2999.仁(2)巧言令色鮮なし仁 | 論語ブログ

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仁(2)巧言令色鮮なし仁

 

子曰わく、巧言令色鮮なし仁。

   学而第一 仮名論語25行目です。

   伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「ことさらに言葉を飾り、顔色をよくする者は、仁の心が乏しいものだよ」

 

「巧言令色鮮なし仁」・・・巧妙な飾りすぎた言葉、たくみな顔色、という事柄、ないしは、そういう事柄をもつ人物の中には、「仁」真実の愛情の要素は少ない。とこの章では言っています。

「論語」の中にはくり返し出てくる言葉も少なくありません。この章のようにまったくおなじ句が、この学而第一と陽貨第十七に出てきます。よほど孔子が口癖のように言っていた言葉だと思われます。

「巧言令色鮮なし仁」というのは有名な言葉ですが、口さきがうまく顔つきがよいということが、どうして仁徳が少ないということになるのでしょうか。ただ、「巧」は元々材料を折り曲げてうまく細工するという意味ですから「巧言」はただうまい言葉。美しい表現と言うだけではなく、細工された言葉という意味もあるのです。

普通なら「仁鮮矣」(仁はすくない)となるところ、「鮮矣仁」(すくなし仁)とひっくり返すのは、本当に少ない、と強調したのです。「あいつはだめだ」「だめだ、あいつは」この二つの違いでしょう。

「鮮」の字の意味は、前の章の「鮮」の字と共に、「少」です。「鮮」と「少」は同じくSを子音とし、互いに音を類似させる単語ですが、音を類似させる語は、しばしば意味をも似かよわせています。

鮮は少ないことで、無ではありません。孔子は断定するような言い方は好みませんでした。注釈家の中には、鮮を絶無に近い表現とする人をいるようですが、孔子の門弟の中には弁舌が巧みな子貢がいます。孔子はいつもその弁才を戒めていましたが、絶無と言おうとして、子貢のことを思い出して鮮と言い換えたのかもしれませんね。

「巧言令色鮮し仁」巧言とはお世辞のこと、令色とは相手に気に入られようとして作り笑顔することですが、そういう人に限って誠実さがないと孔子は教えています。

周りに迷惑をかけている人を見ても、注意や指摘もせずにその人に調子を合わせていたりします。事を荒立てたくない、或いはその人に嫌われたくないという思いが先に立ち、慮った態度で相手に調子を合わせています。

そういう人達はよく「是々非々」で判断をすると話しています。良いことは良い、悪い事は悪いと素直に物事を捉えて判断しなければならないと日々話しています。しかしよく観察すると「是々非々」の判断ではなく「巧言令色鮮し仁」の判断に陥っていることがわかります。単に相手に嫌われたくない一心で調子を合わせている姿はまさしく「巧言令色」であり「仁」という思いやりの心がないことに気付かされます。

駄目なことを駄目と相手に伝えることをしない為に、なお罪が深いですね。何故なら駄目な行為を肯定しているかのようにその人に勘違いをさせてしまうからです。

私達は「巧言令色鮮なし仁」という行為を無意識のうちにやっているのかもしれませんね。本当の「仁」とは何か本当の「思いやり」とは何かを深く教えていただいたける章句です。

「巧言令色鮮し仁」の類義語(類語)に、同じく『論語』を出典とする「巧言乱徳があります。「巧言は徳を乱る」とも読みます。

衛霊公第十五 仮名論語238頁7行目です。

子曰わく、巧言は徳を乱る。小、忍ばざれば、則ち大謀を乱る。

   伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「口の上手な者は、徳をそこない、小さいことを忍ばなければ、

大きな計画をやりそこなうことになるものだ」

巧みに飾った言葉(巧言)は、人の心を惑わして徳を乱す(乱徳)という意味で、「巧言令色鮮し仁」と同じ意味の教訓です。巧みに飾った言葉には誠意がなければ人からの信頼を失う、あるいは信頼を失うことによって道を誤る、といった意味も含んで用いられます。

孔子が大切に説いた人の徳についての考え方が、「巧言令色鮮し仁」や「巧言乱徳」からうかがい知ることができます。

また、これを裏返したとみられるのは次の章です。

子曰わく、剛毅木訥仁に近し。

   子路第十三 仮名論語1987行目です。

   伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「剛(物事に恐れず、立ち向かう強さ)、毅(苦難に忍ぶ強さ)、木(質実で飾らない)、訥(口数は少ない)なのは、最高の徳である仁に近い」

「剛毅木訥」一本気で無骨・真っ正直で飾り気の無いあり方が仁徳に近いと言っています。「剛」は無欲、「毅」は果敢、「木」は質朴、「訥」は遅鈍、と四字に分けて解釈するのが古注(古い注釈)ですが、剛毅と木訥とは、熟した言葉になっています。「剛毅」とは、意思が強く何事にも屈しない心持ちのことで、「朴訥」とは、飾り気がなく素朴で無口なことを意味します。

孔子はこんな人の方を好んだのです。「巧言令色、鮮なし仁」であって、むしろ「木訥」であることを孔子は善しとしたのです。

強い心を持ち、無口で素朴な人が道徳の理想である仁の精神の持ち主であると孔子は考えていました。

このような価値観は、合理的な西洋の精神が流入するより以前の日本人の考え方とも共通していたといえます。

 

つづく

                                                                                             宮 武 清 寛

                                                                                               論語普及会

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