましたが、これを棄てて、他国へ行きました。他国へ行ってみても矢張り崔子のような大夫がいたので、去って別の国へ行きました。そこでも崔子みたいな大夫がいましたので去りました。こんな人物はどうでしょうか」と尋ねた。

先師が言われた。「心の清い人だ」子張は「それでは仁者でしょうか」と尋ねた。

先師が答えられた。「それは分からないが、それだけでは、どうして仁者ということができようか」

 

先日の続きです。先日は前半部分を解説しました。今日はその続き、後半です。

更に子張は言います。「崔子、齊の君を弑す。陳文子、馬十乗有り、棄てて之を遺る」・・・斉の大夫崔子が斉の荘公を殺害した時、同じ斉の大夫であった陳文子は、 馬四十頭もの財産を捨てて斉を去りました。続けて、「他邦に至りて則ち曰わく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を遺る。一邦に至りて則ち又曰わく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を遺る。何如」・・・そして他の国へ行きましたが、ここにも吾が国の崔子のような悪家老がいる。と云って立ち去り、又別の国へ行っても、ここにも崔子のような 奴がいる。と云って立ち去りました。これはいかがですか?と問いました。「子曰わく、清なり。曰わく、仁なりや」・・・孔子は、潔白な人だなぁと言いましたが、子張は「仁者とは云えませんか?」と再び尋ねました。「曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん」・・・。孔子は 、さあどうかな?潔白なだけでは仁者とは云えまい。と答えました。

陳文子は、より近い時代の人物です。「左伝」の襄公二十二年、紀元前五百五十一年、すなわち孔子一歳の年から、襄公二十八年、孔子七歳の時まで、ほとんど毎年、陳文子についての記事が書かれています。文子は諡(おくりな)であり、実名は陳須無(ちんしゅぶ)といいます。

「崔子、斉君を弑す」とは、紀元前五百四十八年の五月、乙亥(きのとい)の日、斉の家老の崔杼(さいちょ)が、その君主の荘公を殺した事件です。「弑」の字の意味は、長上・目上の者を殺すことです。

その時、陳文子は、同じく斉の国の家老として、十乗すなわち四十頭の馬を持つ身分でした。当時は財産を数えるのに、所有する馬の数を以てする習慣がありました。

陳文子はそうした地位にありながら、こうした不潔な国に居るのは耐えられないとし、地位や財産をなげうって、故国を去り、他の国に亡命しました。

しかし、他の国に行っても、斉も国の家老の崔子のやっている事と同じだと言って、そこを立ち去り、さらに又別の国に移りましたが、そこでも同じ事を言って立ち去りました。

これはどうお考えになりますかと、子張が質問をしたのに対し、「清潔である」と答えました。「では、仁といえますか」という、重ねての子張の質問に対しては、「知性にかける、仁とは言えないな」というのが答えでした。

前後ふたつの問答に共通してあらわれるのは、「未知焉得仁」の五字であって、それがこの章の眼目であるに違いありません。しかし、五字の読み方は一定しません。伊與田先生は、「未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん」忠実、清潔ということは確かでも、それだけでどうして仁であるかは分からないと解釈しています。朱子の新注の説でしょうか。

実は「左伝」によりますと、陳文子は、崔杼が斉の君を弑逆して後も、斉の国の政治に預かっているようです。この章とはやや矛盾する記載です。真実は私には分かりません。

最後に「子曰わく、清なり。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん」・・・先師が言われた。「心の清い人だ」子張は「それでは仁者でしょうか」と尋ねた事に孔子は答えました。それは分からないが、それだけでは、どうして仁者ということができようか。と。ここでも「仁」に付いては厳しく「仁者」としては認めていません。

「仁」の概念が弟子達には何とも掴みづらかったようで、論語に中では五十箇所以上も仁についての問答がありますが、孔子自身「仁とはこうだ!」と明確に定義してはいません。「人を愛す」・「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」・「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」・「己に克ちて礼に復かえる」・「言や忍ぶ」等々、弟子達の性格に合わせて、手を変え品を変えて「~のようなものだ」と隠喩を用いて語っています。

仁の隠喩の極め付けは、衛霊公第十五の「志士仁人(使命に目覚めた者)は、生を求めて仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すこと有り」と、あたかもイエスキリストの生涯を予言するかのようなことを云っています。仁とは月並みな言葉で云えば、「与えっぱなしの愛」・「見返りを求めない愛」・「利他の愛」・「無前提、無条件の愛」とでも云ったらよいのでしょうか。

これを五段階に分けて、第一段階「孝悌」~第二段階「恭敬」~第三段階「忠敬」~第四段階「寛恕」~第五段階「忠恕」と、分かり易いよう段階に分ける考えもありますが、孔子の云う「仁」とは、もっともっと奥が深くて、人間の言葉では翻訳しきれないのかも知れません。

仁とは「不立文字」で、言葉や文字では表現しきれないもののようです。「イエスキリストの愛を説明してみろ!」と問われて、誰も答えきれないのと一緒ですね。

孔子の「仁」を解明できたら、思想界のノーベル賞ものではないでしょうか?しかし、仁とは観念的に伝々するものではなくて、感得・体現しなければ何にもならないもののようです。

だから孔子は「~のようなものだ!」と、弟子達が実践できるよう、一人一人違った喩えを引いて説いたのでしょう。

孔子の云う「仁」は深遠で、仁とはこうだ!と明確に定義することはできません。一番無難な解釈は「思いやり」或いは「慈しみ」とするものですが、朱子は「天道の発現体」つまり、天の意志(道)が発現したものと云っています。釈迦は「一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)」・生きとし生けるものはすべて仏性(神仏の種)を宿している、と説いていますが、この仏性が仁に相当すると考えて良いかも知れません。

 

つづく

                                                                                           宮 武 清 寛

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