仁(13)子路仁なりや
孟武伯問う、子路仁なりや、子曰わく、知らざるなり。又問う。
子曰わく、由や、千乗の國、其の賦を治めしむべきなり。其の仁を知らざるなり。
求や何如。
子曰わく、求や、千室の邑、百乗の家、之が宰たらしむべきなり。其の仁を知らざるなり。赤や何如。
子曰わく、赤や束帯して朝に立ち賓客と言わしむべきなり。其の仁を知らざるなり。
公冶長第五 仮名論語51頁5行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
孟武伯が尋ねた。「子路は仁者でしょうか」
先師が答えられた。「仁者であるかどうか分かりません」また同じことを重ねて尋ねた。
先師が言われた。「由は千乗の国の軍事を司らせるだけの能力はありましょう。
然し仁者であるかは分かりません」
孟武伯は次に「求(冉有の名)はどうでしょうか」と尋ねた。
先師は答えられた。「求は千戸の邑か百乗の家の執事なら十分任務を課せましょう。然し仁者であるかどうか分かりません」
更に「赤(公西華の名)はどうでしょうか」と尋ねた。
先師が言われた。「赤は正装して朝廷に於いて、来客の応待をさせることはできます。然し仁者であるかどうかは分かりません」
ここ章では、孟武伯が子路は「仁者」でしょうか。と質問しています。
又、子路に続いて、求「冉有」と赤「公西華」のことを言っています。
「孟武伯問う」孟武伯は魯の大夫。孟懿子(もういし)の子。名は彘(てい)。武は謚(おくりな)です。伯は字でまた長子のことです。哀公15年(前480年)に父の後を継いだが贅沢で、わがままな振る舞いが多く、また健康には恵まれませんでした。季康子とともに哀公を亡き者にしようとねらい、それを知った哀公も孟武伯を滅ぼそうとしたのですが、果たせず、哀公は亡命します。一方では孔子に孝を問うています。
「孟武伯問う」・・・孟武伯が質問しています。「子路仁なりや」・・・子路は仁者ですかと。「子曰わく、知らざるなり」・・・孔子は存じませんとお答えしたので、「又問う」・・・孟武伯はまた繰り返し尋ねた。
「由や、千乗の國、其の賦を治めしむべきなり。其の仁を知らざるなり」・・・子路は大諸侯の国で、軍事などの政治を扱わせるだけの腕前は十分ありますが、仁者かどうかは存じません。と孔子は言われた。
「求や何如。子曰わく、求や、千室の邑、百乗の家、之が宰たらしむべきなり。其の仁を知らざるなり」・・・それでは冉求はどうですかと尋ねた。求は戸数千戸の大村や、兵車百乗を出す大夫の家の長官たらしめることはできますが、彼が仁者かどうかは存じません。と孔子はお答えした。
「赤や何如。子曰わく、赤や束帯して朝に立ち賓客と言わしむべきなり。其の仁を知らざるなり」・・・それでは公西赤はどうですかとまた尋ねた。孔子は赤は衣冠束帯の礼服で朝廷に立ち、外国から来たお客様に応対させることができます。礼に通じた人物であるが、彼が仁者かどうかは存じません。と孔子はお答えしました。
「仁」とは、思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうことです。そして、「仁」をもって最高の道徳であるとしており、「仁者」は、仁の徳を備えている人の事です。または儒教の説く「仁」を実践する人。また、仁の道に到達した人の事です。
「仁」は日常生活から遠いものではありませんが、一方では容易に到達できぬものとしています。したがって「仁者」であるとは容易に認められなかったのでしょう。
この章は孔子が遊説から帰国したころの話で、時に孔子69歳、子路60歳、冉求40歳、公西赤27歳でした。
孟武伯の仁者であるかの問いに孔子は「知らず」と答え、三人の政治上の力量を答えたのは、「仁」とは孔門の最高の徳目で、各自の努力で身につけるべきもので軽々に批評すべきでない事、次に三人の政治的力量に比して、魯の大夫としての孟武伯の政治能力が劣っている事への反省を求める気持ちが孔子にあったのではないでしょうか。
つづく
宮 武 清 寛
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