3008.仁(11)過を観て斯に仁を知る | 論語ブログ

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仁(11過を観て斯に仁を知る

 

子曰わく、人の過や、各々其の党に於いてす過を観て斯に仁を知る。

   里仁第四    仮名論語40頁です。

 伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「人の過ちは、それぞれの仲間や心がけから出るものである。従って過ちの内容を見て、その人の仁、不仁がわかるものだ。」

 

「仁」は、「過を観て斯に仁を知る」とこの章では出てきます。

過ちの内容を見て、その人の仁、不仁がわかるということです。

私達は何かに失敗すると大きく傷つき、落ち込み、自信を失ってしまうものです。

私達が何かの問題にぶつかる時、その裏側には過去の失敗感が大きく影響している場合が少なくありません。仕事でも人間関係でも、過去に「これをやって失敗してしまった」という経験は私達の行動に二の足を踏ませます。

特に失敗感は惨めさや屈辱感、恥ずかしさ等、とても感じたくない感情を伴う事が多いですから、私達にとって見たくない過去の痛みとして封印される事も多いのでしょう。でも、幼い子供が立って歩こうとする時、自転車に初めて乗るとき、失敗しても失敗しても何度も立ち上がろうとします。そして、失敗を繰り返しつつも、やがては上手に歩き、自転車に乗れるようになっていきます。何度も何度もチャレンジし、失敗するたびに、新しい事を学び、成長する事で手にしたものとも言えるのです。

誰でも大人になれば大きな失敗の一つや二つは持っているものかと思いますし、中には「失敗の連続でいやになってます・・・」と溜息混じりにお話される方もいらっしゃるものですが、改めてこの痛みを見つめて行く事で、新たに得るもの、今の自分にとって糧になるものが少なくないと思います。

論語には今日のような章があります。

「子曰わく、人の過や、各々其の党に於いてす。過を観て斯に仁を知る」・・・人の過ちは、それぞれの仲間や心がけから出るものである。従って過ちの内容を見て、その人の仁、不仁がわかるものだ。

人の過ちを観察していると、どうも、人それぞれの過ちの犯し方の傾向が見えてきます。過ちにも人それぞれの癖があるようです。過ちを繰り返さない為には、自分の癖を見出し、それによって過ちを予防できるのです。また、人を知るには、その人の過ちの犯し方を観れば、その癖がわかり、人格もわかるという事です。

また、人民の過ちというのは、それぞれが住んでいる土地・郷党の風俗・文化によるものです。人民の過ちを見れば、その土地の仁の徳による教化・民度がどこまで進んでいるのかが分かるのです。

古代中国では、各地域に散在していた地方共同体・村落の事を「郷党」と表現し、大多数の人民は、郷党で生まれてその土地の文化慣習の中で教育・躾を受けてきました。荻生徂徠の解釈では、この章の「党」は「郷党・村落」の事であり、孔子は人民の道徳的な過失のあり方を見れば、その郷党・村落の文化水準・作法や道徳的な過失のあり方を見れば、その郷党・村落の文化水準・礼儀作法や道徳的な教化の程度を推測できるとしています。無知な人民が、仁徳に背いた酷薄な振舞いや無道な犯罪を行う場合に、為政者は非道な行いをした個々の人民を処罰してもあまり意味がないといいます。徳治主義の儒教では、何が善で何が悪かの道徳を理解していない民度の低い人民には、「法律による処罰」ではなく「学問による啓蒙教化」が効果的だと考えます。為政者は、各地の郷党に道徳的な教化を与えるような政治・教育を自ら率先垂範して心かけないといけないのです。

 

つづく

                                                                                            宮 武 清 寛

                                                                                              論語普及会 

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